鬼子母神
都会の喧騒を離れた静かな村に、古びた寺があった。その寺には、鬼子母神が祭られており、子どもの無事と成長を祈る人々が訪れているとの噂があった。
鬼子母神とは安産や子育ての神様のことで右手に柘榴、左手に子どもを抱き抱えているのが特徴的である。
ある日、都会から来た若い夫婦がその寺を訪れた。彼らは、長年の不妊治療の末にやっと授かった赤ちゃんを連れていた。寺の住職は彼らを温かく迎え入れ、赤ちゃんの健康を祈るよう勧めた。
夫婦は赤ちゃんを抱いて本堂に入ると、鬼子母神の像の前で静かに手を合わせた。すると、右手に持っている柘榴が突然落ちて砕けてしまった。夫婦は慌てて住職に伝えた。住職は粉々に砕けた柘榴の像を拾いながら「その子が危ない。頼むから今日だけはその赤子を私に預からせてくれ」と申し出た。
夫婦は突然のことに戸惑いを覚えたがさすがに見ず知らずの住職に我が子を預けられないと思い、その代わり夫婦は寺の近くの宿に泊まることにした。赤ちゃんが寝静まると、夫婦も疲れから深い眠りに落ちた。しかし、真夜中に赤ちゃんの泣き声で目を覚ました。異様なほど鋭い泣き声だった。
母親が慌てて赤ちゃんのいるベビーベッドに駆け寄ると、赤ちゃんは無事で、ただ泣いているだけだった。しかし、赤ちゃんの手には何故か小さな黒い石が握られていた。母親はその石を見て不吉な予感を覚えたが、とりあえず赤ちゃんをあやすことに専念した。
翌日、夫婦は寺を再び訪れ、住職に昨夜の出来事を話した。住職は深刻な表情を浮かべ、鬼子母神の像に祈りを捧げた後、夫婦に告げた。
「確証はありませんが、鬼子母神はかつて子どもをさらって食べる鬼女でした。彼女がなぜ柘榴を持っているのかご存知ですか?」夫婦は住職の言葉に戦慄を覚えた。
「柘榴はね、人肉の味と大変似ているんですよ」
夫婦は不安に駆られながらも寺を離れ、今後一切その場所に近づかないことに決めた。
それから数週間後、赤ちゃんの様子がおかしくなった。夜になると異様に泣き叫び、次第に体力を失っていった。医者に見せても原因は分からず、夫婦は途方に暮れていた。
ある晩、母親は赤ちゃんの傍らで眠っていると、突然目を覚ました。目の前には恐ろしい形相をした鬼子母神の姿があった。母親は恐怖に凍りつき、動けなかった。鬼子母神は赤ちゃんを抱き上げると、微笑んで言った。
「お前の子どもを預かってやる」
母親は絶望的な叫び声を上げたが、その瞬間、鬼子母神の姿は消え、赤ちゃんと共にいなくなっていた。
夫婦はその後、再度寺を訪れた。住職は大変残念そうな顔をしていた。鬼子母神の呪いの話は村中に広まり、誰もが寺を恐れるようになったという。
夫婦は絶望しながらもどうにか帰路についた。家に帰り着いた母親は慟哭し父親も子どもを奪われたことへの悲しみと怒り、そしてあのとき住職に我が子を預けていればという後悔と自責の念に駆られ憔悴していた。
そんな夫婦の前に再び鬼子母神は現れた。
夫婦は突然の出来事に混乱しつつも我が子を返してくれるよう鬼子母神に懇願した。鬼子母神はこう答えた。
「最初からそのつもりである。もうこの子が食われることはあるまい」そういうと鬼子母神は赤ちゃんを優しく母親に返して消えてしまった。
「どういうこと…?」母親は我が子を抱き抱えながら疑問に思いつつも心の底から安心した。赤ちゃんの手には再び黒い小さな石が握られていた。それはよく見るとあのとき砕けた柘榴と似ているように思えた。