知る
前世を語る人は時折見かける。
分かる人には分かるのかも知れないが、私には全く分からない。前世なぞというのは、あくまで概念であって、果たして本当にあるもののかどうかも怪しいとさえ思ってしまう。あれは物語の題材に使うか、占いの一貫としての存在、場合によっては詐欺の手段だと思ってさえいる。
広い世界で、私が知らない事の方が圧倒的に多いのは分かっている。だから、この考えが正しいと思っていないし、前世という考えを否定する気は微塵もない。
では、なぜこんな話をしているのか。
というのも本題は、ここからが私の独り言になる。
もしも、仮に前世というものが存在し、前世の記憶というものが人々の中に残っているとしたならば、もっと上手く立ち回って生きる事ができるのではなかろうか。
言うなれば、前の、またはそれより前の自分の経験や知識をフル活用し、そこに今の自分が得たものを加えれば、もっと沢山の可能性を見出せるはずである。複数人分の記憶、経験、知識があれば、1人分で生きるより、ずっと多くのものを持っていることになる。
例え前世で失敗した事でも、次は、今世こそは、もっとうまくことを運べるよう動けるだろう。
しかし、あくまでそれは前世が存在し、全記憶を持ち合わせていた場合の話であって、現実にそれは難しいだろう。
しかし、前世が実在しなかったとしても、擬似的であれば、似たような事は可能である。そしてそれは、ほとんどの人が知っている方法だろう。
「学ぶこと」、これに尽きる。
誰かの大発見、誰かの大失敗、誰かの思考、誰かの反論、誰かの空想や妄想、どんなに下らないと思われることであっても、色んな事を知ることになる。
今の自分に何の役に立つだろうかと思う内容でさえも、よく考えれば、自分だったら絶対にない経験をした人が結果を教えてくれるのだ。
本も同じく、読めば、生きている人も亡くなっている人も関係なく、時代も環境も全く違う人が思考や見聞きしたものを教えてくれているも同然だ。
こんなにも面白いツールはきっと他にない。
前世があろうとなかろうと、誰かが得たものを自分に取り込めば活用出来る。直接それが活かされることはないかも知れないが、それは全て今後の自分の為になる。
勉強の意義なんて、そんなもので良いんだと思う。
私は昔から、「なぜ勉強しなくてはいけないのか」という疑問を持った事がない。
苦手な教科は沢山あるし、覚えてないものの方がきっと多いけれども、「今の自分に無いものを知る」という感覚だけはあった。テストは本当に苦手で平均点をちょっと超えられれば良い方くらいだった。授業は苦手な先生もいたし、寝たこともよくある。
理解できない事も多くあったが、それでも何かを知ることは嫌いじゃなかった。
今振り返ると、知る機会が設けられているというのは、ありがたいことと思う。
勉強は点数の高さを競うためにあるものじゃない。
自分の知らない物事を知り、未知の未来でいつか応用するためにある。未曾有の大災害だって、過去の経験から対策を練って策を練る。
「知っている」は次につながる大事な一歩で、「知らない」は「知る」為の余白なのだろう。
「知る」には無限の可能性が秘められている。




