逢いたい人。
これは、本当にあった悲しき恋の物語。
あなたは、日頃から大切な人に直接言葉を贈っていますか?
今から伝えるのは、自分の中で大切で特別な存在になっていく人に——直接言葉を贈らず、突然の別れを迎え——今も後悔の念で、時折涙を流す女子生徒のお話です。
これを読んでいるあなたに質問です。
あなたには、一度巡り逢い、別れてしまった人に——もう一度逢いたいと、願ったことはありますか?
わたしにはあります。
ごく普通の出会いでした。普通の日常の中で、ほんの少しだけ芽生えた安心感。
それは、いつしか形のない愛情へ変わっていったのです。
——これは決して叶うことない、介助員の神田大輝先生と、わたし女子中学生だった津六木佐紀の実話の物語。
何かひとつだけ願いを叶えられるなら——貴方に逢いたい。あの日常にもう一度——戻りたい。
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某特別支援学級に通うわたし。
中学二年生に進学し、新学期の朝礼で長々と校長の話が続いていた。
言葉の意味は耳に入っても、頭の中にはまるで残らない。
そんなとき、ふと視線を走らせると担任の隣に、見知らぬ男性が立っていた。
眼鏡をかけて、黒いスーツに青いネクタイを着けた自分と背丈の変わらなそうな人。
じっと見つめていると、視線が合ってしまった。
わたしは咄嗟に目を伏せて、朝礼が終わるのを待ち続けた。
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二年になって教室の場所が変わり、体育館と同じ三階へ。
去年よりも温かい日差しが差し込み、窓際の風がよく通る。
生徒はわたしを含めて八人ほど。
あのとき目が合った先生も、教室の後ろにある黒板の端に立っていた。
視線を向けたつもりはなかったのに、不思議と目が離せなかった。
わたしは、自分の名前が書かれた席に腰を下ろす。
間もなくして、担任の先生が入ってきた。
「皆さん、おはようございます。もう知ってると思うけど、今日から二年の担任になる森下冬季です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」小さな声がバラバラに重なって、教室の空気が少しだけ和らいた。
森下先生は後ろを指差し話を続ける。
「そちらの先生も、今日から二年生の介助員として、一緒に過ごす神田先生です」
わたしたちの視線が、神田先生に一斉に向く。
軽く会釈をして黒板の前に立ち、初めてその声を聞いた。
「はい。今日から二年生の皆さんをサポートします。神田大輝です。困ったことがあったら何でも言ってください。えぇ、よろしくお願いします」
柔らかく、それでいて不思議と胸の奥を——そっと支えてくれるような安心感のある声だった。
全員の顔を真っ直ぐ見ながら挨拶する姿。
送られる視線も誰よりも優しく、穏やかな表情にわたしは心奪われた。
再びバラバラに聞こえる「よろしくお願いします」の声。
その中でわたしはただ、神田先生を見つめていた。
胸の奥で、少しだけ鼓動が速くなるのを感じて——
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「それじゃあ、このあと会議があるので、一時間目が始まるまで漢字ドリルの自習をして待ってて下さい。困ったことがあったら神田先生に言うように」
森下先生が、腕時計を確認しながら生徒たちに呼び掛けると、急ぐように荷物を持って教室を後にした。
自分のロッカーからドリルを取り出し、静寂の中で黙々と書き始める。
時計の針の音と、鉛筆の「カリカリ」という音が響く。
神田先生はわたしたちの机の周りを歩きながら、静かに見守っている。
そして、わたしの机の目の前で神田先生は足を止めた。
シャンプーのいい匂いが鼻を撫で、緊張のあまり鉛筆を持っていた左手が震える。
すると、あの穏やかで和らぐような声で話しかけられた。
「字、綺麗だね。良いじゃん」
本当に、ただその一言だけだった。
でも一年のとき、問題児として褒められることより怒られるほうが多かったわたしにとっては、些細なことでも、心の底から喜びを感じた。
「あっ……どうも」
上手く返答できなかったわたし。
ふと視線を上げて、神田先生と目を合わせる。
そのとき、わたしだけに見せた微笑みは今でも忘れない。
周りになんと言われても、この瞬間に”気になる”という感情から”好きかも”という感情に変化した。
あの日、あのとき――わたしのなかで、この人は特別な存在になる……そう確信するように胸の中にひとつの光が落ちた気がした。
本作は、実際に体験した出来事を元にしたフィクションです。
登場人物の名前や、地名・学校内の配置など一部の描写には、個人が特定されないよう配慮した変更を加えております。
実在の人物や団体を特定するような行為は、どうかお控えください。
あくまで一つの物語として、心に留めていただければ幸いです。
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