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「ごめんなさいね、旦那様。けれどわたくし、どうしてもアルフレッドが良いのですわ」
旅行から帰ってきた母が、いや、母だと思っていた女がそう言いながら若い男の腕にしがみ付いた。
対する父は驚きを通り越して完全な無表情で、母とアルフレッドと呼ばれた男を見ている。
「離縁に関しては了承した。慰謝料の話は後日秘書を向かわせる」
「そのことですけれど、旦那様。わたくしの希望としては慰謝料として商会が頂きたいのですけれど……」
「は?」
母の突拍子もない言葉に、部屋にいた全員が絶句した。
慰謝料を払うどころか貰う?
しかも、その慰謝料に商会が欲しいとは意味が分からない。
「何を言ってるんですか母上?慰謝料を払うのは不貞を働いた母上なのでは?」
「貴方こそ何を言ってるのパトリック。慰謝料というのは女性が貰うものよ?か弱い女性を守るために離婚時に夫が女性に慰謝料を払うの。……もう、貴方はそんな事も知らないから女性にモテないのよ」
まるで頭の悪い子どもを叱るように言葉を発する母を見て、兄が目を見開いて絶句していた。
余りにも自分勝手な謎理論に、話を聞いていた私も言葉が出なかった。母がまるで未知の生物に見える。
父も私と同様だったのか、初めて出遭った奇怪な生き物を見ているような顔で目を見開いていた。
だが、ここで呆然としている訳にはいかない。
母の頭がお花畑の内に貰える書類は貰っておかなければ、母が正気に戻った時に困る。
「お父様、こうなっては一日でも早く離縁した方が良いですわ」
「そ、そうだな…」
「では、お母様。まずはこちらの離縁の書類に署名をお願いできますか?お母様としても、一刻でも早くアルフレッドさんと一緒になりたいですわよね?ちなみに、離縁してからも財産分与や慰謝料の話し合いは可能ですわ」
「そうなの?じゃあ、署名を直ぐにするわ」
いそいそと嬉しそうに離縁届に署名した母は、自分が慰謝料を貰う側だと信じ込んでいる様子だった。
だが、当然慰謝料は母が払う側であるし、書類には財産分与を放棄する旨の一文も記載してある。
「あぁ、そうそうお母様。アルフレッドさんとの再婚をお祝いして、ミラショーンホテルのスィートを一週間用意致しますわ。私からの贈り物として受け取って頂けますか?」
「まぁ、ミルフィー!さすがは女の子ね、何て気が利くのかしら!」
「お母様のお好きなシャンパンもご用意させるように連絡しますので、是非、そちらでごゆっくり滞在下さいませ」
言いながらホテル支配人への手紙を認め、侍従を早急にホテルへと向かわせる。
それをニコニコした顔で見送りながら、上機嫌な母は楽しそうにアルフレッドさんとやらと腕を組みながら屋敷を出て行った。
恐らくこれから散財されるだろうが、母を追い出す為の必要経費と考えれば安いものだ。
「さすがだな、ミルフィー」
「でも、さすがに一週間が限度ですわ。その間に全てを片付けてしまわないと」
言いながら父へと視線を向けると、父は疲れた顔でゆっくりと頷いた。
手に持った離縁の書類を大事に抱え込み、直ぐに提出するという。
「済まないが、今からこれを王宮へ提出してくる。その帰りに貴族監査を連れてくるので、接待の用意を頼む」
「了解です。母上の荷物は纏めて生家のスクラット家に送っておきます。あと、親戚への根回しも私の方で片付けておきます」
「頼むよ、パトリック。それと、取引商会への連絡はミルフィーが手配してくれるかい?」
「お任せ下さい。お母様がこれ以上我が家のツケで買い物が出来ないように商業ギルドにも連絡しておきますわ」
「ありがとう二人とも。頼りがいのある子ども達で嬉しいが、無理はしないようにな」
言いながら私と兄の頬に軽く口づけを落とした父が、王宮へと出掛けて行った。
その疲れた背中が物悲しくて痛々しい気持ちになった。
まさか姉でも妹でもなく、先に母との縁が切れるとは思いもしなかった。
「別に母のことは嫌いではなかったが、あの言動には正直ドン引きした……」
「慰謝料は女性が貰うもの…ってやつですよね?」
「ああ。お花畑にも程がある。それに、俺と変わらない歳の若い男に入れあげているのは見るに耐えない……」
「……確かに、あれはちょっと酷かったですね」
若い男の腕にベッタリとしがみ付く母の姿を思い出すだけで微妙な気持ちになる。
父の中で微かに残っていた母への愛情も、あれのお蔭で一気に無くなったはずだ。
「………ちなみにミルフィー」
「なんでしょう、お兄様?」
「あれ、お前の仕込みじゃないよな?」
「……うふふ、どうでしょう?」
小さく笑う私を見て兄が微妙な顔をする。
余りにも上手く母を排除出来たことをおかしいと思っている様子だ。
「私は何もしていませんよ、私は…」
「……なるほど、お祖母様か?」
「あらっ、直ぐに気付くなんて楽しくないわ」
「お前じゃなきゃ、お祖母様しかいないだろう」
「私が知っているのは、お祖母様がお母様を試したという事だけですわ」
「若い男に引っ掛かるかどうか……」
「そういう事ですわ。以前から母が旅行に若い侍従を大勢引き連れていくのが気に入らなかったそうですわ」
「……母上はそこまで腐っていたのか…」
母の実態を知った兄が少しだけショックを受けている。
だが、実際は想像よりもかなり酷いと祖母から聞いていた。
父が何も言わなかったので傍観していたようだが、最近の男遊びはご夫人会でも話題になるほど酷かったようだ。
更に、ここ最近の姉と妹への態度が祖母の怒りを買ったようである。
姉や妹を叱責するどころか増長させるような母の態度に堪忍袋の緒が切れたらしい。
「……リーゼとキャサリンはどう出てくると思う?」
「当然、お母様を擁護するでしょうね。特にキャサリンは母を追い出した鬼兄姉としてフーゴ様に泣き付くんじゃないでしょうか?」
姉のリーゼも同じように私達を非難して、これ幸いとばかりに商会の乗っ取りを企むかもしれない。
「商会に関してお姉様の主張が通ることは絶対に有りませんし、お母様の不貞の件に関してもお祖母様が証拠をバッチリ掴んでおられます。二人が何を言ったところで私達に非がないことは明らかでしょう」
「そうだな。噂に踊らされる奴も出てくるだろうが、むしろそういう奴らを選別するいい機会だ」
貴族社会での噂は馬鹿に出来ない。
その噂如何によって、結婚や就職が左右されるのだから。
けれど、私も兄も結婚出来なければそれでも良いと思っているし、命があるなら平民になっても良いとさえ思っている。
残る懸念事項は、姉や妹が高位貴族に対して下手を打って怒りを買うことだ。
あの二人が何度諌めても改心しない以上、慰謝料で問題が片付かない場合は父や祖父母を連れて国を出奔するつもりである。
「はぁ……、平穏が欲しい……」
「お兄様……」
お疲れ気味の兄の肩をポンポンと叩く。
「取り敢えずは、お茶を飲みましょう」
そうして落ち着いたら、商業ギルドへ使いを出して面談の予定を入れ、取引先には母との離縁を通達する。
ホテルには、一週間は好きにさせて構わないと言ってあるが、それを超えれば母へ直接請求して欲しいと連絡済みだ。
母にも一週間とは念を入れたし、『娘からの一週間のホテル滞在プレゼント』の受け取りにサインまで貰った。
母は碌に読みもせずにサインしていたが、そこにはちゃんと一週間を過ぎてから発生する代金は母持ちだと書いてある。
「そこで現実を知ってくれると良いんだけど……」
実の母を追い詰めて楽しい訳ではない。
これで母が反省してくれれば、母が出戻る予定の実家には多少の援助はするつもりだ。
叔父や母方祖父母に恨みはない。
「後は、お父様が帰って来たら相談しましょう」
「そうだな」
姉と妹という爆弾はまだ腹の内にある。
気を抜くのは当分先になりそうだ。