天秤
月光は完全に遮られ、星も全く見えなくなった。
代わりに夜空に浮かぶのは、散らばった黒い雲と、その間を埋め尽くす龍の巨躯。
「ラヴァル!無事か!?」
空を覆うヴリトラを睨みながら、教師証を掴んで叫ぶ。
[……コテツ、か。]
すると、傷だらけの吸血鬼の立体映像が教師証の上に浮かび上がり、その返事に俺は小さく安堵した。
[無事ではないが、生きてはいる。私の事はいい、アリシアはどうなった?]
何かに寄りかかるような姿勢で空を見るラヴァルが問い、俺はそれにゆっくりと頷いて返した。
「……なんとか、生きてるよ。」
余計な心配はかけたくない。
[フッ、そうか。]
すると彼は目元を腕で隠し、微かな笑みを浮かべた。
「ああ、お前とツェネリのおかげでな。それでラヴァル、まだ戦えるか?」
[そうだな……魔法陣による後方支援ならば、任せたまえ。]
やっぱり、戦うのは厳しいか。
「お前以外は?」
[今すぐに、とは行かぬだろう。……ツェネリとバーナベルはどうにか命を繋ぎ止めたところだ。そしてカダは……。]
と、そこで言葉を切り、ラヴァルは目を閉じて首を振った。
「そう、か。」
……無駄にする訳にはいかない。
ただ、こうなるとやっぱり一人でやるしかないか。
しかし、俺の双剣じゃあヴリトラを倒せない。そうなると……やっぱり持てる神器を総動員するしか方法は浮かばない。
「……分かった。じゃあ散らばった神器を集めておいてくれ。今からそっちに向かう。」
[フッ、空のあれを見てなお、逃げぬか。]
「くはは、逃げたいさ。でもそうも行かない。……頼んだ。」
ホログラムが頷くのを確認して教師証から手を離し、今度は指輪を口元に寄せる。
「サイ、預けてた神器をこっちに送れ。」
[はっ。]
指示し、手を降ろした直後、長剣と短剣が石の床に落ちて高い音を立てた。
これらを含め、集めた神器のどれか一つでも扱う心得が俺にあれば状況はまた違ったんだろうなぁ。
「はは……ったく、こいつらの扱いをバーナベルにでも習っておくべきだったな。」
自嘲気味に笑い、屈み込みながらそれぞれの形に合わせた鞘を作成。魔剣グラムを斜めに背負い、神剣ムマガカマルを腰の後ろに帯びる。
さて、あとは……。
「ネル、あの魔力増強のポーションはまだ持ってるか?」
背後を振り返り、アリシアを抱いたネルに聞く。
「カダ先生印の?「ああ。」ある……けど。」
「譲ってくれ。」
彼女の目の前まで歩いて膝まずき、ネルの瞳を見返して、俺は開いた右手の平を彼女へ差し出した。
「でも、渡したら、戦いに行っちゃうんでしょ?そんなに、怪我したまま。」
「ネル、頼む。アリシアを助けるにはあいつを倒すしかないんだ。」
言うと、ネルの揺れる瞳が一瞬アリシアへ下ろされ、もう一度俺を見返した。そして辛そうな表情を浮かべると、彼女な震える手で自身のポーチを探り始める。
その探る手の動きがふと止まったかと思うと、スッ、と彼女の目が伏せられた。
「……ボクも、行く。「ネル。」ヴ、ヴリトラと直接戦ったりはできないだろうけど、それでも、何か必要になったときとか、ほら、ボクは脚が速いし、きっと何か役に立つことが「ネル!」……ッ!」
捲し立てられたネルの言葉を語気を強めて遮り、右の指先で顎を軽く突いて、濡れた瞳に俺を再度映させる。
「ありがとう。でもな、お前にはアリシアといて欲しいんだ。そうしないと俺は安心して戦えない。」
ポーチからネルの手が出た。
細い指につままれているのは、澄んだ青色の液体が入った小さなガラス瓶。
「……死なないで。」
囁いて、ネルが小瓶を俺の右手に乗せる。
「くはは、なに、大丈夫だ。相手はただのでっかい蛇なんだぞ?」
対して安心するよう笑ってみせ、そのポーションを掴もうとするも、ネルはまだそれから手を離していなかった。
「ネル?」
「あ、う、ううん、何でもない。」
呼ぶと、少し呆けていた彼女は首を振って手をはなし、するとそこでまた別の手が伸びてきて小瓶を掴んだ。
「「アリシア?」」
「けほっ、私に、飲ませてください。思い付いたことが、あるんです。」
「待って、確かにそれで魔力は一時的に強化できるけど、しばらくしたら反動で魔力が元よりずっと弱くなるんだよ?本当に魔欠病なら、飲んじゃ駄目だよ。」
「でも……。」
すかさずネルに諌められ、それでも諦められなかったか、アリシアは今度はこちらに目を向けた。
「……何を思い付いたんだ?」
「コテツ!?」
見開かれた目が俺を向く。
「まぁ、聞くだけ聞こう、な?」
「う……分かった。」
俺が言うとネルは押し黙り、対してアリシアは柔らかく笑った。
「ふふ、ありがとう、ございます。……それで、ですね。コテツさん、コテツさんの胸に魔法陣を刻ませてください。」
「魔法陣?」
繰り返すと、アリシアは深く首肯した。
「はい、この前治療室で見せた、私の回復魔術の魔法陣さえあれば、コテツさんもあの古龍ヴリトラのように、どんな大怪我でも治せるようになる筈です。」
この子が見たのはヴリトラの不死性による傷の再生な気がする。……でも存外、悪い案じゃないな。
「……本当にできるのか?」
できるのなら、ただでさえ大きい敵のアドバンテージを一つ潰すことができる。
「はい。……ただ、体に魔法陣を刻んで定着させる、とういうのは過回復で癒えない傷を作るということですから、きっととっても痛いと思います。コテツさんか泣いちゃうかもしれません。」
「くはは、そうか。」
真剣な顔に似合わぬアリシアのほんわかした言葉に、思わず笑いが漏れた。
「ギリャァァァァァァァァァァァァァァ!」
頭上から再び咆哮が上がり、俺達三人は同時に身を強張らせた。
『このままじゃとヴリトラが焦れて城をブレスで破壊するぞ。急がんか。』
なんだ?話しかけてきたって事はアリシア生贄にするのを諦めたんだろうな?
『諦めてはおらん。』
だったら……
『じゃが、わしとて信徒に死んで欲しい訳ではないわい。それを避けられる手段があるのであれば、当然それを取る。アリシアを生贄にせよと言うたのも、より多くの信徒を贄に差し出されるよりはマシと……』
そのことはもう口にするな!
ったく、何にせよ、時間がないんだな?
『うむ。』
「……やってくれ。」
言い、アリシアの体をゆっくり起こさせる。
「はい!」
良い返事だ。
「待って!せめてもっと弱めのポーションを使おう?アリシアの体が副作用に耐えられるか分からないんだから。」
するとネルが慌てたように言いながらポーチから薄い青のポーションを取り出し、しかしアリシアは首をしっかと横に振った。
「……ネルさん、心配してくれて、ありがとうございます。けほっ、でもこれを確実に行うには、いつもの私よりも、うんと強い魔力が必要なんです。」
「でも……。」
「ポーションの副作用が出る前にヴリトラをやっつけて魂片を手に入れれば良い話だ。それで万事丸く収まるさ。」
「コテツまで……。」
まだ納得し切れていないネルへ言うも、彼女の顔はそれでも晴れない。
「ネルさんごめんなさい。けほっ、では、行きます。……んく。」
言って、アリシアはカダ印の小瓶を喉に流し込んだ。
「うぅ!」
途端、その体が震え、手からガラス瓶が落ちてカラカラと転がる。口元を両手で強く抑えたアリシアが涙を流して俺を見上げた。
「「アリシア!?」」
倒れそうになった彼女との体をネルと二人で慌てて支える。
まさか薬の効果そのものに耐えられないほど弱ってたのか!?
「……美味しく、ないです。」
しかし少しして聞こえてきたのは、何とも平和な言葉。俺とネルは目を見合わせ、拍子抜けした表情で小さな笑いを漏らした。
「じゃあ後で何か甘い物を食べような。……行けるか?」
「はい!」
聞くと、彼女は見慣れた元気な顔で頷き、そっと俺の胸に触れた。
「……コテツさん、絶対、勝ってくださいね。」
「ああ。」
その指先から白い光が迸った。
爺さんの案内に従って走っていると、黒ずくめの集団が近づいて来た。
激しい光の明滅が見える。そしてそれに伴って腹に響くような重い音が立て続けに鳴っているのが分かった。
……ラヴァル!
気配と足音を消したまま走る速度を上げ、ロングコートの中から聖なる双剣を抜いた。
一様に桃色に輝く目から、ここにいる敵がヴリトラ教徒ではなく、全て奴隷だと気づくまでそう時間は掛からなかった。
まぁだからと言って、切り伏せることに躊躇はしない。殺らなければ殺られるし、何よりそんなことをやってる暇がない。
そうして死体がそろそろ両手を越えようとしたとき、ようやく中心の様子が見えてきた。
外から見え、聞こえた光や音の正体は、展開された半球型の結界への、全方位からの魔法の集中砲火だった。
その結界の中心には片膝を付き、片手を地面に描かれた――おそらく結界を維持するためである――赤い魔法陣に押し当てる傷だらけの吸血鬼。
それを黒衣の奴隷商が腕を組んで退屈そうに眺めていた。
「いい加減、諦めてはいただけませんか?」
「フッ、答えは分かっているだろう。」
カイルの言葉に、ラヴァルは焦りを全く感じさせない表情で笑い返す。
しかし余裕のある口調とは裏腹に、その衣服はあちこちが裂け、破れ、覗く中身は鮮やかな赤で濡れている。
転移陣か何かを使って逃げれば良いのにそうしない理由は、結界の中にある武器の束や横たえられた2つの体を見てすぐに分かった。
「貴方に勝ち目はありませんよ。そろそろこの結界ももたないでしょう。」
「フッ、何を言うかと思えば。これは既に十分にもってくれた。」
そこで、ふとラヴァルと目があった。
彼もこちらに気付いていたらしい。
「何を……ッ!?」
相手の言葉の意味を理解できずにいたカイルは、直後、真後ろで鳴った鈍い金属音に勢い良く振り返り、間近に迫っていた俺の姿に目を見開く。
「貴方は!」
「ちゃんと守りは固めてるのか。そこは商人らしいな、チクショウめ。」
首を刎ねんとした龍泉を刀に阻まれた俺は、そう悪態をついて飛びずさった。
「ごめん、なさい。」
その刀の使い手――ルナが辛そうな表情のままカイルと俺の間に立って刀を構え直すと、さらに長剣を持った大男が2人、彼女の左右に立った。
「……貴方もまだ戦うつもりですか?上をご覧になればそれが無駄であると……「知ったことか!」く!?」
落ち着きを取り戻したらしいカイルが3人の壁の向こうから何やら言い、しかし今の俺にそれを大人しく聞いてる暇はない。
目の前の三人とやり合う時間すら惜しい。
地面を蹴り、同時に投げナイフを3人それぞれに一本ずつ投擲するも、それらは構えられていた得物で難なく弾かれる。
「彼らは私の奴隷の中でも特に腕が立ちますよ。いくら貴方でも、ルナベインを気に掛けながら戦うことは……なっ!?」
それを見て、また話しだしたカイルの得意気な顔は、自慢の三人が武器を振るった体勢のまま動かなくなったのに気付くと口を開いたまま固まった。
「ごめんなルナ、でもまともに相手してやる時間がない。」
通り過ぎざまに言い、体の各所をワイヤーで縛られたルナの横を走り抜け、後ずさるカイルを追う。
桃色に目を光らせた奴隷達が――本人の意志かはともかくとして――身を呈して主人を守ろうとするのを黒銀を発動して強引に突破。掴んできたり武器を振るったりしようとする腕は一つ残らず切り飛ばした。
ようやく、カイルが俺の間合いに入る。
「この中には、あなたの交流したヌリ村にいた奴隷も……。」
「だったらそいつらのためにもお前を殺してやらないとな!」
最後の足掻きで俺の情へ訴えようとしたカイルに大声でそう返し、振るった龍泉は彼の腹部を斜めに大きく切り裂いた。
……浅い。
「うぁぁぁっ!」
腹から血を流し、倒れたカイルは体をくの字に曲げてその激痛に悶え始めた。
口角が上がるのが自分で分かる。
「……殺せてここまで嬉しいと思う奴はお前ぐらいだろうよ。」
言い、背後から追ってくる奴隷達との間に大きな障壁を作り上げ、龍泉をくるりと逆手に持ち直した。
「ぐ、ヴリトラの、一部となり、貴方を必ず、惨たらしく、泣き叫ぶまでいたぶって、殺してやる!」
「そうかい、頑張れ。」
睨んでくる彼の腹の傷を右足で踏み付け、龍泉を振り上げる。
「ぐぁぁぁっ!?……くく、貴方の助けたアリシアも、所詮奴隷の子だという立場を、体に十分に教えこんで……。」
「ッ!」
ギリッと口の中で鈍い音がし、血の味がしたと思った瞬間、俺は中華刀ではなく、右足の踵をカイルの口に振り下ろしていた。
悲鳴は、口を塞がれたことでくぐもった。
そのまま彼の黒ローブの下から大きめのポーチを取り出し、中にあった紙の束を全て掴んで抜き取る。
奴隷に命令を下すには契約書なる物が必要らしい。ここに集まる彼らも例外ではあるまい。
だから予想通りなら、この紙の一枚一枚がここにいる全員を縛る契約書だ。そしてカイルの商法からして、彼をうらんでいない奴はまずいないだろう。
「今までの恨み、見せてみろ。」
俺は100枚近く重ねられた紙束を、全てひと思いに破り捨てた。
途端、周囲の元奴隷達がその動きを止め、自分達の手や体を見つめ、そして桃色に光らなくなった目をこちらへ――具体的には俺の足の下で呻いているカイルへ――一斉に向けた。
「あっさり殺さないよう、気を付けろよ。」
予想が的中したことを確信し、俺は押し寄せてきた黒い波を掻き分けてラヴァルの元へと向かった。




