第一章一話
都庁のピアノの前で、私はそれに襲われた。
音の嵐。
圧倒的質量を持ってそれは私を覆い尽くし、脳からどす黒いマイナス思考な部分を取り去って、かわりに高揚という久方ぶりの感情を植え付けた。
青年が、ピアノを弾いていた。
なんの曲かも知らないし、青年のことも知らない。ただ、私は彼のその音に、狂気を秘めたその彼の指に魅入られたように動けなかった。
最初はゆったりとした音は次第に勢いを増し、スピードを上げて、聴く者を引き込んでゆく。ピアノの周りには続々と人が集まり、その音に囚われた人々が撮影を始める。その現象が私を現実に引き戻し、踵を返そうとした瞬間に、青年がすごい速さで鍵盤を叩き始めた。
その速さはまるで機械のようで、だが不思議なことに機械にはあんな音は出せないと、音楽を何も知らない私にもわかる、音の洪水。
まるで弾いている彼の叫びのように、速く、高く。素人でもその技量が並大抵のものでは無いとわかるほどに。
時間にしたら、おそらく五分程度。
最後にポーンと軽い音を立てて、鍵盤から手を離した青年は拍手喝采の周りを全く気にするでもなく、スタスタと歩いて、外の見えるソファーに座る。
私は暫く、彼の音の余韻に浸るようにピアノの前から動けなかった。
どのくらい時間が立ったのだろう、はっと我に帰って振り返ると、あんなにいた観客は消え去り、青年はひとりソファーに座り続けていた。
ピアノを弾いていた時はあんなに大きく見えた背中はとても小さく、実際の彼は小柄だった。
どちらかというと痩せ型で、手足が長い。
ぼんやりと外を眺めながら、時々ペットボトルの水を飲んでいる。
普段の私なら絶対にしないことを、この時してしまったのは何故なのだろう。
私は青年に近づき、声をかけた。
「隣、座っても?」
青年はパッと顔を上げ、私を見た。
その眼の、仄暗さが私を突き動かす。
なにをそんなにあきらめているのか。
さっきあんなに人々を魅了したくせに。
「どうぞ。」
一言ぽそ、と呟くと、青年はまた外を眺める。私は構わず隣に座る。
「さっき弾いてた曲、なんていう曲?」
嫌がられることも構わずに話しかける。普段引きこもって他人との接触を避けている私の行動とは思えない。
答えがなくてもよかった。ただ私は、この青年のことがとても知りたかった。答えない、という選択も彼の一部なのだと思った。
「…………いろんな曲の好きな部分をつなげて弾いていたので、なんていう曲か、は、わかりません。」
想像に反してきちんと答えが返ってきた。1つの曲だと思っていた曲は、彼のアレンジだった。能力の高さを伺わせる。
「私は世事に疎くて…………君は有名な人なの?」
私の間抜けな質問に、彼は不思議そうにこっちを見つめた。
「有名…………?僕はただの引きこもりです。」
「今時の引きこもりはあんなにピアノが弾けるの?」
私の返しに彼はちょっと片方の唇を持ち上げた。歳に似合わない、ニヒルな感じの笑みだ。
「ピアノは好きです。でも、好きなだけ。引きこもって大学にも行かなくなって、今日は家を追い出されました。」
驚くようなことを淡々と語る。初めて会った私にそんなことを話していいのかとこっちが心配になる。
青年は外を眺めながらポツポツと言葉を紡ぐ。
「ピアノだけ弾いていたいけど、僕には金も才能もない。親にピアノだけ弾いていたい、それ以外何もしたくないと言ったら出て行けと言われたので、家を出てきました。」
驚くべき素直さだ。
「家を出てどうするの?」
私の質問に、今度はちょっと考えて答える。
「どこか住み込みで雇ってくれるところを探します。僕はピアノしか興味がないけど、お金を稼がないと生きていけないことはわかるので………。」
今度は私が黙る番だった。ピアノにしか興味がない人間に、仕事ができるものなのだろうか?