117、トリガの里 〜 里に降る雨
あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。僕は、夢をみていた。
僕は店にも慣れてきて、バーテン見習いのフルーツカット係を卒業し、やっとシェーカーを振らせてもらえることになったんだ。
僕は、お客様からマルガリータの注文を、笑顔で受けた。少し緊張しながら、シェーカーの中に氷を入れ、その上からテキーラを注いだ。
その瞬間、氷がふわっと宙に浮かんだんだ。僕は、思わず氷をつかんだ。だが、氷はするりと僕の手から逃げだした。えっ? 何?
逃げた氷は諦め、僕は冷凍庫から新たな氷を取り出し、シェーカーに入れた。
『なぜ氷を追わない? そんなに簡単に諦めるのか?』
聞き覚えのない声が頭に響く。
『氷を追え。氷を得れば、暴走は覚醒へと進化する』
なんのことだか全くわからない。あれ? 僕の手元からシェーカーが消えた。店に居たのに、ここはどこ? 雨の匂いがする。そういえば、雨なんて久しぶり…。
僕は、雨の音で目が覚めた。あれ? ええっと……夢をみていたのか。そうだ、僕は、いまアトラ様の、守護獣の里にいるんだった。
なぜここにいるのか、いつから居るのか、僕には全くわからなかった。
あれからまた、ずいぶん眠ってしまったのだろうか。そういえば、あのひどい頭痛や吐き気、めまいは消えている。なにかの薬を飲んだんだったよね。でも、どうして治癒魔法じゃなくて薬なんだろう?
部屋には誰もいなかった。雨のためか、少し薄暗かった。僕は、起きて部屋の外に出てみようと思った。ゆっくりと身体を起こした。すると、全身に強烈な痛みが走った。ック……一瞬、息が止まるかと思った。
少し痛みが落ち着くのを待ち、ベッドから降りようと足をおろした。っつー……ダメだ、身体がバラバラに引き裂かれそうだ。僕は、回復! を唱えたが、何も起こらない。
(えっ? 魔法が使えない!)
ならばポーションだな、と考え、魔法袋を探した。僕のベルトに付けてあったはずなのに、無くなっている。
と言うより、そもそも服装が変わっていた。僕は、シャツとジーンズに、ローブをまとっていたはずだけど、いまは、民族衣装なのか、草色の作務衣のような服を着ていた。
確か、あの赤い髪の神に斬られて、血がべっとりだったし、そもそもシャツ自体も斬られていたもんね…。誰かが着替えさせてくれたんだ。
部屋を見回すと……あった! ベッドの枕近くのサイドテーブルの上に、僕の服と魔法袋が置いてあった。
いま僕は、ベッドの足元の方に腰掛けている状態だ。わずかな距離だが、立ち上がり、数歩移動しないと届かない。
(無理だな…)
僕は、左手首を見た。あれ? うでわが手首に埋まってるよ。いつもは、少し浮いてたのに…。ま、いっか。うでわの中にもポーションを入れておいて良かった。
僕は、痛みに耐え、右手を必死に動かしてうでわに触れた。ん? アイテムボックスが開かない。ひらけごま! えー、どういうこと?
あ! そっか、魔力を循環させないと開かないんだった。こんな風に手首に埋まってる状態って、この世界に転生してきた頃と同じだな。
(詰んだ…)
どうしよう。ほんの少しでも動くと、また身体がちぎれそうな激痛だよね…。うでわに触れるだけでも、あちこちに痛みが走るんだから。
(あ! そうだ!)
と思いついたものの、魔力がないなら無理か。僕はもう魔法は使えないのかな。
確か倒れる前に、何もかもが空っぽな感じがしたけど…。でも魔力って眠ると回復するんじゃないのかな? でも、使えないってことは……まぁダメ元でいいや。
(リュックくん!)
僕は、リュックを呼んだ。すると、背中にリュックが戻ってきたのがわかった。おわっ! 痛っ!! また全身を激痛が駆け巡った…。息が止まるかと思った。
(でもよかった。リュックくん無事だったんだ!)
『まぁな』
(どこに居たの?)
『近く』
(そうなの?)
『あぁ』
(そっか、ごめんね、ずっと放置してて)
『別に』
(ありがとう、優しいね)
『……さぁ』
(あのさ、背中からおりて僕のひざの上に移動できない?)
『無理』
(あちこち痛くて、リュックくんおろせないんだ)
僕がそう言うと、リュックくんはまるで消えたかのように軽くなった。でも、僕の背中にいる。
僕は、肩ベルトに手を掛け、リュックくんをおろそうとしたが、腕から肩に激痛が走る。
(リュックくん、背中からおりて、僕の横に移動することは?)
『無理』
(だよね……ポーション飲もうと思ったんだけど、詰んだな)
僕がそう言うと、僕の手に、モヒート風味のポーションと、パナシェ風味のポーションが、現れた。
(えっ? どうしたのこれ?)
『出した』
(リュックくん、中身を出せるの?)
『少しなら』
(すごい! ありがとう、助かったよ〜)
僕は、モヒート風味はベッドに転がし、パナシェ風味のクリアポーションを飲むことにした。
そして、蓋に手をかけて開けようと力を入れたが、全身に強烈な痛みが走った。
この蓋って……強敵じゃん。僕は必死に、痛みに耐え、蓋を回そうとしたが回らない。
(リュックくん、蓋を開けることってできる?)
『無理』
(だよね……ありがとう)
『あぁ』
僕は、手にポーションを握り、はぁっと、ため息をついた。ラベルの説明書きも出せないな。
(完全に、詰んだ…)
僕は、ベッドに腰掛けたまま、いつの間にかまた眠ってしまった。
「ん? ライトが起きた?」
イーシアの森にいたアトラは、ワープワームからの念話を受け取った。
「はぁ、やっと、ポーション受け取れるぜ」
「ふふっ、そうだね。結局あれから、半月ほど起きなかったよね」
いま、イーシアの森では巨大な蟻が暴れ、冒険者が次々と喰われる事件が頻発していた。
女神から、ライトが目を覚ますまで、トリガの里から動くなと命じられていたライトの後輩アダンは、ヒマを持て余していた。
トリガの里の里長から、イーシアで蟻と遊んできたらどうだと提案され、アダンは嬉々としてその案にのることにしたのだった。
イーシアの森で、蟻を討伐するアダンの戦闘力は圧倒的なものだった。まぁ、ドラゴンなんだから、蟻に負けるはずはないのだが、初戦は舐めすぎて傷を負わされていたようだが…。
それからは、アダンは毎日の日課のように、イーシアを巡回する守護獣達に、同行するようになった。
ただ、見習い守護獣達は、アダンをだんだん怖れるようになっていった。
アダンは機嫌が悪くなると、手がつけられなくなる。ほんの些細な言動でさえ、彼の機嫌が悪くなることがあったのだ。
そして、今日は、トリガの里は雨だった。里に降る雨は神聖なものであり、精霊が宿ると考えられている。
雨の日には精霊が、里にいる守護獣達に、神託のようなもの、すなわち神のお告げのようなものを与えることがある。
その精霊の言葉は、未熟な子供達を導くと言われている。だから、雨の日には、守護獣の子供達は里からは出ないのだ。
そのため、今日はアトラが、イーシアの巡回をしているのだった。
「アダンは、ライトからポーションを受け取って、ロバタージュに持って行くんだよね」
「あぁ、俺は、人族の街は、ロバタージュくらいしか知らないからな」
「その仕事が終わったら、どうするの?」
「また、宝玉探しするしかねーだろ。魔族の国は、あちこちに落ちてるからな」
「そっかー。頑張らなきゃね」
「頑張る気はねーよ。でも、アイツに、先輩ヅラされてるのもムカつくから、おねんねしてる間に抜かしてやるよ」
「ふふっ、ライバルなんだね」
「はぁ? なんで、あんな死霊ごときが闇竜の俺のライバルなんだよ」
「プライド高いねー、アダン。さすがドラゴンだねー」
「それ、褒めてんのか?」
「ん? 褒めてないよ。ケンカ売ってるー」
「はぁ? なんだと? ワンコのくせに」
「犬じゃないよ、狼だよー」
「同じようなもんだろ」
「それ、あの野蛮人と同じセリフー」
「は? 誰?」
「タイガさん」
「あー、なんか似てるってよく言われるぜ」
「ふふっ、確かに似てるね。やんちゃなところが」
「やんちゃ? ガキ扱いしてんのか」
「タイガさんも、アダンも、あたしから見れば子供だよ〜」
「おまえ、いくつだ?」
「女性にトシを聞くもんじゃないよー」
「あっそ」
「そろそろ、里に戻ろっか」
「あぁ、さっさとお届けミッションを終わらせねーとな。里は、居心地悪いしな」
「それは、自業自得だと思うよー」
「なんだと?」
「ふふっ」
「ッチ」
アトラとアダンが里に戻ると、もう雨は止んでいた。雨上がりの草木の湿った匂いが、アダンには心地よく感じた。
「なんか、雨上がりの匂いが、不思議だな」
「うん、この里の雨には精霊が宿ると言われてるからね。雨は、この里の草木に多くのエネルギーを与えるんだよ」
「それでか、なんだか魔力も体力も回復していくような不思議な感じがするぜ」
「もともと、この里は、魔力の源になるマナが濃いからね。それが雨によって降り注ぐからさ〜」
「だから、ここが回復には最適ってことか」
「傷ついた神族は、この里に療養しに来ることが多いからね」
「ふぅん」
アトラは、家の中に入った。すると、窓際のベッドの上で座っているライトの姿があった。
ライトが起き上がっていることに、アトラは、心の底から沸き立つような喜びを感じた。
「ライトが起き上がってる!」
「はぁ、しかし、妙に静かだけど、こっちが見えてないってことか?」
「目は見えてると思うよ。まだ話せないのかも?」
「はぁ? もう1ヶ月半じゃねーの? 回復遅くねー?」
「だって、生命エネルギーまでほとんどすべて、闇に変えて放出したんだよ?」
「タイガさんが、止めなければ消滅してたって自慢してたな」
「うん、もう一撃攻撃してたら、完全にライトの魂は、枯渇して消滅しちゃうとこだったって聞いたよ」
そして、ふたりはライトに近づき、ライトが座ったまま眠っていることに気づいた。ベッドには飲まれていないポーションがふたつ転がっている。
「また、寝てるし…」
「ふふっ、ポーションを飲んで回復しようとしたのに、蓋が開けられなかったみたいだね」
「情けねー」
「ふふっ、仕方ないなー。あたしがお世話してあげないとー」
アトラは、頬を緩ませ、ライトをそっとベッドに寝かせた。そのとき、ライトの背中に、リュックが戻ってきていることに気づいた。アトラは、リュックを背からおろし、ライトのそばに置いた。
「その中から、ポーション出せばいいんだよな」
アダンは、リュックを開けようとしたが、リュックは全く開かない。
「たぶん、持ち主と、女神様しか、開けれないよ」
「ッチ。起きたらすぐ呼べよ。部屋に戻るし」
「ふふっ、わかったよー」
そして、アダンは、宿泊している里長の家へと戻って行った。
アトラは、ライトのそばで、いつものように、スゥッと眠りについた。