猫と夕空
午後4時、哀愁を誘うチャイムが鳴り、遊んでいた子供たちが一斉に家へと駆け出す時刻。
今日も、特に何という事のない1日が終わろうとしていた。
周は大学から下宿先のアパートに向かって歩きながら、秋の深まった薄曇りの空を何という事もなしに見上げる。
ウォォォーン…と重く響く音を立てて、飛行機が一機、遥か上空を横切って行った。
実に何て事のない風景だ。
それから歩く事5分。
ようやく“ポピー荘”と書かれたアパートの目の前にたどり着いた頃には、雲のすき間から赤い夕焼けが覗いていた。
周の部屋は通りに面した一階にある。
鍵を探そうと肩掛けカバンの中をまさぐっていると、
ひゅんっ
耳馴れない音がした。
反射的に振り向くと、黒い塊が高速でスピンしながら周の鼻先をかすめて降ってきた。
「ぅおあ、…危ねー」
黒いかたまりはそのまま周の足元に華麗に着地すると、見馴れた猫の形となって、そのまま軽やかに走り去って行った。
見馴れた猫というかそもそも自分の飼い猫だった。名前はみぃ。
まあいいか。その内、ふらっと帰ってくるだろうし。
と。
「みぃちゃぁぁ…ゃっ、ぁぁぁあああああ!?」
なっ
気が付くと、ぐったりとなった女性が周の腕に抱えられていた。
どうやら反射的に受け身の体制を取っていたようだ。
ナイス、マイ・防衛本能。
しかし…
周はそこで途方に暮れる。
腕の中の女性はぐったりとなったまま動かない。
しりもちを着いた格好の周だが、女性が邪魔で簡単には起き上がれない。
「すみませーん…大丈夫ですか…大丈夫なら、どいてくれませんか…」
呼び掛けるも応答がない。
と、そこで周ははたと気が付いた。
髪が乱れていた為すぐには分からなかったが、
「撫子、さん?」
「…んっ…」
わずかに応答があった。
どうやら撫子さんで間違いないようだ。
撫子さんはこのポピー荘の大家さんの娘であり、住み込みで大家代理もしていて、周も色々とお世話になっている。
「撫子さん、なーでーしーこーさーん…大家さん!撫子さんっ!起きて、起きて下さいっ」
「・・・はっ」
気がついたようだ。
「あ、無事で良かったですねとりあえず降りて下さい」
撫子さんはそれには答えずに、ゆっくりと瞬きをして、たっぷりと間を取って、おもむろに口を開いた。
「貴方が、私の、王子様?」
・・・。
「何故だッ!てか降りて下さいっ」
「やっぱり…貴方だったのね…きっと迎えに来てくれると信じていたわ…」
やばい。撫子さんがおかしい。絶対何かヤバい物見えてる。
周は必死の思いで腕の中の撫子さんを揺さぶる。
「なーでーしーこーさぁぁぁん」
「やめてよ、さんなんて他人行儀…撫子で良いって、言ったじゃない…」
一回も言われてないぞそんな事!
というか本格的に何だこれ!
いやでもしかしこのままこの設定を押し通すのも良いかも知れないな…撫子さん美人だし…と周が思い始めた、その時。
「周…お前何してんの?」
「相馬!」
声を掛けてきたのはポピー荘の隣の部屋に住む、友人の相馬だった。
「相馬助けてくれっ、今みぃと撫子さんが空から降ってきて、それでその」
「ええ、私たち結婚するの」
口を挟んだのは撫子さんだった。
「何その急展開!」
「周…よりにもよってお前、撫子さんに…」
「違えよ!何もしてねえよ!」
「うふふ…責任取ってね…あなた…」
「撫子さんは黙って下さいっ」
「周お前…」
「いや何もしてないから!やめてその視線!…ああもう、とりあえず説明するから…その…ちょっと撫子さんどかすの手伝って…」
●○●○●○●
「うんなるほど、つまり、恐らく撫子さんは、ベランダから飛び降りたお前の飼い猫のみぃちゃんとやらを呼び止めようとして、ベランダから身を乗り出して転落。お前に受け止められて無傷だったものの、打ち所が悪かったらしく普段以上にファンタジーな事になっている…と」
周の部屋の和室で、話を聞き終えた相馬はざっくりとそうまとめた。
「確かに普段から割とファンタジーな人だけど…相馬ぁ…一体これどうすれば…」
周の後ろでは撫子さんがごろごろ〜と寝転がりながら周に向かって愛の言葉を囁きつづけている。
「うん、入籍しろお前ら」
「えええぇぇ」
「周…考えてもみろ、撫子さんだぞ?こんな美人はまぁ、そうそういるもんじゃない。それに」
「それに?」
「撫子さんはここの大家だ。つまり家賃がタダ」
「おおおぉぉ…それは…で、でもそんな結婚詐欺みたいな…今撫子さんが愛を囁いてるのは一時的なステータス異常によるものであって…」
「いいか周。世の中の大半の女は詐欺師だ。俺の経験上、付き合い始めた瞬間に猫被るのやめたり、同棲始めた瞬間に女王様になったり、女はそんな奴ばっかだ」
「相馬お前ナチュラルに自慢するな…」
「つまり、入籍したもん勝ちって事だ!」
「その結論おかしくない!?普通に撫子さん元に戻す方法考えてよ!」
「だってお前らさっき結婚するって…」
「あれは撫子さんのドリームだから!僕は一言も言ってないから!」
「ああ…撫子さん、今年で29だっけか」
「ああ…」
微妙な沈黙が流れる。
「何よ2人とも…い、いくら私が三十路寸前で独身だからってそんな…そんな憐れむような目で、私を見ないでぇぇぇ!」
ごろごろと転がる撫子さんの絶叫が響く。聞こえていたようだ。
「…えと、撫子さん」
「何よ」
「落ち着きました?」
「これが落ち着いていられますか!三十路だババァだとまで侮辱されて…」
「そもそも三十路とすら言ってませんが」
「だから三十路じゃない!」
「…。…じゃあ…えっと、こいつ誰だか解りますか?」
そう言って相馬は隣に座る周を指差した。
「え?周くん…でしょ?そんな、大家たる私が、大切な金ヅル…じゃなくて住人の顔を忘れる訳が無いじゃない」
「はっきり金ヅルって言いましたね今」
そうツッコミを入れつつ、周は自分の笑いが引きつるのがはっきりと分かった。
やはりさっきの王子様発言は一時的なステータス異常で、撫子さんは元に戻ってしまったようだった。
「というか私何で周くんのお部屋に…えーっと、周くんの代わりにみーちゃんのお世話をしてて」
とそこで、撫子さんがフリーズした。
「…みーちゃんっ」
「へ?ああ、はい」
「みーちゃんが、私と一緒に遊んでたらベランダから落ちて、私がすかさず華麗に着地を決めて追いかけて」
「うわ最後すごい記憶捏造されてる」
「ものすごい追いかけたんだけど、私が迷い込んだ森の中で王子様と喋っているうちに、みーちゃんは何処かに行っちゃって…それでいつの間にか寝ちゃって、気が付いたら周くんのお部屋に」
「…うん、もう何かその認識で良いような気がしてきました」
いつの間にか、「周くん王子様☆」発言は夢オチにされてしまっていた。
「だから!そうよ、みーちゃんを探さなきゃ!」
きっぱりと言い放った撫子さんの瞳は決意に満ちている。
「はい?」
「えぇ…」
「だから、探しに行くのよ、みーちゃん」
相馬が口を挟む。
「…でも、探しに行くったって、猫ですよ?どうせ昼にはその辺ほっつき歩いて、夜になりゃ戻って来んだから放っとけば良いじゃん」
周も加勢する。
「そうですよ。まぁ遊んでもらってたのはありがたいんですが、放っときましょう」
「周くんっ!」
「はい…」
「周くんは…自分の猫が迷子だっていうのに、心配じゃないの?」
「いや別に…所詮猫ですし…」
そう言うと撫子さんは仰向けに寝転がりながら大きくため息をついた。
「全く、周くんがそんなだから結婚できないのよ…」
「あんたに言われたくない!」
「私が」
「どういう責任転嫁!?」
相馬はこちらをにやにやと眺めるだけで何もして来ない。
「とにかく、大丈夫です。心配してくれてありがとうございます」
周がそう言うと、撫子さんはむくりと起き上がり、大きな目をさらに見開いてうるうると周を見つめた。
「…何ですか」
「今この瞬間にも、みーちゃんが凶暴な熊に食べられているかもしれない…」
「ここは東京です」
「ビールの樽に落ちて溺れ死んでるかもしれない…」
「夏目漱石の猫と同じ末路を辿れるならそれも本望でしょう」
「黒猫から白猫に変化してるかもしれない…」
「美白ブームですしね、今」
「うう…周くんてば冷たい………」
「諦めて下さい」
冷たく言い放ったが、却ってそれが撫子さんの心に火を点けてしまったようだ。
「諦めないよっ!もういい、こうなったら私一人で行ってくるっ、見つけたら電話するから!」
言うなり撫子さんはものすごい速さで立ち上がり、裸足のまま和室を飛び出して行ってしまった。
一瞬の後、バタン、とドアの閉まる音。
「追い掛けろよ」
すぐさま、相馬が言った。
「外暗いし、撫子さん一人じゃ危ないだろ」
相馬の言う通り、窓の外ではもう既に日が沈んでいた。
「え、じゃあ相馬も…」
「悪い、俺この後バイトあるから」
「え、相馬バイトなんかしてたっけ?」
「ヒモってた彼女に二股かけてた事がバレて、今月結構ギリギリなの」
「おっまえ」
「ほら、さっさと行ってこいよ」
「……いや、僕はいいよ」
「何でだよ」
「どうせ行ったって撫子さんが探すのやめる訳じゃないし」
「そういうすぐ諦める所とかさ、お前の悪い癖だぞ」
「………どういう意味だよ」
「そのまんま。まぁ俺も強く言える立場じゃないし好きにすれば」
「……………………分かったよ、行けば良いんだろ行けば」
のろのろと立ち上がり、周はわざと足音を立てながら玄関へと向かった。
○●○●○●○
戸締まりちゃんとしとけよー、との捨て台詞を聞き終えてから、相馬は静かに携帯電話を取り出す。
「もしもしすみれちゃん?あ、今暇?うん、あ、マジで?じゃあさ、今からちょっと会わない?うん…うん、俺?俺はどこでも良いよ。じゃあ…そうだね、そこの公園にしようか。門限大丈夫?ん、じゃあまた後で。大好きだよ、愛してる」
電話の相手は相馬の彼女。絶賛バカップル中であり、もちろん別れ話なんてどこにもない。
電話を切った相馬は一人呟く。
「…あー…何妬いてんだ俺」
これじゃ、まるであの2人にあてられて思わず自分の彼女に電話した寂しい人みたいじゃないか。
「ま…その通りか」
そう言って起き上がると、近くにあった周の上着を勝手に掴んで袖を通す。
「意外と小さいな…」
かといって脱ぐ気にもなれず、相馬はその格好のまま待ち合わせ場所に向かって歩き出した。
●○●○●○●
「撫子さーん」
勢いで飛び出してきてしまったが、猫以前に撫子さんが見つからないまま15分が経とうとしている。
辺りはかなり暗く、夜風はきんと冷たい。
闇雲に歩いているうちに丁字路に差し掛かったので、適当に右へ曲がる。
すると、数歩先に、こちらに背中を向けて、両手に息を吐いて擦り合わせている撫子さんがいた。
「撫子さんっ」
撫子さんが驚いたように振り向く。
「周くん!…ごめんね、みーちゃんまだ見つからなくて…でも、もうすぐ見つかるから。そんな予感がするの」
周は、こちらを振り向くなりそんな言葉を並べ立てる撫子さんの肩を掴むと、静かに説得にかかる。
「もう良いです、もう良いですから。帰りましょう」
「周くん」
「撫子さんがこれだけ探しても見付からないんだから、もう諦めましょう。もしこのままみぃが帰って来なかったとしても、それはそれだけの縁って事です。…簡単に、いなくなるものなんだから」
「周くんっ」
途中から何を口走っていたのかわからない。
でも気が付くと、撫子さんが自分よりも頭ひとつ背の高い周の顔を、両手で挟んでいた。
そのままの見上げる体勢で周の目をまっすぐに見つめながら、静かに囁く。
「そんな寂しそうな顔、しないで。私も相馬くんも居るのに…簡単に、いなくなったりしないよ。わたしも、周くんの大切な人も、…みぃちゃんだって」
一言一言を、噛みしめるように。
「だから、簡単に諦めるなんて言わないで」
そこで唐突に、あ、と言って撫子さんが周の顔から手を放す。
「ほらね」
足元には、よく見慣れた黒猫がいた。
まるで、そこにいるのが当たり前だとでも言いたげに喉を鳴らす。
「………」
黒猫を拾い上げて立ち上がると、撫子さんが少しはにかんだように微笑っていた。
その笑顔のまま。
「みぃちゃんも、私の王子様も見つかったんだから、さ。周くんも………」
そのまま何を言うのかと思えば、不意に、照れたように俯いてしまう。
そうして今度は、誰にも聞こえない位小さな声で。
「こんな風に…いつまでも、ずっとずっと、遊んでいたいなぁ…」
ぽつりと呟いた。
撫子さんの事だから、いつものようにただ思ったことをそのまま口に出しただけなのかもしれない。
撫子さんについて知っている事は多くないから、はっきりした事は言えないけれど。
でもきっとそれは、撫子さんの心からの言葉である事に間違いはなかった。
だから周は、少し迷った末に何も聞こえなかったふりをして、撫子さんの手を取ってゆっくりと歩き出す。
「そろそろ、帰りましょうか」
「うん」
…そして、これからもずっと一緒に、遊びましょう。
小さく小さく、そう付け足した声は、秋の夜空に、静かに高く吸い込まれて行った。
○●○●○●○
同時刻、路地近くの公園にて。
「相馬くんさっきから何だか元気ないですけど。更年期障害ですか?」
「そうかな、そんな事ないと思うけど」
生返事をして微笑み、再び路地に目をやると、撫子さんが周に何かを囁いているようだった。
何を話しているのだろう。それがわからない事で、相馬の胸はざわざわとした胸騒ぎに襲われる。この感情は何なのだろうか。
「どうしたんですか。知ってる人?」
周の視線の先にいる2人に気付いたすみれちゃんがそう尋ねてくる。
「うん、俺の…友達、だよ」
「綺麗な人。あの女の人も相馬くんの友達ですか?」
「…そうだね、うん、友達」
そう答えた相馬の横で、すみれちゃんはしばらく沈黙する。
そして、相馬の方を見ないまま、訥々と、言葉を紡いでいく。
「……ちょっとぐらいなら。浮気とか二股掛けても怒らないですけど。相馬くんがそういう人なのは分かっていますし。でも一番に、私だけを見ていて下さい。ずっとずっと、私だけを好きでいて下さい。私が相馬くんを好きなのと同じぐらいか、それ以上に、相馬くんも、私の事を大好きでいて下さいね」
「……うん。約束な」
こんなにも純粋な思いに応える事が、俺に出来るのだろうか。そう心の中で呟いた相馬の脳裏に浮かんだのは何故か、こちらに向かって微笑む、周と撫子さんの姿だった。
「じゃあ、そろそろパパがうるさいので帰りますね」
「送ってくよ」
「………良いのですか?…………じゃ、じゃあ、その………て、」
「て?」
「手を。繋いでも…いいですか?」
「ああ、いいよ」
よく考えたら、すみれちゃんとは手を繋ぐのすら初めてだった。
差し出された手を、壊さないようにそうっと握って、歩き出す。
彼らが一歩を踏み出した、まさにその瞬間。
彼らの居場所から少し離れた路地でも、一人の姫君と王子様が手を繋いで、小さな一歩を踏み出した所だった。
fin.
拙い文章ですが、お読み下さりありがとうございました。