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「智、風呂は沸いてる? 今日は早めに用意しておくように言ってあったわよね?」
土間は玄関で靴を磨いている智に声をかけた。
「はい。沸かしてあります」智は相変わらずのむっつり顔で答えた。
智はこの華風組に来てからと言うもの、ずっと機嫌が良くなかった。それはそうだろう。ここにきてからと言うもの、毎日雑用に使われてばかりいるのだから。
本当は刀の素早い使いこなし方を教わって、誰よりも強くなりたいがためにここの門をたたいたと言うのに、刀を教わるどころか稽古場に近寄らせてももらえない。
いや、彼はここに組員として受け入れられてさえいなかった。組長である土間が、自分と杯を交わさなければここの組員にはなる事が出来ないのだ。
どうにかここに置いてもらってはいるものの、いまだに自分は居候扱い。朝の掃除のとき以外は事務所にすら入れてはもらえない。
やらされるのは掃除や洗濯、組に関係のある店への伝達や使いに出されるような事ばかり。それさえも店の裏口で従業員に頭を下げ、時には野良犬のように追い返されたりする。相手にどんなに尊大な態度を取られても、決して口答えをするなときつく言いつけられている。出来なければすぐ、ここから追い出すと言われてしまう。
街の不良で通っていた時は、これでもそれなりに「顔」が通用した智だったが、華風組に来てからと言うもの、誰に対しても頭をさげっぱなしで、ロクに存在を気に留めてさえもらえずにいる。これで機嫌がよくなれるはずはなかった。
「そんなふてくされた顔で返事しないの。今夜からあんたに雑用係より、マシな仕事を覚えさせるわ」
「え?」
智は心が躍った。やっと組員として認めてもらえるのだろうか?
「智、あんた、アツシさんの仕事をよく、観察しなさい。彼はウチの懐刀。彼の仕事を見ていれば、ウチの方針や幹部達の考え方がよく分かるはずよ」
膨らんだ期待が一気にしぼむ。自分がここに求めている事はそんな事じゃない。そう、言葉にしたいのは山々だが、自分はここの組員としてさえ認められていない。組長の温情でここに置いてもらっているだけの身だ。この人に出て行けと言われたら、今までの我慢は水の泡になってしまう。
「観察と言うと、俺、アツシさんに付いて歩いていればいいんですか?」
「そう、アツシさんの言う事をよく聞いて、なるべく彼の役に立つように行動しなさい。いわば、カバン持ちってところね」
雑用係よりマシになっても、所詮はカバン持ちか。これじゃいつ、組員になれるのだろう? いや、たとえ組員になれなくてもいいから、ドスや刀を握らせてもらいたい。しかし、刀嫌いのこの組長じゃ、そんなのいつになるか分からない。 もしかしたらアツシさんに取り入った方が、事は早いかもしれないな。
「分かりました。アツシさんのお手伝いをします」
「あら? 案外素直ね。じゃあ、今日はあんたが先に風呂をすませなさい。今夜アツシさんは料亭で土木関係者と会うからあんた、そこについて行くのよ。くれぐれもアツシさんの顔を潰すようなことのないようにね」
「俺が先に風呂、使ってもいいんですか?」普段は智が一番最後に使っている。
「相手方に失礼のないようにしなきゃならないからね。ちゃんと髭も剃っておくのよ。さあ、早くして」
きっちり小言も聞かされて、智は土間に風呂場へと追いやられた。
面倒だが仕方がない。組長を説得してもらえるように、まず、アツシさんから先に味方になってもらおう。
自分の卑屈さ加減が少々嫌になるが、智は土間に言われたとおり、アツシのもとに従う事にした。