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目の前に写るのは浮浪者だった。
油に濡れたうねる黒髪。ざんばらに流れ、鼻筋まで届く不衛生な前髪は澱んでいる瞳を隠すかのように伸びきっている。
体は痩せ細り身の丈に合わなくなった服は黄身を帯びて異臭を放つ。僅かに前髪から覗く、片方につり上がって歪んだ口はその人となりを表していた。
勿論、服や髪に使うお金などないのだということは浮浪者の子である自分が何よりも知っている。服を買うお金があるなら唸る腹を抑える為に今日を凌ぐ飯を買った方がいい。髪なんかは美容院に行くと余計に高いし、整える時間もやたらに長いので、適当にハサミで切って余った時間働いてた方が有意義なのだ。
「お母さん」
随分と久しぶりに浮浪者の名前を呼んだ気がする。呼ぶと、小汚い母はゆっくりと振り返りつり上がった目を更に歪めて金切り声を上げた。
「あんたがぁぁ!!!いけないんでしょぉ!!!」
「そうかもね。でも私だけが悪い訳じゃない、分かってるよね。」
「___違う違う違う違う違うぅぅ!!!!彩香は悪くないもん!!お前らが私の言うこと聞かないのが悪いんでしょ?!?!!?私が産んでやったのにぃぃ!!!!」
母はいつまでも幼子のような人だった。己の責任を認めずいつだって自分に責任がない理由を探していた。それは兄と私を産んでも変わらず悪化して、己の不幸は私達兄妹のせいだとある事に決めつけることがほとんどだった。
父はいない。もっと正しく言うなら、居ないというより知らないという感覚の方が近い。こうして生まれてきた以上、血縁関係のある父は何処かに存在していはするのだろうが己が生まれて早16年、1度たりとも見かけた事はなかった。死んでいるのか、はたまた母の男漁りに嫌気がさしたのか。最早知るよしもないが今となってはどうでもいい事だ。
「私、兄さんと一緒に出ていくよ。でも、その前に。」
右手に持ったのはカッターナイフ。学校の備品置き場から盗んできた物だ。美術の授業で使ったらしき跡が残っており、恐らく白が基調だったであろうプラスチックの部分は赤やら黄やらの絵の具で汚れてしまっている。これでも1番綺麗で切れ味の良さそうな物を選んだつもりだが、流石に老朽化の進む学校の備品程度では少し心元なく感じた。
「貴方に、正しい制裁を。」
__私は今から、このカッターナイフで母を刺す。
この人はこの世に生かしておいてはいけない人だ。
司法は役に立たず、気のいい隣人はいない。唯一の希望であった教師すら、今は同じ言葉を繰り返すだけの機械だ。
私達兄妹がここから去れば、こいつは野放しになる。抑える者も諌める者もいなくなってしまえば、たちまち母の毒牙にかかる者は増えるだろう。最悪の場合私達のような子供が出来てしまう可能性もある。
確執はない、狂ってもいない、復讐でも無い。
ただ、これはどうしようもなく必要な事。
この世の中は手の施しようがない人間だと分かっていても罪が無くては裁けない。見える罪でしか罰は与えられない。いずれ誰を害す人間だと分かっていながら、それでも権利は平等に与えられた物だから。
なら、事前に司法で裁けないのであれば。
せめてこれ以上罪を犯す前に血縁のある私がこいつを殺す。
偽善、正義、慢心。もはやどれでもいい
悪は裁かれ、善良な人が平和に暮らす。それが目指すべき理想の社会なのだから。
少なくともその社会に、この人は要らない。
「要らない物はさっさと捨てる、だったっけ。昔私と兄さんによく言ってたよね。」
「…なんの話。」
母の視界が私のカッターナイフを捉えた。その瞳に恐怖は感じられない。
「昔話。貴方が覚えている訳ないだろうけど。」
1歩、2歩、散らかったゴミを踏み抜きその距離を詰める。
「それ、なんのつもり」
母は悪びれもなく私の手を指さして、それからニタリと笑う。現実を理解していないのか、それとも分かった上で笑っているのか、最早どうでもいい。ついぞ母の気持ちを理解する事はなかったな、と凶器を握った手に力を込める。
腕を大きく振り上げ目標を足に定めた。逃げられたりしたら面倒くさい、足さえ動けなくなってしまえばどうにでもなると思ったからだ。
「じゃあね」
「__まて」
突然後ろから声がした、聞き馴染みのある声だ。
「兄さん…」
振り返ればそこに居たのは自身の兄。正真正銘血の繋がった唯一絶対の味方。
兄は私の手元をみて眉間に皺を寄せる。
兄は私と違って正義感の強い人だった。
嘘を許さず、
不正を見逃さず、
何に対しても平等な人。
だからバレたらきっと、私がしようとしている事を止めるだろうと理解していた。分かっていたからわざわざ兄の居ない時をみはらかってここに来たのに、妙に勘のいい人だから結局こうして見破られてしまう。
そうして兄は何を言う訳でもなくサッと私の手を掠めて握っていたカッターを奪い取った。
「なんで分かったの、私がやろうとしてた事。」
少し不貞腐た風に言ってはみたが冷静な兄は靡かず、答えるつもりはないらしい。結局私は何も口を挟めぬまま計画は詰み。兄に止められると、いよいよ私は手が出せない。私に取って兄は肉親であり兄弟であり恩人であり、また絶対の存在であった。戸籍上の親が本当はあんな物だから私の親は事実上兄のような物で、私という赤子の世話なんかを一身に請け負い、見事ここまでやり切った兄には頭を下げる他ない。特別敬うよう、強制や教育はされていない。ただせめて、どうしようもなく正しく生きる兄という存在を、私は必ず肯定していたかった。
お面のように変わらない顔のその人はそそくさとカッターの刃をカチカチしまって学生服のポケットに入れてしまう。
いつだってそうだ、兄は酷く口数が足りない。けれどもこうして確実に行動に出る人だから分かりにくいという訳ではない。最早こうなっては母を殺害する方法はなく、諦める他ないのだろう。
「行くぞ。」
兄は足場のない床を踏み荒らし足場にして玄関へと歩き始めていく。
__そうして、やっと、私達は1歩を踏み出したのだと思った。
そう、思われた。




