令嬢
朝、目覚めると、窓から日の光が差し込んできた。夏ということもあり、日が登るのが早い。
ここでの生活もだいぶ慣れてきた。しばらくこの国での依頼が多く、長期間の滞在になりそうだったため、俺はアパートを借りて生活することにしていた。
いつもは暗殺をしたらバレないうちに海外に逃走するのが常なのだが、この国で受けた依頼の多くは裏社会の関係者で足が付きづらかった。おかげで逃げなくても表沙汰になることがなく、かなり楽な仕事が続いていた。
日課の肉体トレーニングを少しした後、俺は早速、昨日受け取った依頼書に目を通す。
期限は2年後。その屋敷の令嬢の殺害。
俺からしてみれば、いつもの依頼とそう変わらない、普通の殺しの依頼。ただ一つ、明らかに奇妙な点があった。
『心臓に傷一つ付けないこと。』
今までは単にいつまでに殺すか、という期限が条件にある程度で、どんな殺し方をするかは俺の自由だった。こんな条件を付けてある依頼は初めてだ。
気にはなるが、依頼者の事情をごちゃごちゃ考えたところでやる事は変わらない。あまり深く考えないようにするか。
屋敷は、今使っているホテルからもそれほど遠くない。せいぜい2~3キロ。歩いていける距離だ。
心臓と肺を傷つけずに令嬢を殺す手は思いついた。だが、それを実際に実行できるかどうかは、その現場の状況に大きく左右される。まずは現場を見に行かなければ始まらない。
ホテルから標的の動きを観察することも短時間ならばできるが、町中という事もあり、高い建物が多く、視界を阻まれる。
俺は、ひとまず、令嬢のいる屋敷の下見に行くことにした。
目立つ格好を避け、人目につかない容姿を心掛ける。とはいえ、この銀髪ではそれも一苦労だ。
俺は帽子を深くかぶり、どこかに遊びに行く学生をイメージして服装を整え、町に出た。
町に出ると、人々が無防備にうじゃうじゃと炎天下を歩き回っていた。警戒心が薄い。俺にとってはあまり落ち着かない光景ではあったが、これがこの国で当たり前のことであるなら、そこに紛れるべきか。
しかし、この国では師匠の言っていたことが随分と役に立つ。今まで様々な国を転々とし、そのような地域でどう振る舞うべきかは師匠に言われたことを頭に叩き込んである。しかし、当然ながらその通りにすれば上手くいくわけではないし、その場合は臨機応変に対応する必要があった。
だが、この国では今のところ、言われたとおりにすれば上手くいっている。もしかしたら元々この国の出身だったのかもしれないな。
「さて、どうしたものか。」
直接標的のいる屋敷に行くのもいいが、近くの建物から様子を見るのもありだ。ただ、屋敷の位置は街はずれ。近くの建物は数少ない。
屋敷の近くでキョロキョロと辺りを見回すのは悪手だ。不審者として周囲の人間から見られれば、動きにくくなる。
俺はとりあえず屋敷の前を素通りしてみることにした。そんなことをしたくらいでは大した情報は得られないが、周囲の環境を見られるだけで十分だ。
屋敷に向かってしばらく歩いていくと、俺の視界に広大なひまわり畑が飛び込んできた。ひまわりは俺の背の高さを軽く超え、数百もの花を咲かせている。
「凄いな…。」
思わず、感じたことをそのまま口に出してしまう。何せ、これほど力強く、美しく咲く花畑を見たことがない。
「でしょう?このひまわりを見に県外から来る人もいるんだよ?」
ひまわり畑の中から声がした。若く、優しい声。畑に作られた道を通って、その声の主が現れた。
柄のない、真っ白なワンピース。腰まで伸びた、真っ直ぐな黒い髪。色白で、華奢な体つきの少女はサンダルを履き、麦わら帽子を吹き抜ける風で飛ばないように手で押さえている。
風がやむと、少女は顔を上げる。端正な顔立ちだ。
ほんの一瞬だが、確かに見惚れてしまいそうなほど可憐な少女だ。だが、その可憐さに目もくれず、俺はこの時、今までにない異常事態に動揺を鎮めることで精一杯だった。
昨日渡された資料には今回の暗殺対象の顔写真も添付されていた。髪の色、瞳の色。そして、顔立ち。全て把握していた。そして、その少女が、間違いなく、資料にあった今回の依頼の標的そのものであったからだ。
「あっ、突然話しかけてごめんなさい。ひまわりを褒めていただけたのが嬉しくてつい……。」
少女は照れた顔を隠すように顔をうつむける。
慌てることはない。まさか、いくら屋敷の近くとはいえ、本人に話しかけられるとは思わなかったが、俺の正体がばれたわけでもない。ただの通りすがりを演じればいいだけのことだ。
「このひまわりはあなたが?」
「はい、そうです。今は私と家の者で管理をしているんです。」
声が弾んでいるのが、簡単に分かる。命を狙われているというのに、随分と楽しそうに笑うものだ。こんな少女が暗殺対象か。
情が移っては仕事に支障が出る。早めに切り上げた方がいいな。
「それでは、私はそろそろ。約束があるので。」
「あ、引き留めてしまってすみませんでした。」
「いえいえ、お気になさらず。それでは。」
帽子を取り、ペコリと頭を下げて挨拶をし、少し急ぎ足でその場を去った。
ひまわり畑が終わると、屋敷が見えてきた。屋敷とは言ってもそれほど大きなものではなく、和風の建物と庭が少し広がっている程度だ。
これまでにも何度か屋敷に住む者の暗殺というのはあったが、それに比べれば少し見劣りする。
近くには一般的な住宅が何件かとコンビニが一つ。特に変わった建物はない。
地形の把握は大まかには完了した。あとは、あの少女自身の行動パターンを出来る限り分析する必要がある。だが、それにはしばらく時間をかけて、行動を観察した方がいい。
俺は先ほどの少女と鉢合わせないよう、少し遠回りをしてホテルへと戻っていった。