99 (陽葵視点)九宝陽葵を救いたい④
「うぐっ……」
涙が……涙が止まらない。
あんなこと言いたくなかった。
彼にさようならなんて言いたくなかった。
本当は胸に沈めた想いを吐くべきだったのだろう。でも……それをすれば決断が鈍りそうだったのでしなかった。
わたしは誰にも気付かれないように声を抑えて泣く。
泣くのは今日、これっきりにしなければ……。
わたしはこれから好きでも何でも無い男の妻となるのだから。
始まりは半ば脅しのようなものだった。
父から言われた言葉……俺のために尽くせと。
当然ながら断った。わたしと母様を捨てておいて何をぬけぬけと言っているのかと……。
父はさらに続ける。母様名義の借金の存在があると……昔、九宝の家で今は無くなってしまった母様の実家の借金を立て替えたものがあると……。
それの返済が未だされていないこと、父がその返済を行えば家族3人九宝の家に戻れると言っていた。
九宝の家にも確認を取り、裏付けも取れてしまった。
その借金の返済の関係で富豪の息子との縁談の話があるらしい。
わたしがその富豪の息子と結婚することで全てが丸く納まるようだ。
初めてそれを聞いた時、思わず頭がくらくらしそうになった。父に連れられ一度だけ会った富豪の息子はおぞましい容姿でわたしよりも20も年上の男だった。
なめるように見られて、富豪が大枚をはたいてでも手にいれたいと思った理由がよく分かる。
昔のわたしだったら泣いてばかりで何もできなかっただろう。
でも……会社の人達と切磋琢磨して少しは強くなったわたしは母を守るためにその地獄のような選択をすることにした。
仕事を辞め、富豪の息子の妻として……その男と添い遂げるのだ。
母には何も言えずにいた。
体が弱いのに必死に育ててくれた母にそんな話をしたら体調を崩すのは確実だ。
大学1年の頃、母は無理して働いて体壊したことがある。母のあんな姿をもう見たくはない。
今まで育てくれた母のためにわたしが何とかする。
「全部捨てなきゃいけないんだろうなあ」
向こうに嫁いだら、小説を書くこともできなくなる。
最後に書いた作品がWEBサイトの日間1位になって本当によかった。みんなが褒めてくれて……本当に嬉しかった。
途中で止まってしまうことになるけど……読者も許してくれるだろう。
さすがにスマホを没収されることはないと思うので1日数十分くらいはフリーになる時間はあるだろう。
大好きなお米炊子先生の作品だけでも読んで……心のよりどころにしたい。
「あ……」
お米炊子先生が新作の短編を出している。
ジャンルはわたしが投稿する、異世界令嬢ものだった。
誰よりも先生のファンだと思っているわたしがその作品を読まないはずがない。
今までもファンレターは何通も送ってるし、書籍は欠かさず購入している。わたしはお米炊子先生の作品が大好きだった。
「え……うそ」
主人公はとある貴族令嬢。傲慢な父に捨てられて母と2人暮らしで辺境の土地へ追い出される。
貧乏で苦しい生活を送りながらもまわりには温かい人や仕事先の仲間に恵まれて幸せに暮らしていた彼女の所へ、父が現れたのだった。
「わたしの境遇と同じ……偶然? それとも……」
わたしはファンレターに自分の状況を話してはいないので、お米先生がこのことを知っているはずがない。だから全て偶然の産物だ。
自分と同じこの状況、この主人公ならどう切り抜けるの……。
わたしは作品の一文字一文字を読みふけった。
主人公のまわりにはたくさん、主人公を助けてくれる人がいたのに……主人公は見てみぬふりをしてしまった。
自分だけで解決できると信じ込んでしまった。
でもそれは間違いだった。苦しくても迷惑がかかっても助け合うことこそ大事なのではないか。
迷惑をかけてしまったのなら……次に迷惑がかかった時に借りを返せばいいだけの話。
全て1人で抱え込む必要なんてない。
「あ……あぁ……」
わたしは小説を読んで、自然と涙を流してしまっていた。
自分と同じ境遇の主人公に感情移入してしまった。お米先生の作品は本当に没入感が強く、まるで物語の主人公になったような感覚に陥る。
最終……父と対決することになった主人公。泥臭くも戦い続けて、仲間と一緒に挑むことで強くなり、父を乗り越えることができた。
物語は物語……。そんな上手くいくことなんてありえない。
「でも……この主人公のようにわたしも強くなりたい」
わたしにだって支えてくれる人はいた。母様に日々、助けてくれるアパートのみんな。
所長や仁科さん……そして花村さん。
わたしだって1人じゃない。
どうして1人で全てを抱え込んでしまったのだろう。
悲劇のヒロインぶってしまったのだろう……。
「あ、あなた!」
母の声がする。
まさか!
わたしは自室を出た。そこには父が立っていた。
「陽葵、迎えに来た。来てもらうぞ」
「……」
「あなた……。陽葵に何をするつもりです!」
「おまえに用はない。あるのは陽葵だけだ」
「……母様、わたしは大丈夫ですから」
「っ」
結局心配をかけてしまった。
心配をかけたくないから秘密裏にしていたけど、父がそんな配慮をするはずもなく……無駄だったと感じる。
大丈夫、わたしが何とかしてみせる。
まわりのみんなに迷惑をかけるかもしれないけど……対抗してみせる。
わたしは外へ行く、父の後を追った。
「車に乗れ」
「その前に言いたいことがあります」
昔から父が怖かった。
わたしのことを道具としか見ていない、血も涙もない最低の人間。
血が繋がっていることが本当に嫌で何度九宝の名を消し去りたいと思ったか。
でもわたしは弱かったから……父の言うとおりに生きてしまっていた。
それがみんなにとって一番だと思い込んでしまったから。
わたしは強くなりたい。
「結婚の件ですが、お断りします」
「なんだと!?」
「率直に旦那になる人が気にいりません。あんな油にまみれた体に抱かれるなんて生理的に無理です」
言ってしまった。
言葉とは裏腹に手は震え、体は震えてくる。
でも……強くならなきゃ……お米先生の作品の主人公はちゃんと立ち向かったんだ。
わたしだって立ち向かいたい。
「ふざけてんのか!」
「っ!」
「そんなわがままが今更通ると思ってんのか! 俺に恥を欠かすな、クソガキ!」
「今まで好き勝手やってきた父様のためになぜわたしや母様が犠牲にならないといけないのです。父様の方こそわがままです!」
「俺はぁ、九宝の家に戻らなきゃならねぇんだよ! 役に立て陽葵」
「絶対、絶対に嫌です!」
「借金はどうするつもりだ。母親に押しつけててめえはトンズラか!」
「払ってみせます! 夜の店でも何でもして払ってみせます! あんな汚い豚に一生を使うくらいなら……そっちの方がマシです!」
「舐めやがってぇ!」
父様が手をふりあげた。
いつもそうやって暴力で従わせてきたのだ。
わたしは絶対に屈しない。……わたしは痛みを覚悟し目を瞑った。
「……?」
いつまで経っても痛みを発生しなかった。
目を開けて……まっすぐ見ると、父の手を掴む……男の人の手が。
「娘に手あげるなんて……アンタ本当に父親か!」
どうして花村さんは……来てほしい時に来てくれるのだろう。
ああ……そうか。
あなたは悪役令嬢を救ってくれる王子様だったんだ。