君が残したノートで、僕は──
「何笑ってんの?」
長い髪を後ろの方へまとめた女子──綾夏が顔を覗き込んできた。
「……いやとくに何も」
僕がそう返すと彼女は「勉強に集中しなよ。もう8月だよ」と強い口調で言った。
シャーペンを回しながら、問題を眺める。何も頭に入ってこない。
そんな様子の僕にしびれを切らしたのか、綾夏が僕の頭を優しく叩く。
「アダッ」
「ほら、夏休みの始めのときに渡したあげた受験対策のノートあるでしょ?わからないならそれ見てやって」
僕の不格好な声を完全にスルーして彼女はそう告げる。
ノートを広げると、解説がきれいな文字で分かりやすくまとめられている。
「ありがとう」僕はそう一言呟いて、また勉強を始めた。
「そういえば、綾夏って東京の大学行きたいんだっけ?」
「うん」
「僕も同じとこにしよっかな」
彼女は少し、驚いたような声を出すとその後
「私の行きたいところ、難しいけど大丈夫なのー?」
そう言ってニヤニヤしながら僕を見てきた。
「だから、勉強教えて」
そう僕が言うと、彼女は人差し指を前に突き出していった。
「もし、受からせることができたら一つだけお願い聞いてよ」
「いいよ」
綾夏は顔に笑顔を浮かばせながら、宣言した。
「私が絶対受からせると約束しよう!」
◇
朝、リビングへ行くと母さんが台所にいた。
「今日、学校行く」
「……そう」
母さんは、少し心配そうな顔をしながら僕を見送った。
教室へ入ると、いつも通り綾夏が話しかけてきた。
「おはよー、今日も頑張ろーね!」
「うん」
放課後、綾夏は僕の家に来た。
少し不機嫌な顔をして、僕の勉強机の前にある椅子を占領している。
「どうして私が怒っているかわかりますか―?」
「わかりません」
すると、彼女はとても大きな声で話し始めた。
「今、何月?」
「10月です」
「私知ってるんだからね。晴翔が勉強さぼってること」
綾夏は椅子から立ち上がって、僕の鞄を指差す。
「何に悩んでるのかは知らないけど、今この時期に勉強することよりは大きな悩みではないことは明白です!!よって、シャーペンを握って私があげた完璧なノートを開く!!わかった?」
僕はしぶしぶ頷いた。それを見ると、安心したのか綾夏は自分の家に帰っていった。
その夜、夢を見た。毎日見る夢を見た。
起きると忘れてしまう。けれど、最後に聞いた言葉だけははっきりと覚えていた。
──私に約束守らせてね、晴翔。
その言葉だけが起きても忘れることなく頭の中を永遠に駆け巡る。
「大学どうするの?」
母さんがふとそう呟いた。
「地元の近くのところにでも行くよ」
「そう」
それで会話は終わった。
最近は、必要最低限の会話しかしていない気がする。
週末。
なんとなく、ノートを開いた。
1ページ、1ページ丁寧に見ていく。
手が止まった。一番最後のページに明らかに付け足されたような文があった。
──絶対受かってね。
その文を見て何故か涙が目から溢れた。水が頬を伝った。
おそらく書いたのは、綾夏だ。昨日も会った綾夏だ。
なのに、何故か久しぶりに綾夏に会えた気がした。
◇
「母さん、俺やっぱり元々行こうとしてた東京の大学受けたい」
母さんは、嫌の素振りを見せることなく頷いてくれた。
それからは勉強の毎日だった。最初は、ノートと向き合う日々が続いた。
けれど、そのノートはただの高校3年生が書いたものだ。
「完璧なノート」などでは決してなく、足りないこともたくさんあった。
僕の中で綾夏は、誰よりも優れていて「完璧」な人だった。
「完璧」でない綾夏を見れて、僕が知らなかった部分を見れて嬉しくなった。
四ヶ月以上の間、参考書やノートと向き合い、シャーペンを握る日々が続いた。
勉強をサボっていた二ヶ月近くの期間が響いて、とても苦労した。
だけど、それでも無事合格することができた。
東京で一人暮らしが始まって、一週間。
ポストに一枚の手紙が届いていた。
『約束を果たしてくれた君へ 綾夏』
震える手で、それを開いた。
『晴翔、合格おめでとう。私、晴翔が ── 。だけど、 ── 。これから先、晴翔のことを支えてくれる大切な人を探してね。約束だよ』
何度も、何度も読み返した。
「……遅ぇよ」
そう呟いて、目を拭う。今日は笑顔でいないといけない。
右手には一人で写った卒業式の写真。
それを握りしめて、僕は入学式へ向かった。




