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由美はこてつの首輪に手紙をしっかり結びつけると、その目を見て優しく言い聞かせていた。
「いーい? こてつ。これはとっても大切なお使いなの。余計な物に触らず、道草しないで、真っ直ぐ、ハルオさんのところに行くのよ。分かったわね?」
こてつは訳が分かっているのか、いないのか。少し小首をかしげると、由美の目を真っ直ぐ見つめて、甲高い声でワンと鳴いた。
そのこてつを例の扉の隙間に連れていくと、近くにいた子供が声をかけて来る。
「こてつ、ここから出るの?」少しさみしそうな顔だ。
「ええ、お使いでね」由美が答える。
「お使い?」不思議そうに聞き返す子供に、御子が答える。
「私達を助けに来てくれるように、お願いに行ってもらうのよ。大丈夫。きっとみんな、ここから出られるからね」そう言って、にっこり笑って見せた。
「そうなんだ。頑張って、こてつ」
そう言って子供はこてつの頭を軽くなでる。手を振る子供の姿に見送られて、こてつはあの隙間を潜り抜け、屋上に向かって駆け出して行った。
嘘も方便。子供にはああ言って聞かせたが、こてつに持たせた手紙には、本命の爆弾のありかと、犯人がいよいよ自爆の覚悟を決めた事を記し、ハルオに届けるよう、こてつに言い聞かせて出してやったのだ。
こてつの責任は重大だ。このデパートの中にいる人間、すべての命がかかっている。犯人より先に屋上にたどり着き、ハルオに爆弾を始末させなくてはならないのだ。
下のフロアの爆発の後、やはり皆、落ち着きを失ってしまっている。自分たちの頭上に、今までの爆弾よりも強力な爆発物があると知ったら、間違いなくパニックに見舞われるだろう。
それならば、もうすぐ救助の手が差し伸べられると、希望を持ってもらう方がいい。実際、救助隊はこっちに向かっているはずだ。あながち嘘とは言えない。
これで、本当に救助隊が来るまでの間、パニックが抑えられればいいんだけど。
自分達は何も動く事が出来ない以上、御子達が出来ることはこのくらいが精いっぱいなのだ。
そのあいだにも御子の頭の中に、犯人の声が聞こえ続けていた。ずっとその声を追ううちに、自然とそこに思考の周波があってしまうようになっているのかもしれない。
(何が余計なことは考えるな、だ。俺はこれまで、人が考えないような事をして、うまい事やって来たんだ。考えない奴等は馬鹿だ。俺はそんな奴らとは違う。質の違う人間のはずだ)
犯人は自分の考えごとに、心を捕らわれはじめたらしい。死を意識することから、再び逃げているのかもしれない。
怒りで身体の動きが止まったのが分かる。いいわ。このまま少しでもじっとしていてほしい。こてつがハルオのところにたどり着くまで、少しでも時間を稼いでほしい。こてつの道行きだって安全ではない。全員の命を救うため、危険を承知で行かせたのだ。御子は祈るような思いで、犯人の心の声を聞いている。
(さんざん競争を勝ち抜いて来て、誰よりも要領よく掻い潜ってきて、結果がデパートでチマチマ道具を売れって? 冗談じゃない。何故俺が、その辺の子娘と一緒になって、売り子のまねごとをさせられるんだ? 俺の知恵を売り場に生かせだと? 俺は、そんな事をするために、この世に生まれたわけじゃない。俺の様な人間は、別の生き方が用意されているはずだったんだ!)
御子は真底悲しくなる。コイツ、本当の自意識過剰タイプだ。ジコチューとか、ワガママとか、そんなもんじゃない。正真正銘の、自己愛主義。世の中は自分のためにあって、自分の考えはすべて正しくて、自分がいるからこそ、この世は成り立っていると、心から、信じ切っている。