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だが御子は、その考えを心から追い払う。こういう憎しみが、巡り巡って異常な考え方に、繋がっているような気がしたのだ。
私は犯人のような考えは持たないわ。香じゃないけど、絶望なんてしない。どんな心でも、どんな心理でも、考え方一つで希望に変えられる。こんな事をする犯人への憎しみはあるけれど、そんなもので人間に絶望したりはしないもの。
今、ここにいる人達を、ここにある命を助けたい。単純にそう思える。その心こそが希望だわ。
その頃こてつは、由美の言いつけどおりに、真っ直ぐ、屋上にいるハルオの元へと、階段を駆け上がっていた。ところがその先の嫌な気配を感じ取り、こてつは足を止めた。
そこには一人の青年が、うなだれて座り込んでいた。一見、居眠りでもしているように見えた。
細く、神経質そうな体型で、良く見ると何か、独り言をぶつぶつと言っている。その顔が不意に上げられて、こてつの方を見た。
それは御子も感じとっていた。
「しまった!」思わず声に出た。
「どうした? 犯人が何かしでかしたか?」良平が心配そうに聞く。
「犯人とこてつが出くわしたわ。同じ階段を使っていたなんて。こてつ、うまく逃げて!」
御子の言葉を聞いて、由美が真っ青になった。
「こてつ! 逃げなさい! 走って!」
隙間の外に向かって叫んだ。
そこにこてつがいる訳でもないのだが、いつもの命令をかけるような口調が出た。
こてつは青年と目があってしまってから、恐怖で足がすくみあがってしまった。青年からは、何か異様な雰囲気が漂っていた。それはこてつをおびえさせるには十分なものだった。全身の毛が逆立ち、どうしたらいいのか分からなくなってしまう。
思わずそこに固まってしまっていたのだが、その時、
「走って!」
と、由美の声が聞こえたような気がした。
すると、まるで魔法が解けたかのように身体が動いた。いつもの命令をこなすように、身体が勝手に駆け出していく。
無我夢中で階段を駆け上がり、必死に走った。しばらくして踊り場で足を止め、後ろを振り返る。追いかけられる気配はないようだ。こてつはハアと深く息をついた。
気がつくとすぐ上に、屋上への出入り口が見えた。こてつはハルオの姿を求め、階段を更に駆け上がって行った。
「こてつ、走り去ったわ。犯人も追うつもりは無いみたい」御子はそう言って、大きく息をついた。真見を抱いたまま、全身の力が抜ける。良平が慌てて真見もろとも御子を支えた。
「良かった……。こてつは無事なのね」由美も涙ぐんでいる。
「ええ。そのまま真っ直ぐ屋上に向かって行ったわ。さすがね。ちゃんと奥様に言われた事を、憶えているんだわ」
これでこてつは大役を果たしてくれる。その安ど感で、場の空気が柔らかくなった。
「勿論よ。こてつにとって私の命令は絶対ですもの」
由美は胸を張ってそう言った。




