127 キャラバンでの日々⑤
「はぁー、こいつは良い……」
湯に胸まで浸かり、思わず息を漏らしてしまう。
お天道様は既に沈んでしまい、湯気の合間から満天の星空が見えている、今はそんな時間帯だ。右半分を輝かせている半月が頭上に見える。
つまり俺がいるのは露天風呂である。
午前中、ユージの街をベンに連れられて歩き回り、最後にベンおすすめの、この温泉宿に入ったのである。
湯から出ている頭部から肩まではヒンヤリとした空気に晒され、胸から下を包む熱めの湯が尚更心地よい。
湯を囲んでいるゴツゴツした岩の一つに背を預け、ふぅ、ともう一つ息を吐く。
「そうか、気に入って貰えて、良かった。」
俺の向かい側に座り、俺と同じように座るベンが笑ってそう言った。
湯船は広すぎず狭すぎずと言った大きさで、巨漢のベンが向かい側で肩まで浸かっていても、窮屈さは全く感じないし、遠くにいるようにも感じない。
そして俺とベンの間、湯船の中心部には平べったい、水面の少し上に表面が出た石の台があり、その上に風呂桶が一つ置いてある。
俺の視線に気付いたのか、ベンが姿勢を正し、その風呂桶を左手で軽く抑え、台から落ちないように支えた。
「よいしょ、……君も、飲むかな?」
「ああ、もちろん。」
ベンが風呂桶からとっくりを取り出して聞いてきたのに対し即座に頷き、俺もその台座へ、お湯から立ち上がらずに近付いた。
中に入っている深めのお猪口の三つの内の一つをベンに渡し、ベンが手に持っていたとっくりをサッと奪い取る。
とっくりの中身をとくとくとベンの猪口に注ぎ、自分の分も自分で注ぐ。
ベンは酌をしてくれる気満々のようだったが、俺はそこまで図太くできてない。
本人が立場の差を縮めたいと思っているのは分かっている。だが、少しの差ぐらいは我慢してほしい。そのうちセラに背中を刺されるんじゃないかとヒヤヒヤしてしまう。
「どうも。」
「いえいえ…………ぐっ。」
早速お猪口を一口含み、人肌ぐらいに温められた酒によって、口のなかで米の風味と香りが広がるのを少し驚きながらも楽しみ、飲む。
……日本酒みたいなのは久しぶりに飲んだな。
「ふぅ。」
「つまみに、温泉卵、という物が、あるけど、頼もうか?」
「あーいや、俺はこれだけで十分だ。……これだけで、満足だ。」
ベンの申し出をやんわりと断り、岩に背中を預け直して酒をチビチビと飲み始める。
頭寒足熱、という言葉があるが、この状態は健康に良いらしい。
……気持ちよく、安らかに寝られそうだ。
『それでは死んでしまっておるわ。』
うるさい黙れ。
『……お主、本当に心安らかになっておるのか?』
「はぁぁ。」
「リーダー、天国はここじゃないってことは分かってるかい?」
この世の幸せの一端を噛み締めながら、体中の力を弛緩させていると、隣に座るフェリルが聞いてきた。
ベンに連れていかれそうになったとき、俺は流石に気まずいと思ったため、半ば強制的に連れてきたのである。
ちなみにルナ、ユイ、シーラ、そしてセラも芋づる式に一緒に行動し、今は女湯でリラックスしているはずだ。
「どうした?お前は飲まないのか?湯に浸かりながら飲むのは体に悪いらしいが、多少は大丈夫だと思うぞ?」
「あいにく、僕にはもっと重要なことが気掛かりだからね。」
「と言うと?」
「あの壁を越えて、禁じられた聖地を一目見たいとリーダーも思わないかい?」
フェリルが男湯と女湯を隔てる高い木の柵を指し示して熱弁する。
聖地、ねぇ……。
「お前、殺されるぞ?」
俺は取り合えず、フェリルに自分が侵そうとしているリスクを認識させようとする。
ちなみに主犯はユイとセラ。
「団長、あのセラさんも美しい人だ。覗くのが礼儀だと思わないかい?」
俺が応じないと分かり、フェリルは今度はベンに誘いをかけた。
「ん?そう、か?」
「そんな訳あるか。」
ったく、洗脳しようとするんじゃない。
ベンは平民との距離を縮めるためなら何でもしそうだから困る。しかも酒を飲んで判断力が低下しているのなら尚更だ。
「……あんた達は男じゃない。……分かった、僕一人で楽園を覗いてくるよ。」
「そうか、ベン、フェリルは酒を飲まないらしいし、もう一杯貰って良いか?」
「頼めば、持ってきて、くれるから、遠慮は、いらない、よ。」
「よっしゃ。」
空になったお猪口に酒を注ぎ、再びくつろいだ姿勢になってチビチビと飲み始める。
「ねぇ、本当に行くよ?」
「俺は何も見なかった。」
「僕も、寝ていたことに、してあげよう。」
俺とベンは我関せずの態度を取り、そのあと何度か聞いてきたフェリルに対してもそれを固持した。
「後でどんなだったか僕に聞いても知らないよ?」
「良いからさっさと行け。」
俺は静かに風呂を堪能したい。
「ヘタレは悪だ。」
小さく言い残し、フェリルは木の柵へと近づき、手を掛ける。
何か取っ掛かりがないかとあちこちを触るが無かったらしく、エルフの矢を両手にもって板に突き刺しては抜き、突き刺しては抜きを繰り返しながら登り始めた。
……エルフの矢って案外頑丈なんだなぁ。
その様子を眺めながらお猪口を傾け、少しして俺は珍しくほろ酔い気分になった。
体を温めると血の巡りが良くなることが関係してるのかもしれない。
「なぁ、ベン。」
「ふぅ、どうしたの、かな?」
「さっき温泉卵とか何とか言ってたよな?今食べられるのか?」
「ああ。」
「頼んで良いか?」
聞くと、それに対しておうように頷いたベンがパンパンと手を叩く。
そして数秒後、この温泉宿の女中さんらしき人が出てきた。
「お呼びでしょうか?」
「卵を、二つ、良いかな?」
「はい、かしこまりました。」
短い会話を終えて女中さんが宿に戻っていき、待っている間は目を閉じて温泉を視覚以外の感覚で楽しんだ。
湯船を囲む岩の一つの上に備え付けられた木製の口から湯が吐き出され、湯面に落ちる音。それによって起こる風や湯の微かな波。熱めのお湯に対し、ヒンヤリとした感触を伝えてくる岩。そして何よりも際立っている硫黄臭。お猪口に入った酒の香りと味。
全てが俺を落ち着かせ、くつろがせてくれる。
しばらくして、木製の、皿というより桶と言った方が分かりやすいような小皿三つと小さなスプーンが二つ持ってこられた。
ベンがそれを受け取り、一組を俺に差し出す。
「お、ありがとな。」
深めの小皿の中には褐色の殻に覆われた卵が一つ。
「礼は、食べてからで。殻は、この皿に。」
ベンが余った一つの皿を風呂桶の中に入れながら言う。
ほほぅ、そこまで言うか。
ならば遠慮なく、いただきます。
お猪口を風呂の外に置き、左手に皿、右手に卵を持つ。卵を皿の側面に軽くぶつけ、その殻に軽くヒビを入れる。
そのまま片手で割……ろうとして思いとどまり、体育座りをして膝小僧と胸の間で皿を支えて、堅実に両手で卵を割る。
『へたれおって。』
やかましい。格好つけて中身を落としてしまうよりはマシだ。
殻を殻入れ用の皿に入れ、食べる前にお猪口を取って酒を一口含み、お猪口を脇に置いて皿を持ち直す。
皿の中に入っている、白い、ほぼ液体状の白身の上で、半透明の白色の薄膜に覆われた黄身が今にもはち切れそうになっている。
スプーンが触れるだけでプルリと揺れ、食欲をそそられる。
さて、どうやって食べようか。
押し潰してしまっては、せっかくのプルプルした食感がなくなってしまう。
切ったとしても中の黄身が流れ出てしまい、形をとどめてはくれず、これまたせっかくの食感を台無しにしてしまう。
それをスプーンで丸ごとすくい取り、散々逡巡した末、俺はそれを全て一度に口の中に入れた。
スプーンを皿の中に置いた後、目を閉じ、今度は口内の触覚と味覚のみに集中する。
プルンとした食感が舌、歯、口腔内の内膜全てで感じられる。
卵に歯を立て、そのまま次第に圧力をかけていき、黄身が薄膜を押し、圧迫し、溢れ出そうとしているのを感じながら尚圧力をかけていく。
そして、黄身が流れ、いや溢れ出た。
包み込まれていた、濃厚な、少し甘さを感じさせる液体が舌を楽しませ、そのあと白身と混ざりあうことで新しい味としての刺激を再び舌に届ける。
酒が日本酒に近い味だったからか、先に飲んでいたことで甘味が尚更際立たせられていた。
ゴクッ
一通り味わった後、一気に飲み下し、ふぅ、と息をつく。
目を開け、スプーンの入った皿を右手で脇に置き、同じ手でお猪口を取る。
そのまま口に近付けて、あおる。
が、酒は既に全部飲みきってしまっていたのに気付いただけだった。
「チッ。」
舌打ち。
少しイライラしながら体を起こし、乱暴にとっくりを取って液体を注ぐ。
とっくりを置き、お猪口をそのままあおって今度こそ米によって作られた酒精で喉を潤しながら姿勢を傾け、その間、外気によって少し冷えた岩へ背中をまた預ける。
さっきまでの苛立ちは、綺麗さっぱり、記憶の彼方へと消えていった。
「あー、うめぇー。」
きっとこれ以上内ほどだらけきった顔をしているだろうなと思いながら、誰にともなく、天に向かって言う。
「それは、良かった。」
片目を開けると、ベンがおだやかに笑っていた。
「そういやお前、どうしてそんなに平民との距離を詰めたいんだ?仮にも王族なら、王になれないにしても、普通どっかの貴族の婿養子になるなりするもんじゃないのか?」
お猪口を傾け、その尻でベン自身を指し示しながら聞くと、ベンは少し考え込み、酒を飲んで喉を潤してから口を開いた。
「前も、言ったと思うけど、僕は、スレインを、より良い国に、したいと思って、いるんだ。」
「ああ、そうだな。まぁかなり漠然としてるとは思うが。」
「……僕の考えを、言って、良いかな?」
「もちろん、だからこそ聞いてるんだ。」
「戦争は、やっては、いけない。」
「……そうか。」
一部の例外(戦争で利益を得る者やバトルジャンキー)以外は誰だってそう思っている気はするが、大人しくベンの続きを待つ。
「戦争が、起こるのは、新たな土地を、手に入れるためだ。」
「まぁ、大抵はそうだな。」
「スレインには、魔物に、支配されて、しまっている、たくさんの、土地がある。」
なるほど、話の方向は分かった。
「だから冒険者として魔物を倒して、土地を増やすことでスレインを戦争をしない国にしたいってことか?」
「その通り。」
「それじゃあ他の国から攻め入られる可能性を増やしてしまうだけになるだろ。」
「それは、セラにも言われた、よ。でも、他に方法が、見つけられないんだ。それに、土地を手に入れたことで、スレインが、一早く、他の国よりも強くなれば、おのずと、戦争も、止まると、思うんだ。」
「思う、か。確信は無いんだな。」
「でもこれが、一番実現できそうな、解決策、だから、ね。」
「それだとスレインのトップがお前みたいな考えを持っていないと、スレインは戦争をあえてする国になってしまうぞ?」
自国の力が強くて、戦争をすれば必ず勝てる状況があれば、俺だったら他の国に攻め入るな。
「それは……」
ベンが言い返そうとして、押し黙る。
おそらく王族がそんなことをするはずが無いとでも言いたかったのだろう。
「まぁ、他人の考えなんてお前が俺に言ったって意味はないからな。実際に会わない限り俺は信じられないし。お前の考えは可能性に賭けすぎだと俺は思うぞ?」
「可能性に、賭けるのは、そんなに、いけないか?」
「君主としては駄目だろ。」
自分の国の政治には確信を持って動いて貰わないと、俺達平民は不安で仕方なくなってしまう。
「それなら、僕は、君主には、なることのない僕は、その可能性に、賭けてみても、良いかな?」
「ま、良いんじゃないのか?何にせよ、無駄にはならないさ。スレインでの人間の支配地域の拡大はいつかはしないといけないことだからな。」
魔物達がこれを聞いたら、異口同音で[冗談じゃない!」って怒り狂うだろうなぁ。
ベンは少し考え込みながら酒で口を湿らせ、口を開く。
「……そう、か。無駄じゃ、ないか。」
「俺の個人的な意見だ。気にしないでくれて構わん。」
噛み締めるように言うベンに気恥ずかしさを感じて、俺は最後に言葉を濁した。
「いや、おかげでやる気が、また少し、出てきたよ。僕に反対する、セラにも、君から、説得して欲しい、くらいだ、ね。流石はファーレンで、教師をしていた、だけは、ある。」
どこでそれを知ったのかと問い詰めたくなったが、セラがベンに話していない訳が無いと思い直し、俺は苦笑した。
俺は王族に対してなんて口を聞いてるんだ、と今更ながら自分に呆れてしまった部分もある。
「はは、やめてくれ、そして無茶言うな。ま、それはそれとして、だ。フェリル!そっちの眺めはどうだ?」
真剣な話をし過ぎて若干重くなってしまった雰囲気を少しでも改善するため、今現在も柵登りに奮闘中のフェリルに呼び掛ける。
返ってきたのは悲鳴、怒号、爆音、そして断末魔のような声。
柵の頂上にちょうどたどり着いた所だったフェリルは、そのまま落下した。
その勢いで飛んだ水飛沫から、俺はとっさに酒を守る。
ジトッと俺を睨みながらフェリルが浮かび上がってきた。運良く温泉に落ち、事なきを得たらしい。
「……リーダー、今のはわざとやったのかい?」
「いーや?」
憎々しげに聞いてきたフェリルにおどけて返し、お猪口を傾ける。
ったく、向こうにはルナもいるんだぞ?
……見させて堪るかよ。