混乱の土曜日(5月第2週)
「なんか、無駄に疲れた……」
廊下をとぼとぼ歩きながら、わたしはそう呟いた。土曜の午後。本当なら土曜授業が終わった解放感でいっぱいのはずが、予期せぬ出来事のせいでわたしの頭はいまだ混乱状態である。なんだか、まだ目元が熱いような気もする。
それもこれも、天羽さんの攻略対象のそばに、自ら近寄るような状況を作ってしまったせいだろうか。
*****
授業終了後、クラス全員の課題のプリントを英語科教官室に提出に行くため、わたしは廊下を歩いていた。
うちのクラスの英語は、普段は福井先生という女の先生が教えてくれるのだけど、土曜だけは鷲巣先生が担当だ。つまり、わたしの手の中にあるプリントの提出先は、鷲巣先生である。
これは本来教科係の仕事だけど、この後の予備校に間に合わない、と係の男子生徒が言うので代わったのだ。
正直、頼まれたときは一瞬迷った。
ゲームの関係者にはできたらあまり関わりたくないと思っていたからだ。でも、鷲巣先生はうちのクラスにも受け持ちの授業があるから、完全に接触を避けることはできない。これまでにも何度かこういうことはあったし、理由もなく英語係くんのお願いを断るのも不自然だ。
それに、わたしはむっちゃんと三鷹先輩ルートのライバルだ、というむっちゃんの言葉を信じるなら、わたしが鷲巣先生に近寄ったところでなんともないはず。
そんな風な計算をして、でもいつも通りに英語係くんの頼みを引き受けた。
最後の1人が間違いなく提出にしたのを確かめて、英語科教官室に向かったのは、授業終了から30分後だった。もう13時を回ってしまったので、急いで英語科教官室に向かうことにした。
英語科教官室は管理棟の3階の西端にある。東棟2階のわたしのクラスからは、地味に遠い。やっとたどり着くと、急いだせいで少しあがった息を整えて、戸をノックしたのである。
「失礼します。鷲巣先生、課題持ってきました」
「ああ、ご苦労様」
鷲巣先生は、何か机で書き物をしていた。入口横のシンクでコーヒーを淹れていた福井先生に頭を下げて中に入る。
「あら、羽鳥さん。あなた英語係だった?」
「いえ、係が予備校あるらしくて代わりました。今日の授業、延びちゃったんで」
「そうなの。鷲巣先生、ダメじゃない。特進科の子達は忙しいのよ?」
「すいません。以後気を付けます」
福井先生にそう言われた鷲巣先生は、ちょっとこちらを見て頭をかいた。
「羽鳥は用事なかったのか?」
「はい。あとは帰るだけです……ぅえっ?!」
鷲巣先生の机に向かっていたら、足元でガッと鈍い音がして、視界がぐらりと傾く。机の手前で、床に置いてあった荷物に左足の爪先をひっかけたらしい。左の爪先がじんじんする。
視界の端を驚いた顔をした鷲巣先生がかすめた。絶対ぶつかる! 先生ごめんなさい、可能なら避けて! 重力に逆らえず、前のめりになったわたしは、きたる衝撃に備えて手をつくべく前に構え、ぎゅっと目をつぶった。
「うおっと?!」
「ふぐっ」
どしっというような音がして、中腰くらいの体勢になったところで傾きが止まった。踵は浮いてるけど爪先は床に着いた状況で止まってるから、床と衝突するのは避けられたらしい。ということは、鷲巣先生と正面衝突したってことだ。どうやら鷲巣先生は、避けずに受け止めてくれたらしい。体の右側を通って、背中まで腕が回っている感触がある。とっさに生徒を助けるなんて、さすが先生、すごいですね。
ただ、予想していた痛みが回避された安心感と、突然の出来事だったのとで、頭がうまく回らない。なぜか頭は冷えているの凍ったように働かず、それなのに心臓は異常な速さで音を立てている。
「まあまあ! 2人とも大丈夫?」
「俺は平気です。羽鳥は大丈夫か?」
「っ、は、はい……」
一拍あって、福井先生に後ろからビックリした様子で声をかけられた。
それはそうだろう。床の荷物にわたしがぶつかった時もだけど、その後に続いて、何かが崩れたりわたしが持っていたプリントが落ちたりする音と、慌てた鷲巣先生が何かにぶつかる音、わたしが先生にぶつかる音、まあとにかく、いろんな音がほぼ同時に結構な音量で響いた。さらに福井先生は、その一部始終を目の前で見ていたのだ。そうとう驚いたに違いない。
しかし、福井先生のおかげでわたしはやっと我に返れた。これはよくない。この、鷲巣先生に半ば抱き締められるような格好は、絶対によくない。主にわたしの精神衛生上よくない! 早く離れなければ!
失礼ながら鷲巣先生の肩に捕まって、体を起こそうと身じろぎしたら、急に腰にまわされた腕に力を込められた。
「ひゃっ?!」
「待った、羽鳥! まだ動くな!!」
「えっ、えっ?!」
なになになに、なんで? いや、ダメでしょ、転んだのを助けてくれたとはいえ、先生と生徒が密着したままはよくないでしょ!
そう思って、自分の陥っている状況を客観的に考え、うっかり想像してしまったら、急にがあっと体が熱くなった。無意識のうちにしがみついていた肩は見た目よりがっちりしているし、腰にまわる手も力強い。なんだかいいにおいがするし……って、わああ、なんか変態っぽい。そもそも、男の人とこんなに密着したことなんて、むっちゃんを含む身内以外でほぼ初なんだけど。どうしたらいいの? こういうときってどうするのが正解?
「福井先生、羽鳥の足元に落ちてるプリントとか拾ってもらえます?」
「そ、そうね。羽鳥さん、ちょっと動かないでね」
「……はい」
動くなと言われても、鷲巣先生にがっちりホールドされているので動けません。本当は今すぐにでも飛び退いて、ここから立ち去りたいけど、わたしがばらまいた課題プリントとか、蹴飛ばして崩れた資料とか踏むのは忍びないので仕方ない。でも、できれば急いでお願いします。この状況はわたしが耐えられません!
しばらく、背後からがさがさと福井先生がプリントや資料を拾う音だけが響く。
その間に、なんとか気持ちを落ち着けようとしたんだけど、左肩の辺り、ちょうどお下げの根本あたりに、鷲巣先生の息がかかって、非常にくすぐったい。髪の毛って意外と感触がないようで、そういうのわかるんですよ! 全く落ち着かない! むしろ悪化してる! あああ、顔の赤みが引きません!
「よし、あらかた拾ったわ。羽鳥さん、もう大丈夫よ」
「起きられるか、羽鳥?」
「うう、はい……」
真っ赤な顔を見られるのは恥ずかしいけれど、この体勢でいるのはもっと恥ずかしい。鷲巣先生の腕が緩んだのを合図に、ゆっくり床に踵を下ろし、そおっと体を起こした。……うん、わたし、座ってる鷲巣先生に乗り掛かるような格好になっていたわけね。
うわあ、ありえないんですけど。もう埋まってしまいたい。高校生にもなって、派手にすっ転んだとこ見られちゃうし、男の人に正面衝突したあげく密着だし、おかげで顔真っ赤だし、もうやだ。
だいたい、わたし真面目なしっかりもので通ってたはずなのに、なんなのこれ。違うんだよ、こんなどじっ子みたいなの、いつものわたしじゃないのに。落ち着いた、大人っぽくてクールな感じの女子高生が理想で、ちょっとはそういうイメージを作れてたはずなの。先生に対して、大人っぽいイメージとか繕っても無意味かもしれないけど、それでも子供のわたしにだって、自尊心はあるのだ。ああ、視界がにじむ。泣きそうです。いや、学校では絶対泣かないけど。
「お、おい、どっか痛めたか?」
「いえ、ちょっとびっくりした、だけです」
震える声でなんとか返した。先生の前で醜態をさらした自分にショックを受けてます、なんて恥ずかしくて言えるか! びっくりしたのも本当だし、別に嘘は言ってません。
「本当に?」
「はい。先生こそ、平気ですか? 思いっきりぶつかってすみません」
鷲巣先生はそう聞きながら、うつむくわたしの顔を覗き込む。ちょっと見ないでよ! うつむいてんだから、見られたくないってことくらい察してくれ!
「俺はそんなにやわじゃないよ。眼鏡ズレてるけど、歪んでないか?」
言われて、眼鏡をはずしてみたけど、なんともなさそうだった。でも、眼鏡をとって深呼吸したら、ちょっと落ち着いた気がする。
眼鏡をかけなおして顔をあげると、なんともいえない、微苦笑のような表情をした鷲巣先生と、ペン立てがひっくり返ってごちゃごちゃになった机が見えた。……うう、それ、わたしのせいですよね。
「平気です。机、ごちゃごちゃになっちゃいましたね。すみません」
まさかそんなとこまで被害が及んでいるとは。こんな事態になったのは不本意だけど、足元に不注意だったのはわたしなんだよね。それを考えたら、重ね重ね申し訳ない。でもやっぱり恥ずかしい。
「羽鳥さんが謝ることないわ」
「福井先生……」
振り向くと、拾い集めたプリントを手にした福井先生が微笑んでいた。
「床に荷物を積んでいたのは鷲巣先生なんだから。何度も片付けた方がいい、って言ったのに」
「……すみません。今日、すぐ片付けます」
「当たり前です。今回は幸い羽鳥さんに怪我はなかったけど、もし怪我させてたら、始末書じゃすまないわよ!」
「えっ? そんな、わたしも不注意でしたから」
普段穏やかに笑っている福井先生の口から、なんだか厳しい言葉が出てきて驚いた。たいしたことなかったのに、そんなに大事にするのはなんだか申し訳ない。
「いや、そこは本来通路なんだ。俺が悪かった。ごめんな、羽鳥」
「えっ、いえ、先生が受け止めてくれたから怪我はなかったんだし……」
先生に謝られるという、初めての事態に、わたしはうろたえた。恥ずかしかったこととか、全部吹っ飛んでしまったよ。
「そうか。それじゃあ、気をつけて帰れよ」
「えっ、でも、プリント揃えなくていいんですか?」
「俺がやるから気にするな。ああ、そうだ、これやるよ」
「えっ、えっ?」
そう言われて、個包装のラスクを2つ押し付けられた。あ、これ贈答用でも有名なやつだ。って、違う違う。プリントぶちまけたのわたしなんだし、整理するのもわたしの仕事なんじゃないかな。
「いいのよ、羽鳥さん。あなたは被害者なんだから。後は押しつけちゃいなさい」
くすくす笑う福井先生にまで、そんなふうに言われた。てことは、このラスクはお詫びの品か。別にそんなのいらないんだけど。
でも、できたら早くここから逃げたいし、早く帰れる方が嬉しいのも事実なんだよね。いい加減お腹も空いたし。
うん、頭の回転がいつもよりだいぶ悪くなってるのは否めない。でも、なんかそれも言い訳にしていいような気がしてきた。
「えっと、じゃあ、失礼します……」
「おー、気をつけてな」
「じゃあ、また来週ね」
結果、わたしはなんだかふわふわしたまま、2人の声を受けて、ぱたりと英語科教官室の戸を閉めた。
そして冒頭に戻るわけだ。
しばらくふらふらと廊下を歩いていたら、やっと思考回路が通常運転に戻ってきたよ。
冷静になってみたら、まるでこないだやった乙女ゲームのイベントのようだったなあ。でも、精神的なダメージがでかい。あんなの、事故にしたって心臓に悪すぎる。天羽さんはこんなのを日常的にこなしているのかと思ったら、ちょっと尊敬してしまうよ。わたしだったら心臓が持たないわ。
いずれにせよ、ゲーム関係者にはできるだけ近づかないようにしようっと。
以降は毎週火曜日の投稿予定です。
お読みいただき、ありがとうございました!




