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「ぐほっ!」
一樹は思わず声が出た。腹部のど真ん中に礼似のこぶしが見事に命中している。腹を抱えて足から身を崩した。
その背中を礼似は平手でバンバンと叩く。
「うん、ちゃんと鍛えてるわね。サンドバッグがわりにはなるかも。確かに気晴らしにはなるわ」
礼似がそう言っている間も一樹は息が出来ないらしく、ゲホゲホとせき込んでいる。その姿に背を向けて礼似は出入り口のドアへと向かって行く。そして振り返ると、
「サンドバッグでいいなら、少し考えてみてもいいわね。検討しておく。じゃ、今日は部屋に帰って寝るわ。また明日ね」
そう言いながら礼似はさっさと部屋を出ていった。一樹は呼吸がなかなか戻らない。
あいつ、思いっきり殴りやがった! 何とかみぞおちは避けられたが。いや、あいつがわざと狙わなかったんだろうか? どっちにしても遠慮する気は無かったらしい。あいつ、自分が馬鹿力だって事、忘れてんじゃねーのか?
だが、「検討しておく」か。意外にダメもとで迫ってみた効果はあったようだ。
これからこの組の中で礼似は、会長に次いで孤独な立場になる。あいつだって分かっているだろう。そんな時に香を手放すのは想像以上にしんどいはずだ。俺でさえ情けないがこっちの世界に戻ってしまった。あいつじゃもっと逃げ場がないだろう。さすがの礼似でも動揺はしているようだ。
本来のあいつなら、このくらいの事は慣れ切ってる。もっと簡単にかわしたはずだ。これは礼似としてはかなりの過剰反応だ。こんなに本音が見えるとは正直思わなかった。
少しは昔の気分を思い出したのかもしれない。まだ、可愛げが残ってるじゃないか。ただ。
はあ、っと大きくため息をつく。ようやく呼吸が戻ってきた。
「ちょっとは手加減しろよなー。仮にも昔の恋人なんだから……」
ようやく出るようになった言葉で、一樹は思わず愚痴ってしまった。
礼似は幾分軽くなった気分で部屋に向かっていた。
一樹ったら、あいつ、わざと私のこぶしをよけなかった。最近の動きを見れば、十分昔の感覚は取り戻していたはずなのに。バカねえ。真正面から受けるなんて。
一樹が避ける気なら避けられるのが分かっているから、私も思いっきり殴りかかった。おかげで本当にスッキリした。実はこのところ、結構ストレスが溜まっていたから。
全く避けるそぶりさえ見せなかったって事は、私が殴るんなら理屈抜きに受け止める。いつだって私を受け入れるつもりがあるってことなんだろう。
相手をやり込めようって時には実に良く回るあの舌が、こういう時には急に重くなる。結局態度に表すしかない、あいつの意外な不器用さは今も変わっていないらしい。
とりあえず気持ちだけは受取っておこうか。気弱になって頼る気持ちが起こっては厄介だけど、やっぱり身近にこういう存在がいてくれるのは、決して悪い気分じゃない。
マンションの部屋の前で鍵を取り出しながら、ふとつぶやく。
「あれ、明日にはアザになってるんじゃないかしら?」
まあ、しょうがないか。あっちが好きで避けなかったんだから。キスマークの代わりだと思って我慢してもらおう。たいして変わりゃ、しないでしょ。
一樹が聞いたら頭を抱えそうな事を考えながら、礼似は部屋に入って行った。