三立目「届かぬ矢は飛ばさぬが如し」
じきだん達が先輩に怒られてせかせかと準備をしていた頃、一人の女が工学部研究棟の廊下を歩いていた。白のブラウスを背景に長く伸ばした黒髪が足音と共に跳ねるが、その跳ね具合は陸に打ち上げられしばらくした魚のようにしょんぼりとしていた。
「はぁ、なんで私から言わなきゃ...」
監督に任せられた仕事の面倒くささに、千本弦音はため息をもらす。
今年で二十歳になる弦音は、名もない工学部弓道部のマネージャーを務めている。といっても大会も何もないこの部にとって競争意識、ましてや調整なんてする事もないため、職務はお飾りとなり普通に部活に混じっているだけの人であった。
そんな自分の初めてのマネージャーらしい仕事が大会出場をかけた試合をみんなに告げる事とは、思ってすらいなかったのだ。
仲良くなって一緒に入った友達は、もうこの弓道部にはいない。それでも弦音がこの部に残っているのは、少なからず理由があるからだ。
弦音は、弓道というものにまだ未練があった。
高校時代、彼女は山形のとある強豪校で弓道をしていた。といってもメンバーに入るほど上手かったわけでもないし、弓道に対する情熱がある方でもなかった。
それでも、高校三年のとある試合で当時調子の良かった弦音は三番的を任される。しかし結果は八射四中の半矢、ニ立の合計の結果でチームは二本の差で決勝リーグに残ることが出来なかったのだ。
チームの中に不調な者もいたため自分のせいというわけではなかったが、その時のチームメイトの言葉が強く刺さった。
『あーあ、あとニ中してたらなぁ』
その言葉が今まで情熱を注いでいなかった自分に向けて言っているような気がして、弦音は深い後悔を覚えた。今まで自分のせいで誰かの努力が報われなかった事が無かったからだ。
(もう少し頑張っていたら、変わってたのかな...)
そう思っても時既に遅く、高総体のメンバーに入る事は叶わなかった。それでも努力の甲斐あってか、マネージャーとしてメンバーに付き添い、手伝う役職に就く事は出来た。
最後の最後に火が点いて、不完全燃焼に終わってしまった弓道を、弦音は大学で続けようと決心した。しかし不遇にも国公立の大学に落ち、滑り止めでこの聖ジェイコブ学院大学の工学部に進学したのだった。
それで弓道部に入ってみたら、このザマである。
最初こそ色々な策で漫画の委員長キャラみたいに真面目な方向に向けようとしたのだが、いつの間にか心の炎は鎮火してしまった。みんなと共に惰性の弓道を続ける毎日を送っている事を、弦音は理解しながらも流されている。
それでも弓道部に入っているのは、一種の自己肯定だ。
弓道から完全に離れてしまってはあの日後悔した自分を完全否定し、チームのみんなに責任転嫁をすることになってしまうのではないか。そんな恐怖が消えないまま、弦音はこの部を辞める事を躊躇っているのだった。
(一年前の私なら、きっと喜んでたんだろうなぁ...)
惰性のうちに灯火を消した自分の弓道には、もう誰かと争い栄光を目指す資格はない。諦めというか、ほんの一瞬でも本気で弓道をしたからこそ、真面目にやってる人に失礼だと弦音は感じてしまう。
(うちの部でそんな資格があるのは、大前先輩と葉木君くらいかな...あと一年生にいればだけれど)
成績が残せない以上、やる気にも天井がある。天井が高く伸び伸びと弓道をしていた他学部とは差をつけられているだろう。
結局はこの試合もほとんど意味のないものになってしまうような気がしてしまう弦音も、惰性ながら弓道場へと足を運ぶ事にした。
普通試合は五人組で行い、一人四射の計二十射を「一立」とします。
個人でも団体ででも、半分 中る事を「半矢」という...はずです。