物語体験 【月夜譚No.90】
小説の書き出しに引き込まれた。表紙を捲って一行目を読んだ途端、本を持った手から吸い込まれるように身体ごと引っ張られたのだ。
瞬間、目の前が真っ白になって何も見えなくなり、気がついた時には見も知らぬ石造りの建造物の前にいた。所々の壁が崩れ落ちたそれは廃屋のようで、中を覗くと背の高い雑草が蔓延って、屋根の穴から陽が差し込んでいた。
その光景は正に、今し方読んだ小説の冒頭そのままだった。だから、本の中に引き込まれたのだと知るのにそう時間はかからなかった。
だが、それを信じられるかというと話は違う。こんな非現実的なことが自分の身に起こるなど、到底あり得ない話だ。しかし実際に目の前で事が起きている以上、これが夢であるとするのが妥当なところだろう。
彼は一つ頷くと、腰に手を当てて何処までも青い空を仰いだ。さて、この夢から醒めるにはどうしたら良いだろうか。ゆっくりと考えることにしよう。




