↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ルミナスの軌跡  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
34/34

第34章 同じ光の中を

1

 武道館公演から、一か月が過ぎた。

 ハルカは、今も朝の集合時間より二十分早く来る。ユイは、今も鞄の中を毎日探している。リナは、今も誰より先に練習を始め、誰より最後まで鏡の前に残る。一万一千人の前で歌った翌週も、その翌週も、三人のその癖は一つも変わらなかった。

 午前九時。スターライトエージェンシーの新しいリハーサル室で、三人は床に座っていた。ハルカは温かいお茶を両手で包みながら歌詞を読み、ユイは片方しか見つからないイヤホンを探し、リナは靴紐を結び直している。

「昨日も片方なくしてなかった?」

 ハルカが顔も上げずに尋ねる。

「昨日は右。今日は左」

「左右で一組にしたら?」

「してるよ」

「鞄の底」

 リナが短く言った。ユイが鞄を逆さにする。ノート、化粧ポーチ、のど飴、充電器、ペン、鍵、会員から届いた小さな手紙が、次々と床へ落ちた。そして最後に、左のイヤホンが転がり出た。

「あった」

「毎日同じ」

 リナが呆れたように言う。

「見つかるところまで同じなら、問題ない」

「その考え方が問題」

 三人の会話も、武道館の前と何も変わっていない。朝の発声、柔軟、基礎練習、振付の確認、歌詞の読み合わせ。できなかった箇所を、できるまで繰り返す。武道館に立った翌日から、急に踊りが楽になったわけではなかった。

 ハルカは高音へ入る直前、疲れてくると顎が上がる。ユイは客席を意識しすぎると、振りが半拍だけ早くなる。リナは完璧に揃えようとするほど、かえって一人で先へ行ってしまう。ERI先生の指摘も、四年前から少しも変わっていない。

「武道館に立ったからって、重力は軽くならないわよ」

 三人は汗を流し、息を切らし、同じ床の上で何度もやり直す。

 大きく変わったのは、三人の周りのほうだった。以前は倉庫を改装した狭い練習場を一時間いくらで借り、廊下で着替え、隣の部屋の音が止むのを待って録音していた。今のリハーサル室には、防音された広い床がある。天井には本番用の照明位置を想定できる印が打たれ、壁の一面は大きな鏡、もう一面は動きを確認するための映像モニターになっている。入口には入館証が必要で、廊下には警備担当者が立っている。三人の名前を知らない来客は、この建物にはもうほとんどいない。

 事務所の電話は、朝から鳴り続けていた。音楽番組、情報番組、雑誌、新聞、ラジオ、配信番組、広告代理店、海外イベントの担当者。地方自治体からの観光企画に、学校からの講演依頼まで来ている。

 武道館公演の一曲だけ許可した撮影で投稿された映像は、今も増え続けていた。北側から見たハルカ、東花道で歌うユイ、西から中央へ戻るリナ、そして南側へ向けられた三人の背中。同じ曲、同じ三分間なのに、どの映像も違う景色を映している。何百、何千という視点が重なり合って、LUMINAを知らなかった人のところへ届いていた。

 公式アカウントのフォロワーは、武道館の前の倍を超えた。LUMINA HOMEの会員数も、この一か月で大きく増えている。街を歩けば、三人のうち誰かが必ず気づかれる。コンビニの雑誌棚に顔が並び、駅の大型ビジョンで新曲が流れ、テレビをつければ、歌っていない三人まで映る。

 それでも、練習を終えたユイは、今日も床へ大の字に寝転がった。

「お腹すいた」

「起きて」

「あと三分」

「衣装合わせまで二十分です」

「じゃあ二分」

「減らしただけ」

 ハルカがユイの腕を引いて起こす。リナは鏡の前で、一人だけ最後の八拍を繰り返していた。

「リナも終わり」

「もう一回」

「それを五回聞きました」

「今ので少しずれた」

「午後に続けます」

「今、直した方が」

「疲労した状態で繰り返すと、ずれた動きを身体が覚える」

 ERI先生が横から言った。リナは口を閉じ、素直に鏡から離れた。

「武道館のあとも、青木さんとERI先生は厳しい」

 ユイが言う。

「武道館のあとだから、ではありません」

「アリーナに行っても?」

「同じです」

 その言葉に、三人が同時にこちらを見た。

 まだ、正式には何も伝えていない。私は手元の予定表を、少し急いで閉じた。

「午後の会議で話します」

「今の、答えですよね」

 ハルカが言う。

「会議で」

「青木さん、隠すの下手になりました?」

 ユイが起き上がる。

「高橋さんほどではありません」

「比較する相手が悪い」

 リナのその一言に、三人が声を上げて笑った。

 変わっていない。少なくとも、この部屋の中では。ただ、この扉の外には、武道館よりさらに大きな地図が広げられて待っていた。

2

 私の一日は、午前六時半に始まる。

 三人の体調報告を確認し、前日の取材記事を読み、SNSの反応を、肯定も否定も含めて拾う。テレビ局から届いた台本に目を通し、広告契約の表現を法務と照らし合わせ、リハーサルの時間と移動時間を分単位で計算する。食事、休養、警備、衣装、権利処理、ファンクラブ、武道館公演の映像商品。そして、まだ発表前の全国アリーナツアー。

 一か月前まで、私は武道館を無事に終わらせることだけを考えていた。今は、全国八都市をつなぐ日程表が、机の上を端から端まで覆っている。

 大阪、名古屋、福岡、札幌、仙台、埼玉、横浜、東京。会場ごとに形が違う。客席数も、搬入口の高さも、天井までの距離も違う。武道館と同じ演出をそのまま持ち込むことはできない。移動距離、設営日、撤収、三人の休養、スタッフの宿泊、機材車の運行、気候、台風、雪。予測できるものを一つずつ、表の升目へ埋めていく。

 午前八時、高橋から電話がかかってきた。

「東京の最終公演、二日間にできる」

「追加条件は」

「まだ説明してない」

「日程表を見ました。横浜二日間のあと、東京まで九日ある。ただし、その間にCM撮影とテレビ収録を入れています」

「東京の前に三日空ける」

「移動日を休養日に含めないでください」

「横浜から東京だ。移動は短い」

「距離の問題ではありません。ホテルを出て、車に乗り、撮影へ向かえば仕事です」

 電話の向こうで、高橋が一度黙った。反論ではなく、計算し直している沈黙だと分かった。

「CM撮影を一日早められる。テレビ収録はツアー後へ動かす」

「三人の完全休養を三日。東京一日目の前日は、会場入りと短い確認だけ。それなら同意します」

「大阪の開幕二日間は?」

「前日に会場リハーサル。二公演後は二日休養してから名古屋へ移動。条件は変えません」

「大阪で始まり、東京で終わる。横浜も二日間。公演数は増える」

「十一公演です。高橋さんの最初の案は、十二都市十五公演でした」

「削ったのは君だ」

「削りました」

 電話の向こうで、椅子の軋む音がした。

「青木さん。三年でドームに立つと決めたのは君だよ。十一で足りると本気で思ってる?」

「思っていません」

「じゃあなぜ」

「三年後の東京ドームには、三人が三人で立っていなければ意味がないからです。十五公演を組めば、九月の札幌でリナの足首が持ちません」

「持たせる方法もある」

「持たせるのと、無事なのは違います」

 高橋は、しばらく黙っていた。

「……僕は、あの条項を作った側の人間だ」

 高橋の声が、一段低くなった。二年前の夏、六本木の会議室で私と向かい合って座っていた男の声だった。

「二年前の夏、君が譲らなかった時、僕は商業的合理性があると言って社内を説得した。あの時、僕も『アーティスト側』が誰かを詰めなかった」

「高橋さんの責任ではありません」

「責任の話じゃない。同じ書類に同じ日に署名した人間が、今、同じ表を見てるという話だ」

 少しの間があった。

「三年後、うちの会社は君たちに負ける。僕はその側にいて、負ける計画を一緒に作ってる」

「嫌ですか」

「最高だよ」

 その一言で、私は十一公演を押し通すことに決めた。

「収益は出ます」

「簡単に言うね」

「高橋さんが作った標準案を、購入率も客単価も低く置いて再計算しました。それでも黒字です」

「もう計算したの?」

「午前五時に資料が届きました」

「六時半から仕事じゃなかった?」

「確認したのは六時二十八分です」

「二分で?」

「数字の矛盾だけです。詳細はこれから」

 電話の向こうで、高橋が長いため息をついた。

「武道館が終わって、少しは休むと思った」

「高橋さんこそ」

「俺はプロデューサーだから」

「私はマネージャーです」

「今はマネージャーの仕事量じゃない」

「高橋さんが仕事を増やすからです」

 窓の外で、事務所の前の通りをトラックが一台通り過ぎた。武道館の翌週から、この電話は毎朝かかってくる。

「CMを断る?」

「内容によります」

「全国放送。大手飲料メーカー。三人が新商品の顔になる。契約期間は一年」

「競合範囲が広すぎます。飲料全般ではなく炭酸飲料に限定。SNS投稿の事前承認は四十八時間以内。私生活で競合商品を持った写真が偶然写った場合まで違約にしない」

「先方と同じこと言ってる」

「それなら話が早い」

 高橋が、電話の向こうで書類をめくる音を立てた。しばらく、その音だけが続いた。

「青木さん」

「はい」

「最近、俺が言う前に全部言うよね」

「以前は、高橋さんが私へ言わずに全部決めていました」

「根に持ってる」

「記憶しているだけです」

「もう武道館は終わった」

「隠した事実は終わりません」

「それでも、今は同じ資料を見てる」

「ええ」

「同じゴールを見てる」

「ゴールではありません。次の予定です」

「言葉の問題」

「大切な問題です」

 こういう言い合いは、ほとんど毎日続いている。私が三人の休養を増やせと言い、高橋が機会を逃すなと言う。高橋が演出を広げようとし、私が予算と安全の側から削り直す。私が契約の危険な条項を指摘し、高橋が宣伝効果の大きさを説明する。

 けれど、それはもう、どちらかが勝つための議論ではなくなっていた。三人が長く歌い続けられる形を、二人で探すための議論だった。以前の私は、相手からどれだけの譲歩を引き出せるかということばかりを考えていた。今は、高橋が何を守ろうとして数字を押してくるのかが分かる。そして高橋も、私が止める時、その理由を先に聞くようになった。

「大阪二日間で開幕。横浜二日間を経て、東京二日間で終える。各連続公演の前後に休養日を置く」

「同意します」

「素直だね」

「条件が適切です」

「たまには、俺の案がいいと言って」

「いい案だから同意しました」

「それで十分か」

「CM契約の修正版を送ってください」

「はいはい」

「返事は一回」

「青木さん、学校の先生みたいになってる」

「高橋さんが生徒のような返事をするからです」

 通話が切れた。数秒後には、修正版の契約書が届いていた。競合範囲は炭酸飲料に限定され、私生活上の偶発的な映り込みは故意でない限り違約の対象外とされ、SNS原稿の承認期限も四十八時間になっている。高橋は、電話をかけてくる前に、すでに全部直していた。

 私は短く返信した。

『確認しました。ありがとうございます』

 返事はすぐに来た。

『今の、保存した』

 私は画面を伏せた。伏せてから、自分が少しだけ笑っていることに気づいた。

3

 武道館後、最初のCM撮影は、海に近い大きなスタジオで行われた。商品は透明な炭酸飲料で、広告のテーマは『まだ知らない朝へ』。三人は白を基調に、それぞれ違う色を差した衣装を着る。ハルカは青、ユイは黄色、リナは銀。

 体育館ほどもある巨大なセットには、朝焼けを模した橙色の光が低く差し込み、床には薄く水が張られていた。三人が走るたび、足元から細かな水しぶきが立ち上がる。たった十五秒の映像を撮るために、朝から夕方まで、同じ動きを繰り返した。

「もう一度お願いします」

 監督の声が飛ぶたび、三人はスタート位置へ戻る。ハルカが商品を持ち、ユイが振り返り、リナが最後に二人の間へ入る。笑顔。走る。水しぶき。商品を掲げる。

「カット」

 モニターの前に人が集まる。

「リナさん、最後、ほんの少しだけ笑顔を柔らかくできますか」

「はい」

「ユイさんは、振り返りをもう少し大きく」

「はい」

「ハルカさん、台詞の最初だけ、息を多く」

「はい」

 三人は一度も嫌な顔をしなかった。ライブの一曲より短い十五秒に、何時間も向き合い続けている。

 休憩に入ると、ユイは濡れた靴下を脱ぎながら言った。

「CMって、もっと簡単だと思ってた」

「笑って飲むだけ?」

 リナが尋ねる。

「そう」

「一番難しい」

「リナちゃん、笑顔を柔らかくって言われてた」

「聞こえてた」

「こう?」

 ユイが不自然に口角を上げてみせる。

「それは怖い」

 ハルカが吹き出した。

 スタジオの外には、三人を待つ警備担当者が立っている。移動車も、もう一台ではない。衣装車、メイク車、制作車。広告代理店の担当者が何人も出入りし、三人が水を一口飲むだけでも、商品ラベルの向きを確認する人がいる。撮影終了後には、メイキング映像の取材まで組まれていた。

「武道館を終えて、生活は変わりましたか」

 インタビュアーが尋ねた。ハルカが答える。

「周りは大きく変わりました。でも、三人でしていることは、あまり変わっていません」

「たとえば?」

「朝、ユイが物を探して、リナが練習をやめなくて、私が二人を急かします」

 スタッフから笑いが起きた。

「ハルカも歌詞を読みながら歩いて、壁にぶつかりそうになります」

 ユイが言い返す。

「一回だけ」

「昨日も」

「昨日は椅子」

「もっと危ない」

 リナが静かに言い添えた。インタビュアーは、心底嬉しそうに三人を見た。

「本当に仲がいいんですね」

 三人が、少しだけ黙った。

 仲がいい。その言葉一つでは、三人がここまで来た四年を表せない。私はモニターの外から、三人がどう答えるのかを見ていた。

 ユイがマイクを持ち直す。

「仲がいい日もあります」

「ない日も?」

「あります」

 ハルカが頷いた。

「言い合う日も、話したくない日もあります。前は、そういう日が来たら終わりだと思っていました。でも、今は終わらせないために話せます」

 リナが続ける。

「仲がいいから一緒にいるというより、一緒にいたいから、仲が悪くなった時も向き合います」

 三人は、過ぎたことを美しい言葉へ変えすぎなかった。傷つけたこと、離れたこと、言えなかったこと。そのどれも消さないまま、今の自分たちを話している。

 撮影後、広告代理店の担当者が私へ名刺を差し出した。

「三人のやり取り、とてもいいですね。次回は個別の広告企画も」

「内容を確認してからです」

「もちろんです。ハルカさんには化粧品、ユイさんには菓子、リナさんにはスポーツブランドからも話が来ています」

「三人を分ける企画は、活動日数と本人の希望を先に確認します」

「人気が上がっている今、機会を逃すのは」

「一人だけが外の仕事で疲れ、三人の練習が崩れる形にはしません」

 担当者は少し驚いた顔をして、それから深く頷いた。

「分かりました。企画書をお送りします」

 仕事は増えた。選べる機会も増えた。それと同じ分だけ、断る責任も増えた。

 誰も見ていなかった頃は、一本の依頼が来るだけで四人で喜んだ。今は、届いた依頼の山の中から、三人が三人でいられるものだけを選び取らなければならない。忙しさは、必要とされている証ではある。けれど、必要とされるままに自分を差し出し続ければ、いつか中身のほうがなくなる。

 私は、三人を有名にするためだけにここにいるのではない。三人が自分の名前を失わずに進んでいくために、ここにいる。

4

 午後四時。三人と私、高橋、そして大類社長が会議室へ集まった。テーブルの中央には、黒い表紙の資料が四冊、揃えて置かれている。表紙の文字を見たユイが、口を開けたまま止まった。

『LUMINA 全国アリーナツアー実施計画』

「やっぱり」

 ハルカが私を見る。

「朝、青木さんが答えを言いました」

「言っていません」

「アリーナに行っても同じ、って」

「仮定です」

「下手になった」

 リナにまで言われた。高橋が、隣で笑いをこらえている。

「高橋さん」

「何も言ってない」

「顔が言っています」

「青木さんが隠し事に向いてないのは、前から知ってる」

「高橋さんにだけは言われたくありません」

 大類社長が、わざとらしく咳払いをした。

「始めていいか」

 全員が座り直す前に、社長は自分の資料の最後のページを開いた。

「その前に一つだけ言っておく。この計画の営業利益は、うちの創業以来の最高額を大きく超える」

 三人が顔を上げた。

「超えていい。超えないと間に合わない。理由は三人とも知ってるな」

「知ってます」

 ハルカが答えた。

「三年だ。三年でドームへ行って、あの曲を全部録り直す。そのために、俺は判子を押した」

 社長は、資料の角を指で叩いた。

「四年間、赤字の紙しか見てこなかった男が、初めてまともな黒字の計画を見てる。二晩眠れなかった」

「嬉しくて、ですか」

「怖くてだ」

 大類社長は、私を見なかった。

「この規模になると、間違えた時に落ちる高さも変わる。……青木、お前が一年半黙ってた気持ちが、二晩で少し分かった」

 返す言葉がなかった。

 全員が姿勢を戻す。正面のモニターに、日本地図が表示された。大阪、名古屋、福岡、札幌、仙台、埼玉、横浜、東京。八都市、十一公演。開幕の大阪と、横浜、最終公演の東京は、それぞれ二日間。都市から次の都市までの間隔は、最短でも四日を空けてある。設営日と休養日を含め、全体で三か月半。

「武道館公演後のチケット需要、ファンクラブ会員数、地域別の楽曲再生、物販購入、テレビ出演後の認知率を基に、各会場の販売見込みを出した」

 高橋が説明する。

「すべてを満席にできると断言はしない。ただ、どの地域にも、待っている人がいる。地方へはこちらから会いに行き、最後は全国で受け取った光を東京へ持ち帰る」

 ユイが地図から目を離さずに言った。

「最初が大阪」

「二日間です」

 私が答える。

「三人が初めて大きくぶつかり、離れかけた場所から始めます。あの夜を再現するためではありません。今の四人で、新しい出発にするためです」

 リナが、地図の大阪の文字へ指を置いた。

「怖いけど、最初がいい」

 ユイの視線が、地図の一番上まで上がる。

「北海道も?」

「行く。時期は初秋。大雪の可能性は低い。ただし輸送遅延の予備日を置く」

 高橋が答えた。

「仙台は?」

「東北での単独公演は初めて」

「福岡も」

「ええ」

 ハルカの指が、関東に並ぶ二つの印の上で止まった。

「横浜も二日間」

「ええ。会場の規模も動線も違います。二日間を同じ公演にはしません」

「東京も?」

「東京も二日間。そこでツアーを終えます」

「青木さんが決めたんですか?」

「高橋さんと決めました」

「言い合って」

「話し合って」

「同じです」

 高橋が小さく笑った。

 資料には、会場図や日程だけでなく、演出の考え方も書き込まれていた。武道館の三百六十度ステージを、そのまま再現はしない。会場ごとの形をまず受け入れる。正面のある会場では、奥行きを使う。長い花道が作れる会場では、客席の中へ入っていく。スタンド後方まで声と表情を届けるため、映像と音響を会場ごとに調整する。一曲だけスマートフォン撮影を許可し、その一曲は土地ごとに変える。ライブ配信は行わない。会場へ来られない人へは、ツアー期間中の三人の言葉と写真を、LUMINA HOMEで届ける。

「炎は?」

 ユイが尋ねた。

「会場ごとに使える場所が違う」

 高橋が答える。

「全部で使うことは考えてない。武道館と同じことを繰り返すツアーにはしない」

「銀テープは?」

「東京の最終日」

「文字は?」

「まだ決めてない」

 三人が顔を見合わせる。高橋が資料を閉じた。

「ここまでが計画です。やるかどうかは、三人が決める」

 会議室が静かになった。以前の高橋なら、機会を示すとき、期限と数字を先に机へ置いていた。今は、三人の返事を待っている。

 ハルカが私を見た。

「青木さんは、どう思いますか」

「私の意見を先に聞かないで」

「でも、一緒に行けるか知りたいです」

「行くと決めたなら、一緒に行きます」

「忙しいですよ」

「今も忙しい」

「もっとです」

「分かっています」

「身体、持ちますか」

 ユイが心配そうに尋ねた。

「それは私が三人へ聞くことです」

「今日は逆」

 リナも私を見る。

「青木さんが倒れたら、私たちは困ります」

「倒れません」

「前も言ってました」

「武道館の終演後、椅子に座らされてた」

 ハルカが続ける。

「今度は、青木さんの休養日も入っていますか」

 三人の視線が、揃って高橋へ向いた。高橋は、私の分の資料を開いてみせた。

「入ってる。本人は消そうとしたけど、戻した」

「高橋さん」

「同じチームの安全管理」

「私は出演者ではありません」

「出演者だけが人間じゃない」

 大類社長が、腕を組んだまま頷いた。

「青木。お前がいなければ、現場が止まる。止まる人間を休ませない計画は、計画になっていない」

 四年前、赤字の月報を前にして「今月何回連続だ」と私を睨んだのと、同じ低い声だった。三人が、私を見ている。

「休みます」

 私が答えると、ユイが吹き出した。

「録音したかった」

「高橋さんと同じことを言わないで」

 ハルカが、資料の表紙へ手のひらを置いた。

「私は、行きたいです」

「理由は?」

 高橋が聞く。

「武道館に来られなかった人の近くへ、今度は私たちが行く。その言葉を聞いた時、もう決まりました」

 ユイも頷いた。

「私も行きたいです。まだ会ったことのない人に会いたい。前は、誰か一人が来てくれるだけで嬉しかった。今は、来られない人がたくさんいることを知ったから」

 リナは、もう一度大阪の文字へ指を置いた。

「私も」

「怖くない?」

 私が尋ねる。

「怖いです」

 リナは、目を逸らさずにそう答えた。

「大阪から始めるのが怖い。あの時みたいに、うまくいかなくなるかもしれない。でも、今は怖いって言えます。離れかけた場所から、今度は四人で全国へ出発したい」

 ハルカとユイが、同時にリナを見た。

「帰りは?」

 ユイが尋ねる。

「四人で帰る」

「喧嘩しても?」

「誰も一人で帰さない」

 リナの目が、少しだけ濡れていた。

 私は資料の最後にある承認欄へ目を落とす。会場名、公演日、予算、責任者。そのどこにも、四人で帰る、という条項は書かれていない。それなのに、それがこのツアーで最も重要な条件だった。

「では、正式に進めます」

 高橋が言った。

「LUMINA、初の全国アリーナツアー」

 三人の手が、テーブルの中央で重なる。私の手も、その上へ置かれた。

「青木さんも」

「私は承認欄を」

「先に」

 四人の手が重なる。高橋は、その様子をテーブルの向かい側から見ていた。

「俺は?」

「資料を進めてください」

「そういう扱い?」

「高橋さんは向かい側です」

 リナが言った。それから、少し考えるように付け足した。

「でも、同じ方向」

 高橋は一瞬だけ驚いた顔をして、それから笑った。

「それでいい」

5

 全国アリーナツアーの発表は、音楽番組の生放送で行われることになった。

 発表までの二週間、三人は誰にも話せない。取材で「次の目標は」と聞かれても、決まっていませんと答えるしかない。CMの記者発表でも、今後の予定については準備中とだけ伝える。LUMINA HOMEにも、まだ出せない。情報管理のため、資料へ触れられる人数はぎりぎりまで絞った。

 会場との契約、宿泊、移動、保険、演出、物販、ファンクラブ先行。発表前でも、準備は一日も止められない。私は高橋と毎日顔を合わせて会議をした。

「ツアータイトル、これでどう?」

 高橋がモニターに文字を出す。

『LUMINA ARENA TOUR CIRCLE OF LIGHT』

「英語だけでは、三人の言葉が見えません」

「海外展開も考えてる」

「日本語の副題をつけます」

「案は?」

「『光を結ぶ旅』」

「少し真面目すぎる」

「高橋さんの案は広告のようです」

「ツアー自体が広告でもある」

「ファンは商品説明を見に来るのではありません」

「じゃあ、三人に聞く」

 三人を呼んだ。ハルカは、モニターの二案を長いあいだ見比べていた。

「どちらも少し遠いです」

「遠い?」

 高橋が聞き返す。

「私たちが今、使う言葉じゃない気がします」

 ユイがホワイトボードへ歩いていき、太いペンで一行だけ書いた。

『会いに行く』

「そのまますぎる?」

「いい」

 リナが即答した。

「私たちが行くんだから」

 ハルカが、その下へ一行を足す。

『LUMINA ARENA TOUR 会いに行く』

 高橋は腕を組んだまま、しばらくホワイトボードを見ていた。

「英語の格好よさが消えた」

「分かりやすい」

「青木さんは、絶対そっちだと思った」

「覚えてもらえることが大切です」

「会いに行く、か」

 高橋は、モニターの英語を消した。

「負けた」

「勝ち負けではありません」

「三対一だった」

「四対一です」

「青木さんも数えるんだ」

 ツアータイトルは『会いに行く』に決まった。

 発表映像には、武道館の派手な炎を並べないことにした。最初に映るのは、地下のライブハウスへ続く狭い階段。開場前の、誰もいない客席。三人で駅前に立って配ったチラシ。物販台に並べた、手作りの写真。走行距離だけが増えていった古いハイエース。雨の高速道路。東京、名古屋、大阪。小さなライブハウスで、前列の数人へ向かって歌う三人。テレビ局の狭い楽屋。三千人ホール。武道館の円形ステージ。そして最後に、日本地図へ八つの光が順に灯る。

 映像の終わりに、三人の声が重なる。

『今度は、私たちが会いに行きます』

 編集スタジオで仮映像を見終えたあと、誰もすぐには口を開かなかった。ユイが、最初の地下ライブハウスの場面まで映像を巻き戻す。

「これ、誰もいない時ですよね」

「開場前です」

「開場しても、ほとんど変わらなかった」

 リナが言った。

「七人」

 ハルカが、画面の中の客席を数える。

「この人、今も来てくれてます」

 ユイが画面の端を指した。青い帽子をかぶった男性だった。まだLUMINA HOMEもなく、公式のペンライトもなく、三人の名前を知る人がほとんどいなかった頃から、この人は客席にいた。

「あの頃、ライブが終わったあと、何を考えてました?」

 ハルカが私へ尋ねた。

「次の会場費」

「それだけ?」

「交通費。物販売上。チラシの残数」

「私たちのことは?」

「見ていました」

「本当ですか」

「声が出ているか、振りを間違えていないか、客席が退屈していないか」

「数字ばかり」

 ユイが言う。

「続けるには必要でした」

「今は?」

「今も必要です」

 三人が笑った。

「でも、今は数字の向こうにいる人を知っています」

 青い帽子の男性。母親と来た少女。遠征の費用を何か月もかけて貯めた人。仕事を終えて、開演に間に合うように走ってきた人。会場へ来られず、ファンクラブへ声だけを送った人。私が表に打ち込んできた一つの数字は、いつでも、誰か一人の生活の一部だった。

 誰も見ていなかったのではない。見てくれる人が少なかっただけだ。そして三人は、その少ない一人を、最後まで見失わずに歌っていた。だから、今がある。

「この映像、残しましょう」

 私は言った。

「客席が少ないことを隠さない。暗くしすぎない。哀れに見せない。三人は、あの時も同じように歌っていました」

 高橋が編集担当へ振り向いた。

「最初の十二秒、そのまま。音楽も入れない。足音と、会場の空調音だけ」

 それから、私を見た。

「同意する?」

「ええ」

「珍しい」

「同じものを見ているからです」

 高橋は、小さく頷いただけだった。

6

 発表前日、ユイの個人取材があった。雑誌の特集テーマは『過去とどう向き合うか』。事前に質問項目は届いている。高校時代のプリクラ流出についても、本人が希望するなら触れたい、と書かれていた。

 私は、その質問を外すこともできた。

「嫌なら、断ります」

 控室でユイへ質問票を渡しながら、私は言った。

「聞かれたくないなら、ここで削る」

 ユイは、その一枚をじっと見つめた。

 一枚のプリクラ。LUMINAを結成する前、高校生だったユイが、当時の友人と撮った写真。恋人でも、交際相手でもない。ただの思い出を、知らない誰かが勝手に切り取り、裏切りと呼んだ。ファンを騙した。清純派の裏の顔。金を使わせていた。悪意のある言葉は、写真そのものより速く広がった。

 あの朝、ユイは謝罪文を書きかけていた。自分が何か悪いことをしたのだと、思わされていた。私は三人のスマートフォンを取り上げるようにして預かり、法務の担当者と契約書を抱えて高橋の部屋へ向かった。ハルカはユイを守ろうとして、守りきれない自分を責めた。リナは怖さを隠すために、正しい言葉を刃のように使った。三人は、外から向けられた悪意より先に、内側で互いを傷つけた。それでも最後には、同じ部屋に残った。

「話します」

 ユイが言った。

「本当に?」

「はい。今なら」

「答えたくない質問は、途中でも止めます」

「青木さんが止める前に、自分で言います」

 取材が始まった。インタビュアーは、煽るような聞き方をしなかった。

「あの写真が出た時、最も苦しかったことは何でしたか」

 ユイは、しばらく考えてから答えた。

「写真を見られたことより、自分の過去が悪いことにされたことです」

「友人と写真を撮ったことを後悔しましたか」

「いいえ」

 その声は、少しも震えていなかった。

「あの時は、後悔しなきゃいけないと思いました。友達と笑って写真を撮った私が悪かったのかなって。でも、今は違います。高校生だった私も私です。友人と過ごした時間も、その子と笑って写真を撮ったことも、消さなくていい」

「ファンへの申し訳なさは?」

「勝手に期待を裏切ったと言われて、申し訳ないと言いそうになりました。でも、私はファンの皆さんへ、過去を持たない人間だと約束したことはありません」

 ユイは、そこで一度、深く息を吸った。

「歌う時に嘘をつかないこと。会えた時間を大切にすること。今の自分を隠さないこと。それが、私にできる約束です」

 インタビュアーが頷く。

「あの出来事を乗り越えたのは、一人の力ですか」

「一人だったら、無理でした」

 ユイは、迷わずに答えた。

「ハルカとリナがいました。青木さんが、私の代わりに大人たちと戦ってくれた。高橋さんも契約を止めないでくれた。ファンの皆さんが、写真一枚で私の歌まで嘘にしなかった」

「今、同じことで苦しんでいる人へ伝えたいことは?」

 ユイの目に、うっすらと涙が浮かんだ。

「誰かに勝手に切り取られた自分が、自分の全部になることはありません。説明できない日があっても、泣いている日があっても、その人の時間は続きます」

 取材が終わる。ユイはマイクを外し、椅子の背へもたれて長く息を吐いた。

「怖かった」

「止めてもよかったのよ」

「止めなくてよかったです」

「無理してない?」

「少ししました」

 ユイは笑った。

「でも、自分で選んだ無理です」

 私は、鞄から一枚の紙を出した。来月の予定表の、ユイの帯だけを印刷したものだ。

「これ、私が入れたんじゃないわよね」

 水曜日の午後に、榊原真琴、六十分、と入っている。

「自分で予約しました」

「リナも同じ日?」

「整体は木曜にずらしてました。かぶると、私が付き添ってもらえないからって」

 ユイは笑って、それから少しだけ泣いた。

 控室の扉が開き、ハルカとリナが入ってきた。二人は別の撮影を終えて、わざわざ迎えに来たらしかった。

「どうだった?」

 ハルカが尋ねる。

「話した」

「全部?」

「話したいところまで」

 リナが、ユイの顔を正面から覗き込む。

「泣いた?」

「少し」

「じゃあ、今日は私が荷物持つ」

「それだけ?」

「他に何をすればいい?」

 ユイが笑って、鞄を差し出した。

「重いよ」

「知ってる。物が多いから」

「イヤホンも入ってる」

「両方?」

「たぶん」

 三人が控室を出ていく。私は少し後ろから、その背中を見ていた。

 あの朝、ユイは布団の中で声を殺して泣いていた。ハルカは守れない自分を責めた。リナは怖いと言えないまま、二人を傷つけた。今、三人は過去をなかったことにせず、同じ廊下を並んで歩いている。乗り越えるというのは、忘れることではないのだと思う。痛かった場所がどこにあるかを覚えたまま、もう一度そこへ手を伸ばせるようになることだ。

7

 アリーナツアー発表当日。テレビ局の控室には、三人の衣装がすでに並べられていた。生放送で披露するのは『同じ朝を迎えるまで』。武道館で撮影を許可した、あの一曲だ。今では、三人を知らなかった人のところにも広く届いている。

 廊下を歩くと、別の番組へ出演する俳優が三人へ頭を下げた。若いタレントが「武道館、見ました」と声をかけてくる。局のスタッフが写真を求めてくる。一か月前より、さらに多くの人が三人を知っていた。

 控室の前には警備員が立ち、扉の横には三人の名前が大きく貼られている。以前は、扉の隅に小さく『LUMINA様』と印刷された紙を見つけるだけで、四人で喜んでいた。今は、廊下で一番広い控室が用意されている。

 ユイがソファへ座り、机の上の菓子を見た。

「これ、CMの会社の商品」

「撮影中に他社商品が映らないように入れ替えたんです」

「本当に環境が変わった」

 ハルカが鏡越しに言う。

「前は、お弁当が三つあるだけで喜んでた」

「青木さんの分がなくて、四人で分けた」

 リナが続けた。

「私は食べました」

「半分だけ」

「一個を四人で分けたから」

 ユイが菓子を一つ取り、私へ差し出す。

「今日はあります」

「本番前に食べないで」

「青木さんの分」

「あとで」

「また忘れます」

「忘れません」

 三人が、同時に私を見た。

「持っておきます」

 私は菓子を鞄へ入れた。

 本番三十分前。高橋が控室へ入ってくる。

「発表映像、最終版」

「今?」

 私は立ち上がった。

「変更はありませんか」

「ない。昨日、全員で確認したものと同じ」

「本当に?」

「青木さん、信用すると言ったよね」

「武道館の時は」

「期限付きだった?」

「更新には実績が必要です」

「今日で更新して」

 高橋が端末を差し出す。私は映像を最初から最後まで、早送りせずに確認した。地下の階段から始まり、七人の客席、三人のチラシ、古いハイエース、大阪の雨、武道館、そして八都市の光まで、昨日全員で確認したとおりの順番で並んでいる。予定にない映像は、一つも入っていなかった。

「確認しました」

「信用は?」

「一日延長します」

「短い」

「明日から、ツアーの演出会議です」

「じゃあ毎日更新して」

 高橋が笑った。それから表情を変え、三人のほうへ向き直る。

「三人とも」

 三人が顔を上げた。

「発表した瞬間から、いろいろな数字が動く。申込、会員、再生、記事、期待、批判。全部増える」

 三人は黙って聞いている。

「でも、数字が大きくなっても、今日歌う一曲は変わらない。目の前のカメラの向こうに、一人ずついる」

 その言葉は、かつて私が三人へ言ったことと、ほとんど同じ形をしていた。

「楽しんで」

 高橋が言う。

「それだけですか」

 ユイが尋ねた。

「青木さんに細かいことは全部言われてるでしょ」

「言われました」

「じゃあ、俺はそれだけ」

 高橋が控室を出ようとする。

「高橋さん」

 私は呼び止めた。

「何?」

「ありがとうございます」

 三人が、こちらを見た。高橋は、少しだけ目を見開いた。

「今のも保存したい」

「早く持ち場へ」

「はいはい」

「返事」

「はい」

 高橋が出ていった。

「二人、仲よくなりましたね」

 ハルカが言う。

「なっていません」

「言い合いが柔らかくなった」

 リナが続ける。

「前は、空気が凍ってました」

 ユイにまで言われた。

「仕事が進めば、それでいいんです」

「認めてる?」

「能力は最初から認めています」

「人としては?」

「本番十五分前です」

 三人が笑った。答えなくても、もう分かっている顔だった。

8

 生放送が始まった。スタジオの客席には、ファンクラブ会員から選ばれた百人が入っている。そしてテレビの前には、その何万倍もの人がいる。

 三人がステージへ上がった。

『同じ朝を迎えるまで』。

 武道館より、ずっと小さなステージだった。正面がある。三人はカメラの向こうへ向かって歌う。ハルカが遠くへそっと置く一節。ユイが中央へ戻りたい身体を抑える数秒。リナが最後に歩き出す瞬間。三百六十度もなければ、炎も銀テープもない。それでも三人は、その狭いステージの上に、曲が必要とする距離をきちんと作った。

 最後の一行。

『帰る場所ではなく 共に帰る人になろう』

 曲が終わり、拍手が起きる。司会者が三人を中央へ招いた。

「武道館単独公演から一か月。LUMINAの皆さんから、今日は大切なお知らせがあります」

 三人が顔を見合わせる。ハルカが口を開いた。

「私たちLUMINAは」

 ユイが続ける。

「初めての」

 そしてリナが。

「全国アリーナツアーを行います!」

 客席から歓声が上がった。三人の背後で、映像が始まる。

 暗い地下へ続く階段。開場前の空調音だけが流れる、誰もいない客席。やがて、そこに七人が座る。今より若い三人が、緊張した顔でステージへ上がっていく。今の三人が、その映像をじっと見つめている。

 チラシを配る手。売れ残った写真。物販売上を数える私の背中。古いハイエースへ機材を積み込む四人。東京、名古屋、大阪。そして、雨。

 一人で新幹線へ乗ったリナ。その場面そのものは映らない。空いた助手席と、雨に濡れた車窓だけが映る。ユイのプリクラも映らない。代わりに、三人のスマートフォンが伏せて置かれた六畳間のテーブルと、ハルカの手と、ユイの涙と、リナの握った拳が映る。契約書を抱えて走る私。そして三人は、再び同じステージへ立つ。小さなライブハウス。三千人ホール。武道館。円の中央で、四人だけで撮った写真。

 最後に、日本地図へ八つの光が順に灯った。大阪、名古屋、福岡、札幌、仙台、埼玉、横浜、東京。

 三人の声が重なる。

『今度は、私たちが会いに行きます』

 ツアータイトルが現れる。

『LUMINA ARENA TOUR 会いに行く』

 スタジオの百人が、一斉に立ち上がった。歓声と拍手と、泣きながら名前を呼ぶ声が、狭いスタジオの中でぶつかり合う。ハルカは何度も頭を下げ、ユイは口元を両手で覆い、リナは泣かないように顔を上げていた。

 映像の下に、公演日程が現れる。大阪二日間で開幕し、名古屋、福岡、札幌、仙台、埼玉を巡って、横浜二日間へ。そして、東京二日間で最終公演を迎える。

「全国を回る今の気持ちは?」

 司会者が尋ねた。

「待っていてくれる人の近くへ行けることが、嬉しいです」

 ハルカが答える。ユイが続けた。

「初めて会う人にも、ずっと見てくれた人にも、一人ずつ会いに行きます」

 最後にリナが、まっすぐカメラを見た。

「最初は大阪です。私たちにとって、怖かった場所で、大切な場所です。離れかけた三人が、今度はそこから一緒に出発します」

 ハルカが、二人の言葉を受け取るように頷く。

「横浜の二日間を越えて、最後は東京の二日間です。全国で会えた皆さんの光を持って、私たちは東京へ帰ってきます」

 スタジオの端で、私は無線を握ったまま三人を見ていた。高橋が、隣へ来る。

「成功?」

「発表は」

「ツアーは?」

「これからです」

「やっぱり、まだ言わない」

「最終公演が終わってから」

「三か月半待つのか」

「準備を入れれば、もっとです」

「その間、毎日言い合う?」

「必要なら」

「順調だね」

「ええ」

 私は、初めて否定しなかった。高橋が、少し笑う。

「よろしく、青木さん」

「こちらこそ」

 握手はしなかった。互いに、自分の持ち場へ戻る。それで十分だった。

9

 発表から三日後、ファンクラブ先行の受付が始まった。

 申込は、開始直後から伸び続けた。大阪、名古屋、福岡、札幌、仙台、埼玉、横浜、東京。すべての会場へ数字が入っていく。中でも、これまで一度も単独公演のなかった札幌、仙台、福岡から、待ち続けていた人たちの反応が相次いだ。横浜と東京の二日間には、遠征の日程を組み直したという書き込みが並んだ。

『東京へ行けなくて諦めていました』

『やっと地元で会えます』

『母と行きます』

『最初のライブハウスから見ています。大阪の初日から東京の最終日まで、全部行きます』

『武道館は落選しました。今度こそ会いたい』

 LUMINA HOMEには、新しい会員が増える一方で、昔からの会員が戸惑っている声も混ざっていた。

『遠くへ行ってしまった気がする』

『もう小さな会場では会えないのかな』

『有名になって嬉しい。でも寂しい』

 私は、その言葉を削除させなかった。祝福だけを並べれば、そこは家ではなく、ただの広告になってしまう。そして、その画面をそのまま三人にも見せた。

「どう答えますか」

 ハルカが、時間をかけて画面を読んだ。

「寂しいって言ってくれることを、否定したくないです」

 ユイが頷く。

「私も、変わってないって言い切るのは違うと思う。会える時間は減ったし、警備も増えた。前みたいに、物販で一人ずつ長く話すことはできない」

 リナは、しばらく考えてから口を開いた。

「でも、大きい会場でも、一人ずつ見ることはやめない」

 三人は、ファンクラブへ短い映像を投稿することにした。豪華なスタジオではない。練習を終えたばかりのリハーサル室で、髪は汗で濡れ、三人とも床に座ったままだった。

 ハルカが話す。

「アリーナツアーを喜んでくれた皆さん、ありがとうございます。そして、遠くへ行ってしまうようで寂しいと書いてくれた皆さんも、ありがとうございます」

 ユイが続けた。

「私たちの環境は変わっています。会える形も、できることも変わりました。変わっていないと言ったら、たぶん嘘になります」

 リナが、まっすぐカメラを見る。

「でも、皆さんを数字として見ないことは変えません。一人ずつが時間を使って、会いに来てくれることを忘れません」

 ハルカが、少し間を置いてから付け加えた。

「それから、もう一つだけ。私たちは、これから三年、たぶん今よりずっと速く進みます」

 撮影を止めるべきか、一瞬迷った。止めなかった。

「理由は、いつか話せる日が来たら話します。今は、四人で決めた期限があるとだけ言わせてください。会える回数は増えます。でも、一回ずつが短くなるかもしれません」

 ユイが続ける。

「置いていくわけじゃないです。走るので、ついてきてください」

 リナが、めずらしく先に口を開いた。

「三年後、たぶん、すごく遠い場所にいます。それでも、そこから一人ずつ見えるようにします」

 三人が声を揃える。

「私たちが、会いに行きます」

 投稿のあと、たくさんの言葉が返ってきた。

『寂しいと言ってよかったんだ』

『変わらないと言い切らない三人を信じたい』

『大きい会場でも見つけてください』

『待っています』

 三人は、そのすべてを読むことはもうできない。数が増えすぎた。それでも三人は、毎日一つずつ選び、三人で読む時間を作った。仕事のためではない。自分たちが、どこへ向かって歌っているのかを忘れないためだった。

 その日の最後に選んだのは、写真も名前もない、短い投稿だった。

『七人のうちの一人です。あの日、続けてくれてありがとう』

 三人は、長いあいだその一行を見つめていた。

「七人の、誰だろう」

 ユイが言う。

「分からなくていい」

 リナが答えた。

「今もいてくれる」

 ハルカが、そっと目元を拭った。

「私たちの方こそ、あの日見てくれてありがとうって言いたい」

 私は、その投稿画面をすぐには閉じなかった。数字にすれば、たった一。けれど、その一人がいなければ七人にはならなかった。七人がいなければ、一万一千二百八十六人にもならなかった。日本地図に八つの光が灯ることも、なかった。

10

 ツアーの合同リハーサルが始まる前日、四人で大阪へ行くことになった。会場の下見でもなければ、取材でもない。開幕公演の演出を考える前に、三人が最初に大阪で立ったライブハウスをもう一度見たいと言ったからだった。

 店は、今も同じ場所に残っていた。建物の外壁は塗り直され、看板の色も変わっている。それでも、地下へ続く階段はあの頃と同じ狭さのままだった。一段下りるごとに、湿った空気の匂いが濃くなっていく。

「覚えてる」

 ユイが言う。

「ここで、青木さんに怒られた」

「何度も怒りました」

「リハーサルに遅れた時」

「あれは東京」

「じゃあ、ここは?」

「物販用の写真を忘れた」

 ハルカが答えた。

「ユイ、何回忘れてるの」

「昔のことだから」

「今もイヤホンを忘れる」

 リナが言う。

 階段の下で、店長が待っていた。四年前より、髪に白いものがずいぶん増えている。

「本当に来た」

 三人を見るなり、店長は笑った。

「武道館の人が、うちの地下に入ると狭いだろ」

「前より狭く感じます」

 ユイが答える。

「大きくなったからだ」

「身体は変わってません」

「そういう意味じゃない」

 客席には、誰もいなかった。あの日の光景とよく似ている。違うのは、今の三人を知らない人が、この国にほとんどいないということだけだった。

 三人がステージへ上がる。武道館の円形ステージなら、中央の印の内側にも収まってしまう広さだった。三人が横へ並ぶだけで、もう余白がなくなる。照明の数は少なく、スクリーンもない。炎も、銀テープもない。

「何か歌う?」

 店長が尋ねた。三人が私を見る。

「声出し程度なら」

 私はそう答えた。

「マイクは使いません」

 ハルカが最初の音を取る。選んだのは『夜明け前の境界線』——四年前、この同じ床の上で最初に歌った曲だった。振付はつけず、三人で肩が触れるほど近くに並び、声だけを重ねていく。

 客席は、店長と私の二人だけだった。一万一千人から、二人へ。それでも、三人の歌い方は何一つ変わらなかった。目の前にいる人へ届くように、言葉を急がず、声を飾りすぎず、互いの呼吸を探しながら歌う。

 曲が終わると、店長が拍手をした。私もそれに続く。地下の低い天井に反響した二人分の音は、ひどく小さかった。それでも三人は、武道館で一万人の拍手を受けた時とまったく同じ深さで、頭を下げた。

「ありがとうございました」

 店長が、指の腹で目元を拭った。

「最初に来た時、正直、半年もたないと思った」

 ユイが笑う。

「ひどい」

「客はいない。歌は固い。物販も売れない。マネージャーはずっと怖い顔で数字を見てる」

「そこまで?」

 私が尋ねると、店長は首を振った。

「でも、終演後に四人で床を拭いてた」

 店長が、ステージの端を指す。

「客が七人しかいないのに、次はもっと見てもらいますって言った。普通は、悔しいとか恥ずかしいとか、そういう顔をするもんだ。でも三人は、その七人の顔を覚えようとしてた」

 ハルカが、誰もいない客席を見渡した。

「覚えています」

「だから、もしかしたら残るかもと思った」

 店長は三人を見た。

「残ったどころじゃなかったな」

 リナが首を振る。

「まだ残っただけです」

「リナらしい」

「これからも残ります」

「それなら、また戻ってこい」

「アリーナのあとに?」

 ユイが尋ねる。

「客は入らないぞ」

「二人います」

 ハルカが、店長と私を交互に見た。

「七人より少ない」

「人数じゃないんだろ」

 店長のその一言に、三人が笑った。

 ライブハウスを出ると、外は雨になっていた。強い雨ではない。細かな雨が、夕方の街をゆっくり濡らしている。

 あの大阪の夜も、雨だった。

 公演がうまくいかなかった夜だ。音響の返しが最後まで安定せず、三人は自分の声を見失った。終演後の楽屋で、悔しさがそのまま言葉の刃になった。リナが二人へぶつけた言葉を、私は今でも一字も忘れていない。

『泣けば誰かが守ってくれると思わないで』

『仲良しでいたいだけなら、私はいらない』

 私は話を止め、四人で帰ろうとした。それでもリナは、一人で新大阪駅へ向かった。残っていた金で切符を買い、一人で新幹線に乗った。帰りのハイエースでは、助手席が空いたままだった。ユイは後部座席で泣き続け、ハルカは何度も電話をかけ、私は運転しながら、管理することと向き合うことを取り違えてきた自分を責めていた。リナから連絡が来るまで、車内の誰一人として、自分たちが四人のままでいられると信じきれていなかった。

「あの時、ここから駅まで、どうやって行ったの?」

 ユイが尋ねる。

「歩いた」

 リナが答えた。

「雨の中?」

「途中からタクシー」

「傘は?」

「持ってなかった」

「びしょ濡れ?」

「少し」

「風邪ひかなかった?」

「そこ?」

 三人が笑う。

 以前、同じ話を口に出した時は、笑えるようになるまでに長い時間が必要だった。今も、傷が消えたわけではない。ただ、その夜のことを、三人で思い出せるようになった。

「新幹線で、何を考えてた?」

 ハルカが尋ねる。リナは、雨の向こうを見たまま答えた。

「戻れないと思ってた」

「LUMINAに?」

「三人に」

 ユイの顔から、笑みが消えた。

「東京に着いたら、辞めるって言うつもりだった。自分から離れれば、二人をこれ以上傷つけないと思った」

「どうして言わなかったの?」

「二人から、ずっと連絡が来てたから」

 リナが鞄からスマートフォンを取り出す。

「あの時のメッセージ、まだ消してない」

 画面には、何年も前のやり取りがそのまま残っていた。

 ハルカ。

『電話に出なくていい。無事だとだけ教えて』

 ユイ。

『怒っててもいいから、一人で終わらせないで』

 私。

『東京で待っています。話は四人でします』

 そして、リナが最後に返した一行。

『新横浜を過ぎました』

「短い」

 ユイが言う。

「あの時は、これ以上書けなかった」

「でも、返してくれた」

 ハルカが、リナの肩へ手を置いた。

「あの一行があったから、待てた」

 雨が、少し強くなる。私は鞄から折り畳み傘を出して開いた。三人が、こちらを見る。

「青木さんだけ、また持ってる」

 ユイが言った。

「天気予報を確認しました」

「入れてください」

「三人で一つの傘へ入るでしょう」

「今日は四人で」

 ハルカが私の傘の下へ入ってきた。ユイも入る。リナが最後に、肩を縮めるようにして入った。

「狭い」

 私が言う。

「ライブハウスより?」

「比較になりません」

「でも、入れます」

 四人で一つの傘へ入れば、当然、外側の肩から順に濡れていく。歩きにくいし、歩幅も合わない。傘の骨が誰かの頭に当たるたび、小さな悲鳴が上がる。それでも、誰一人として外へ出ようとはしなかった。駅までの道を、四人でそうやって歩いた。

11

 東京へ戻る新幹線では、四人で一列の席を取った。窓側から、リナ、ユイ、ハルカ、そして私。車両が静かに動き出し、雨に濡れた大阪の街が、少しずつ後ろへ流れていく。

「前は、一人でこの景色を見てた」

 リナが、窓へ指先を触れさせた。

「今日は四人」

 ユイが言う。

「席は別々だけど」

「そこは仕方ない」

 ハルカが笑った。

 新大阪を出てしばらくすると、三人は静かになった。リナは窓へ頭を預け、ユイは駅で買った菓子の袋を開け、ハルカは膝の上でツアー資料を広げている。

「今、読まなくていい」

「少しだけ」

「明日からリハーサルです」

「だから」

「今日は休む日」

「青木さんも」

 ハルカが、私が開いたばかりのノートパソコンへ視線を落とした。

「閉じてください」

「メールを一通だけ」

「それ、何回目ですか」

「三通目」

 ユイが目も開けずに数える。

「見てたの?」

「全部見ています」

 私がいつも三人へ言っている言葉を、そのまま返された。私はノートパソコンを閉じた。

「閉じた」

「珍しい」

 リナが、窓ガラス越しにこちらを見る。

「高橋さんに報告しよう」

「必要ありません」

 言い終わらないうちに、スマートフォンが震えた。高橋からだった。

『大阪、どうだった?』

 私は画面を三人へ向けた。

「何て返しますか」

「四人で帰っています」

 ハルカが言う。

「傘に入れてもらいました」

 ユイ。

「歌いました」

 リナ。私は三つをまとめて一行にして送った。

『四人で歌い、四人で傘に入り、四人で帰っています』

 返事はすぐに来た。

『それなら、ツアーも大丈夫だ』

「簡単に言う」

 私が呟くと、もう一通が届いた。

『明日の会議、十時からに変更した。午前は休んで』

 三人が身を乗り出して画面を覗く。

「高橋さん、分かってる」

「珍しい」

「お互いに変わりましたね」

 ハルカが私を見た。

「私は変わっていません」

「そう言うと思った」

 三人が笑う。

 車窓の雨が、いつのまにか弱くなっていた。厚い雲の切れ目から、傾きかけた夕方の光が細く差している。

 明日から、全国アリーナツアーの準備が本格的に始まる。テレビ出演は増え、CMが放送され、雑誌の表紙が決まり、新曲の制作が始まり、会場ごとの演出と衣装と物販と取材と移動が、数えきれないほど積み上がっていく。三人は、もっと多くの人に知られる。褒められ、期待され、そして時には、また誤解される。誰かの言葉に傷つく日が来る。思うように歌えない日も来る。意見が合わない夜もある。四人でいることが、苦しくなる日だってあるかもしれない。

 それでも、私たちはもう知っている。バラバラにならないことが強さなのではない。離れそうになった時に、戻るための言葉を持っていることが強さなのだ。泣かないことが強さなのではない。泣いている誰かの隣へ座り、泣き終わるまで黙って待てることが強さなのだ。失敗しないことが強さなのではない。失敗を隠さずに、もう一度三人で始められることが強さなのだ。

 誰も見ていなかった地下のステージ。高校時代の一枚のプリクラが、悪意に変えられた朝。一人で新幹線へ乗った大阪の夜。七人しかいなかった客席。最後まで満員にならなかったライブハウス。三千人の声。武道館の円。そのどれか一つでも消してしまえば、今の三人ではなくなる。

 光だけで、ここまで来たのではなかった。暗い場所で、互いの姿を手探りで探した時間が確かにあった。だから三人は、光の中でも互いを見失わない。

「青木さん」

 ユイが呼んだ。

「何?」

「アリーナツアーが終わったら、次はどこですか」

「まだ始まってもいません」

「もし、全部うまくいったら」

「終わってから考えます」

「海外?」

 ハルカが言う。

「ドーム?」

 リナが続ける。

「小さいライブハウスへ戻る?」

 ユイが最後に言った。

「全部、可能性はあります」

「本当に?」

 ハルカが聞いた。この子は、いつも本当のところを聞く。

「三年以内に、と付け加えます」

「三年」

「三年です。それより遅いと、間に合いません」

「怖いですか」

「怖いです」

 即答できたことに、自分で少し驚いた。以前の私なら、大丈夫です、と答えていた。

「間に合わせるために、三人のどこかを削るなら、私は途中でやめます。曲は諦めます。それは武道館の前の日に約束しました」

「覚えてます」

 ハルカが言った。

「だから走れるんです」

「青木さんは、どこへ行きたいですか」

 三人が、揃って私を見た。

 以前の私なら、迷わず数字で答えていた。動員、売上、会員数、契約、続けられる場所。今でも、それらは大切だ。数字がなければ歌う場所は守れないし、利益がなければスタッフへ正しく払えないし、計画がなければ三人の身体を守れない。けれど、行き先だけは、数字では決まらない。

「三人が、自分で行きたいと決めた場所へ」

 私は答えた。

「どこでも?」

「条件は確認します」

 ユイが笑う。

「やっぱり青木さん」

「でも、一緒に?」

 ハルカが尋ねた。

「必要とされる限り」

「必要です」

 リナが即答した。

「ずっと」

 ユイが言う。

「ずっと、は契約書に書けません」

「書かなくていいです」

 ハルカが、穏やかに笑った。

「私たちが覚えているから」

 三人の手が、座席のあいだで重なった。ユイが、私の手を引っ張る。

「青木さんも」

「狭いわ」

「傘より広い」

 四人の手が重なる。

 左手首の青と白の糸は、いつのまにか、ずいぶん色が薄くなっていた。大阪から何度も雨に濡れ、汗に濡れ、それでも切れずに残っている。けれど、いつかは切れるだろう。物は、永遠には残らない。会場も変わる。名前を呼ぶ人も変わる。三人も、私も、これから変わっていく。

 変わらないことを約束する必要はない。変わるたびに、もう一度選び直せばいい。一緒に行くことを。話すことを。そして、戻ることを。

「明日、十時ですね」

 ハルカが言った。

「九時五十分集合です」

「十時じゃないんですか」

「会議は十時。集合は十分前」

 ユイが吹き出す。

「全国アリーナツアーでも、十分前」

「基本です」

「五分前じゃ駄目?」

「駄目です」

「リナは何時に来る?」

「九時」

「早すぎ」

「練習する」

「午前は休んでって、高橋さんが言ってた」

「九時まで休む」

「青木さん、止めて」

「九時半までは来ないで」

「分かりました」

「素直」

「今日だけ」

 四人で笑った。

 新幹線は、東京へ向かって走り続けている。窓の外には、名前も知らない町の家々が、途切れることなく続いていた。その一つずつの窓に、夕方の灯りがついている。大阪、名古屋、福岡、札幌、仙台、埼玉、横浜、東京。あの八つの都市にも、こういう窓が数えきれないほどあって、まだ会ったことのない人が、それぞれの生活の中でこちらを待っている。

 三人は、これからも成長していく。歌える音が増え、踊れる場所が広がり、自分の言葉で怖いと言えるようになり、傷ついた誰かへ、隣にいると伝えられるようになる。私はこれからも、三人の前を歩く時もあれば、後ろから見守る時もあるだろう。止めて、叱って、守って、任せて、そして時には、三人に支えられる。高橋とは、きっと明日も言い合う。それでも、同じ資料を開き、同じ三人を見て、同じ方向へ進んでいく。

 完璧な日々にはならない。完璧でなくていい。

 誰も見ていない場所から始まったあの光は、今、数えきれない人のところへ届いている。三年後には、その何倍もの場所へ届いていなければならない。私たちは、そこまで行く。

 けれど、どれだけ大きくなっても、その光の中心にあるものは、会場の広さでも、増えた数字でもない。三人が互いを探すこと。四人が同じ場所へ帰ること。待っている一人へ、会いに行くこと。それだけは、これからも何度でも選び直せる。

 ユイが眠り始めた。ハルカが資料を閉じる。リナは、まだ窓の外を見ている。私は、重なった手をまだ離さなかった。

 遠くに、東京の街の光が見え始める。終着駅ではない。また出発するための場所だ。

「帰ったら、何を食べますか」

 眠っていたはずのユイが、目を閉じたまま言った。

「起きてたの?」

 ハルカが笑う。

「お腹すいた」

「東京へ着いてから決めます」

「四人で?」

「四人で」

 リナが、窓からこちらへ顔を戻した。

「高橋さんは?」

「明日の会議で」

「かわいそう」

「仕事中です」

「私たちも仕事中だった」

「今は移動です」

「移動は休養じゃないって言ってた」

 ユイが目を開けた。私は言い返せなかった。三人が声を上げて笑う。

「では、高橋さんにも聞きます」

「大類社長も」

「ERI先生も」

「人数が増えています」

「みんなで帰る場所だから」

 ハルカのその言葉に、私は頷いた。スマートフォンを開き、短いメッセージを送る。

『東京到着後、食事をします。参加できる方は連絡してください』

 高橋から、すぐに返事が来た。

『行く。店は任せて』

 大類社長。

『顔だけ出す』

 ERI先生。

『明日のリハーサルに響かない時間までなら』

 ユイが横から画面を覗き込む。

「みんな来る」

「予約が必要ね」

 ハルカが言う。

「高橋さんが探します」

「任せるんですか」

 リナが尋ねた。

「店選びは、信用します」

「一日延長?」

「内容によります」

 また三人が笑った。

 新幹線が、夜の東京へ入っていく。外の景色が暗くなるにつれ、窓ガラスには四人の姿が並んで映るようになった。ハルカ、ユイ、リナ、そして私。誰も、一人ではなかった。

 明日になれば、また忙しい日々が始まる。全国の地図を広げ、新しい曲を覚え、知らない会場へ入り、歓声を聞き、失敗して、言い合って、笑う。そして、何度でも同じ場所へ帰ってくる。

 列車が速度を落とした。東京駅の明かりが近づいてくる。私は三人へ声をかけた。

「着きます。行きましょう」

 三人が、顔を上げた。

「はい」


 「見つけてもらえない」という感覚から、この物語は始まりました。フォロワー三百五十人、客席の半分が空いたライブハウス。そこから武道館の一万一千人まで、光は本当に届くのか——それを確かめたくて、マネージャー・青木の目を通して、彼女たちの四年間を書き続けました。


 書きながら気づいたのは、光の届く距離が伸びるほど、守るべきものと差し出さねばならないものの境界が、少しずつ曖昧になっていくということでした。原盤権、契約書の条文、営業利益という数字。冷たい言葉の裏側に、いつも誰かの「歌い続けたい」という願いがあることを、青木と一緒に、何度も確かめ直すような気持ちで書いていました。


 隠すこと、言えないこと、それでも黙って隣にいること。ハルカ、ユイ、リナの三人と、彼女たちを支える大人たちの間で交わされる、小さな沈黙と小さな告白の積み重ね。派手な奇跡よりも、そちらの方を書きたかったのだと、書き終えてから気づきました。


 左手首に結ばれた糸のように、切れずに残るものがあります。この物語を最後まで読んでくださったことも、私にとっては、そのひとつです。心から感謝いたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。