彼女はセンパイ(連雀守視点)
「羽鳥サン、これ、わかんないんすけど」
ちょいちょいと隣に座る人の肘をつつきながら言うと、その人は片方のイヤホンを引っこ抜いて、おれの手元を覗き混む。
この前、図書館を飛び出したあとに鉢合わせてから、なんとなく一緒に勉強をすることになった。と言っても、同じ空き教室にいるだけで、それぞれやっている。集まる時間もバラバラだし、おれが分からないところを時々聞いたり、休憩の時間を合わせたりするくらい。だって羽鳥サン、その方が集中できるからって、ずっとイヤホンで音楽聞いてるし。ま、おれとしてはその方が気楽でいいんだけど。
「……使う公式間違ってるよ。そこは、tanのやつ使うの」
少しの間をおいて返ってきた返事に、おれが首をかしげると、苦笑いをこぼしながら教科書を開いて解説してくれた。基本の基本らしい内容が、ほとんどわからないおれに、えっ、そこから? とか言いつつも、少しでも分かりやすいようにかみくだいて教えてくれる。
羽鳥サンは、不思議な人だと思う。今までおれの周りにいた女子とはタイプが違う。
おれには、3人の姉がいる。上2人はそれぞれ保育士と美容師、一番下は医療短大の2年だ。四姉弟の末っ子長男のおれは、小さい頃からいろんな意味でかわいがられた。
だから、女の現実ってものも多少は知っている。気分で動くのも、その気分が体調に左右されるのも、集まると凶悪なのも、家の中と外で全然印象が違うのも、すぐに女を振りかざすのも全部、女はそういうものだと思っていた。
小中で周りにいた女子も似たようなもので、いつも何人かでつるんでは、きゃいきゃいうるさくおしゃべりして、気に入らないものや、自分たちと違うものには敏感で。グループをつくらないとやってけないみたいなのに、信じられないくらいどろどろのケンカもする。しかも、勝手にこっちに期待して、それにこたえられないと、すぐに態度を変える。本当に面倒な生き物だと思う。
羽鳥サンは、どっちかというと、男子の雰囲気に近い。と言っても、つるんでバカ騒ぎをするような賑やかなヤツじゃなく、普段は一歩引いてて、物静かなヤツ。けど、ノリや付き合いは悪くなくて、マジでダメなこととかはちゃんと言ってくれる、常識人って感じだ。ちょっと仲がいいクラスメートくらいの距離感が気楽でいい。
いつも一緒にいなくても、会えば話すし、相談にも乗ってくれる。基本、ちょっとそれは冷たくないか、ってくらいさっぱりしてるのに、本当に困ってるときはちゃんと優しい。
都合よく男を使おうとするどころか、なんでも自分でやろうとするし、どんなに腹の中でいろんなこと考えていようと、できるだけ冷静でいようとしている。男子とか女子とか、見た目とか、何ができるかとか関係なく、まっすぐ相手を見ようとしてくれる。こんな女子もいるんだなあ、と思ってびっくりした。
そんな人だから、必要以上に構わないでくれて、おれの話をゆっくり聞いてくれるから、なんとなく居心地がいい。男子の気楽さに、女子の優しさを足した感じだろうか。
ぶっちゃけ、うちの姉ちゃんのうち、誰か1人取っ替えてほしいとか考えちゃうくらいに、羽鳥サンといるのは楽だ。
「うーん、分かった。気がする……」
「数学は、公式覚えたら問題をこなしてパターンに慣れるしかないよ。ちょっと休憩しようか」
チョコ食べる? と鞄から赤い個包装のチョコを取り出して、おれに差し出す。ありがたくもらうことにして、袋を開けた。
それにしても、何を聞いても返事が返ってくるのがすごい。はっきりした答えって訳じゃなくて、ヒントとかこうするといいっていうアドバイス的な感じだけど、勉強が分かりやすくなった、気がする。しかも、バカにしたり、ヒステリックに叫んだりもしない。うちの姉ちゃんだと、こうはいかないもんな。向こうは何度説明しても理解しないからイライラして、おれもコンプレックスを刺激されてイラついて、最終的に口げんかになってしまうのはいつものことだ。
けど、羽鳥サンは特進科なだけある。教え方もわかりやすいし、こんなに長い時間テスト勉強を続けられるのは初めてだ。けど、勉強嫌いなおれとしては、どうしてそこまでして勉強するのかわかんないけど。だって、特進科って普通科より平日の授業が1時間多いし、土曜も授業があるんだぞ? なんでそこまでして勉強するんだろう。遊んでた方が楽しいのにさ。せっかくだし、気になっていたことを聞いてみようか。
「羽鳥サンて、なんで勉強するんすか?」
「えー、必要だからかな」
「好きだからじゃなくて?」
意外な返事に聞き返すと、羽鳥サンは苦笑して、鞄から取り出したタンブラーに口をつけた。
「好きな科目はあるけど、勉強が好きって訳じゃないよ」
「えー、でも、特進科なのに……」
「社会とかは面白いけど、数学は苦手だよ。行きたい大学の入試科目にあるからやってるだけ」
「へえ……」
そういえば、文化祭で羽田とやりあったときもそんなことを言っていた気がする。そして、羽田サンも数学は苦手だって聞いたら気が楽になった。
「連雀くんは、将来やりたいこととか決まってないの?」
「ああ、一応あります、けど」
まだ家族にも言っていないけど、自分なりにしたいことはある。自分にできることか、なれるのかはわからないけれど、目標にしたいとは思っている。
「そのために、覚えなきゃいけないこととか、できるようにならなきゃいけないことはある?」
「あります。まず、試験に受からないといけないし……」
おれが答えると、羽鳥サンはにこっと笑って言った。
「わたしも同じだよ。わたしの場合は大学に入るのが手っ取り早いから、そのために頑張ってるの」
「……ふうん。すごいっすね」
「別に、みんな同じじゃない? いつ、本気で勉強するかのタイミングが違うだけ」
ね、と笑って同意を求められたから、なんとなくうなずきかえした。羽鳥サンが言うなら、そういうものなのかもしれない。なんだか妙に説得力あるんだよね、この人。でもなあ、やっぱりおれは、勉強出来ないってバカにされるのは嫌だけど、勉強するのはしんどいんだよな。
「羽鳥サンは、勉強好きでもないなら、しんどくないんすか?」
「うーん、しんどいときもあるよ。だってわたし、元々そんなに頭よくないもの」
「えっ?」
「わたしね、同級生に比べて言葉も遅かったし、九九を覚えるのもクラスで一番遅かったんだ」
「マジっすか?」
信じられなくて、思わず聞くと、真剣な顔で返された。
「マジマジ。小学校の3年くらいまでは、なにやってもダメだったの。体力もなかったしね」
「意外……」
「ふふ。でもね、勉強って時間かけたら、それだけは分かるようにはなるからさ。だから頑張ったの。運動はもうセンスがなかったから諦めたけど」
なんか、結構重たい話だったような気がするんだけど、おれが聞いてもいいんだろうか。でも、だって親とか周りがすごくほめてくれるからさ、そしたら頑張っちゃうよね、と明るく笑う羽鳥サンは、本当に昔のことは気にしていないみたいだった。
「じゃ、おれもできるようになると思います?」
「連雀くんは頭の回転も悪くないと思うし、自分に合ったやり方が見たかったら大丈夫じゃないかな?」
さらりと言うけど、それが出来たら苦労はしない。もちろん、簡単にできるものでもないんだろうけど、できるようになるまで自分が頑張れるかが、まずわからん。
「自分に合ったやり方って、そう簡単に見つかる気がしないんすけど」
「いろいろ試してみるしかないよ。わたしでよかったら、相談してね。一応先輩だし」
「そっすね。よろしくお願いします、センパイ」
言葉を真似て、センパイと返すと、羽鳥サンは満足そうに笑う。なんだかんだ、頼られるのが嬉しいみたいだ。確かに、勉強とかでは頼りになるけどね。だけど、1つ心配なとこがある。
「そういや、羽鳥サン。ここで勉強するときっていつも1人なんすか?」
「うん、基本はね。でも、別にわたしが借りてるって訳じゃないから、人が来ることもあるよ?」
「へー、そうなんすか。それっていつも同じ人?」
「まあ、だいたい。C組の牧山くんとか多いかな」
じゃあ、さっきから後ろの窓に、張り付いて中をうかがってるのはその人かな。この前も、この教室の前でおれとはちあわせて、逃げてった人みたいだし。
「一緒に勉強してんすか?」
「ううん。それぞれやってるだけ。話したことはほぼないかな」
へえ。それって、なんか危ない気がするんだけど、おれが考えすぎなんだろうか。でも、あまり話したことのない同級生と、二人っきりって結構辛くね? なのに、何度もそういう状態になるってことは、そうしたくてしてんだよな? もしかして、その牧山って人は羽鳥サンをねらってんじゃねえのかな。
「ふーーーん」
「それが、どうかした?」
「いや。一緒にやってたんなら、おれは邪魔してたかな、と思ったんで」
「別にそんなことないよ。それに、連雀くんはわたしが誘ったんだから、邪魔なんてあり得ないし」
羽鳥サンが言った直後、ガタンと戸口で音がして、遠ざかる足音が続く。
「あれ、誰かいたのかな?」
「ここ使おうかと思って、中のぞいたんじゃないすか?」
「じゃあ、牧山くんかな。いつもみたいに、普通に入ってくればいいのにね」
「そっすね」
気づいていないとはいえ、残酷な人だなあ。たぶん、今のは羽鳥サンのせりふを聞いて、逃げてったんだと思うけどな。人の少ない教室ってのは声が結構響く。自分の好きな人が、自分以外の人間を誘って二人っきりで勉強したなんて知ったら、ショックだと思う。そりゃもう、逃げ出したくなるくらいに。
「羽鳥サンてさあ」
「うん、なに?」
「……いや、スゴイヒトだなあ、と思って」
ひどいよね、なんて言えねえし。こないだのやり取りからも思ったけど、この人、恋愛事にはすっげーにぶいんだよな。普段から、人の感情ににぶい訳じゃないみたいだし、人からそういう噂立てられることには敏感みたいなのに、自分が誰かに好かれるかもってことは考えてないみたいだ。要するに、興味がないんだろうな。
こういうところは、先輩どころか、ずっと年下の子みたいでちょっと心配だ。そのうち、ストーカーされたりとか、無理矢理手を出されたりとかするんじゃないかって。
「それはどうも? さ、そろそろ勉強に戻ろう」
「ういっす」
ぼんやり返事をすると、羽鳥サンは既にさっさとイヤホンを装備して、シャーペンを握っていた。
ノートを見つめるその顔は、確かにキレーかもな、と思う。眼鏡と髪型で隠していたときはわからなかったけど、よく見たら、整った顔なんだよな。ちょっと釣り気味の大きな目に、丸いほっぺた、小さい鼻とピンクとも赤ともとれそうな色の唇が、見事なバランスで小さくて白い顔に収まってる。
前に天羽サンが、羽鳥サンをねこっぽいって言ってたけど、確かにそうかもしれない。ちょっとつんとした、冷たそうな感じだ。でも、話してみたら割と普通だし、慣れるとよく笑うし、真面目だからかちょっと厳しいとこはあるけど、噂されてたような嫌な人じゃない。
これは、見た目から入って、実際話してみて本気になる、って人も多そうだ。いや、おれはないけど。だって、適当なおれとじゃ考え方が違いすぎるし。今より距離が近くなったら、絶対ぶつかると思う。って、そう考えたら身内とかムリだな。あんまりいろいろ口出しとかしなそうだけど、意見がぶつかったら絶対おれが言い負かされるわ。羽田の時も怖かったしなー。うん、うちの姉ちゃんと交替ってのはない。学校のセンパイくらいでちょうどいいわ。
まあでも、勉強で手がいっぱいで恋愛とかしてる暇ないって思ってるなら、今だけは虫除けくらいしてもいいかな。せっかく勉強を教えてくれるっていうのに、変に周りに気をとられて、なかったことにされても困る。
それに、この人が誰かを好きになったとき、どんな風になるのか、ちょっと興味もあるしね。




