149 君を絶対に手放さない⑧
ここまで気が重い年明けは俺の人生において二度とないことだろう。
年末に忘年会も行ったがどう考えたって忘れるわけにはいかない。
やれることは全てやった。
あとは……どこまでやれるかだ。
1月5日の朝、勝負の日がやってきた。
「仁科さん、大丈夫か?」
「お水飲みます?」
「あ、ごめんね……花むっちゃん、陽葵ちゃん」
仁科さんが心配そうな顔で椅子に座っている。
そうだよな渦中の人物だし、不安だろう。
今、社内では仁科さんの話題で持ちきりだ。異動になったのにその所属課に行かない話がおかしく伝わっている。
そもそも営業は引き継ぎがあるからすぐに異動先に出勤するってないんだけどな……。この会社では引き継ぎ期間が存在する。
そしてもう一人話題になっているのが所長だ。
俺達には詳しく話さないが、かなり上から言われているらしい。
そうは言っても所長は間違ったことはやってないし、正当な要求をしているだけだ。
多分営業部の部長を含むさらに上も情報シスアド課がやってることはヤバイって分かっているんだろう。でも仁科さんを差し出すことで丸く収まると思っているからまだ話の通じる所長に要求しているのだ。
一回だけ従わないことを怒られた時、この会社辞めようかしらって漏らしたらみんな猫撫で声になって笑ってしまったと言っていた。
営業部の人員の中で一番の実績を持つ所長に辞められるわけにはいかない。
ただ、このまま何年も同じ話を続けられるはずがない。そうなるとどっちかを切るしかないのだ。その時切られるのはいつだって若い者だ。
また、吉名課長からも直接所長に何度か連絡があったとか。
その度に言いたいことがあるなら直接浜山にどうぞとあしらったらしい。
その挑発に乗ったのか、仁科さんへの聞き取り出張が今回決まったそうだ。
ま、本人達は浜山への旅行気分で経費の無駄遣いのつもりなんだろうけど……。
だが、これは俺にとって大きなチャンスだった。
全ての矢は揃っている。あとはどう上手く射るかだ。
「所長、今回は俺が話をします」
「分かったわ。今回はあなたに任せる。でも大丈夫よね?」
「はい。ただ拗らせる気満々ですけどね」
「来られるのは吉名課長と有坂さんですね。わたしがお迎えする形でいいですか?」
2人の来訪にはほぼ面識のない陽葵に頼むことにする。
さすがのあの人も陽葵に対していきなりとやかく言うことはないはずだ。
しかし有坂さんまで来るなんてな。向こうも早くbeetを直したいのか焦っているのかもしれない。
「来ました!」
予定よりも少し早い時間に事務所の呼び出しベルが鳴る。
ラスボスのお出ましのようだ。
陽葵はいそいそと事務所ビルの外へ出迎えに行った。
その数分後に事務所の扉が開く。
「こちらが事務所になります」
陽葵が作った笑顔で吉名課長と有坂さんを連れてくる。
「シスアド課に来たければいつでも来るといい。俺が推薦してやる」
「は、はぁ……」
吉名課長の言葉に陽葵がもの凄く嫌そうな顔をしている。
また所長にした時みたいにじろっと女の子を見たんだろうな。
さてと……陽葵にはそんな顔は似合わない。
笑顔が一番ってわけでファーストコンタクトと行こうか。
「明けましておめでとうございます」
「あ?」
吉名課長が表情が歪む。
そうだろ、そうだろ。少なくとも美女である所長や仁科さんに声をかけられて欲しかっただろう。
だけど……今回、俺主導でやらせてもらう。
すっと後ろに下がる陽葵を見る。
頼むぞ! と軽く合図をする。
陽葵はゆっくりと顎を引いて頷いた。
「本年もよろしくお願い」
「おい、仁科! さっさと出社してこい!」
問答無用かよ。
早速怒号を上げる吉名課長の後ろには腰巾着のように笑っている有坂さん。
何というか本当に嫌な2人だ。
所長と仁科さんがゆっくりと現れる。
所長はしっかり仁科さんの手を握っていた。
俺はさらに二人の前に塞がるように立つ。
「出社はしていますよ。課長も知ってるでしょう。営業は転勤する際、引き継ぎが必要なのでちゃんと引き継げるまでは前の勤務先で働くものですよ」
「そんなもん知るかよ! 営業の後始末は残ったてめえらで何とかしろ!」
「いや、何とかしろって……お客様は仁科さんを求めておられるのでそんな適当な対応はできませんよ」
「客なんざ適当にしときゃいいんだよ! 俺のメンツに泥を塗る気か」
朝からうるさい人だ。
いきなり全力でキレてるとかやばいんじゃないの。
まぁ、俺が挑発気味に話してるのも……あるかもしれないな。
「それで……いつまでそこで縮こまってるつもり?」
有坂さんの鋭い言葉が刺さる。
「あなたって昔からそうやって縮こまって男に守ってもらって……。そういうのは得意よね」
「仁科さんがお嫌いならあなた方でbeetをどうにかしたらいいじゃないですか。有坂さんがメイン設計者じゃないんですか」
卑しい笑みを浮かべていた有坂さんがキリっと俺を睨む。
この二人の言動は矛盾してるんだよな。
おそらく、仁科さんしかbeetは直せないはずなのに高圧的に物を言ってくる。
「大部分は直せるわ。ただどうしても設定で分からない所があってね。それを仁科さんが仕掛けたんじゃないかって噂よ……。異動の前に爆弾を仕掛けられたら私達には分からないしね」
「そ、そんなことしてません!」
「彼女はしてないって言ってますよ。課長、本当にそんなのあるんですか?」
「あ? さっきからうるさい小僧だなァ!」
あなたほどうるさくはないと思います。
なるべく仁科さんに矛先が行かないように視線を俺に集める。
「設計者の有坂があるって言ってんだ。仁科を戻してさっさと直すんだよ! そのために人事異動をしてんだ」
beetシステムの完成はこの人の成果だ。それの不具合はこの人にとって致命的になる。自分よりさらに上の幹部に偉そうにできる理由だもんな。
今は偉そうに出来ているがbeetの不具合が直らなければ発言力を失ってしまう。
有坂さんの話を真に受けて、仁科さんが戻れば直せるって安易に思っているのかもしれない。
「もうちょっとトーンを下げてください。もし仁科さんが辞めてしまったら営業にとっても、情報シスアドにとっても痛手になるでしょう」
「あなたこそ何言ってるの? 社で最も花形の情報シスアド課に戻れるなんて栄誉なことよ。吉名課長の下で働ける、それ以上のものが存在するわけないわ」
「有坂は分かってんじゃねぇか」
いや、意味がわからない。
つまりアレか、会社の中の甘い汁が吸える部署だからこんな横暴な手を使うことは大したことないってことか。
「仁科ぁ! 俺の元に戻って来い。こんな小さい営業所なんか捨てて来い! ボーナスの査定も経費の使い方も思いのままだぁ」
「安心して。beetの修復が終わって、もしもの時の手順書を作るまでは優しく面倒見てあげるから」
浜山に来る前は、そんな情報シスアドが嫌で彼女は心のバランスを崩してしまったんだ。
それから時が過ぎた今、無理な引き込みのせいで仁科さんは大きく傷ついている。
顔色を悪くして、少し痩せてしまったと言っていた。
仁科さんの体調不良の結果、年末までに進めようとしていたプランが全て台無しだ。顧客にも迷惑をかけてしまった。
それは全部、全部……目の前のこいつらの責任だ。
それを何一つ分かっていない。クソで無理解な上司の下で働きたいと思うか? 用済みになったらまたいじめて辞めさせようと思っている最悪な先輩の元で働きたいと思うか。
大事な仲間を手放すわけにはいかない。
何より悪手であるbeetシステムの停止を12月中に2週間もしやがった。
その報いを絶対受けてもらう。
俺は大きく手を挙げた。
「あァ、小僧……何を」
ガチャリと事務所の扉が開く。
そしてそこには陽葵ともう一人。
「明けましておめでとうございます。本年もよろしくおねがします~」
陽葵が連れてきた栗色の髪のショートボブの美女。
ゆったりとした口調の彼女がこの事務所に現れる。
「なんだ……あんたは」
「初めましての方がおられますね。私はY社の浅川と申します」
そう、その人は葵さんだった。
「年末にあったフォーレス様のシステム障害で我が社の被った損害についてお話させて頂きたく思い、参上しましたぁ」