第壱話 憑代(ヤシロ)
光があふれる潜り戸のむこうは、一面の青だった。
夏の空と海の、青。
意識はもう、そこに飛んでいた。
けれど。
不意に足首をつかまれて、わたしは悲鳴をあげそうになった。
灯台の基部から続くらせん階段は、最後にほぼ垂直の梯子になる。その梯子の、最後の一段を登りきるところだった。
ちょっ、なに?
だれよ。
混乱するわたしの足元から、冷ややかな風とともに、彼の声が聞こえてきた。
「いい眺めですね」
……ああ、そうか。そうだった。
彼は、わたしの後から梯子を昇ってきている。
ということは、今はわたしの足元から、見上げているにちがいない。たぶんわたしの、ワンピースのスカートの中を、だ。
ちなみに今日のは……。
だめだ、見られていいやつじゃない。そんな気はなかったから、量販店で買った安物を穿いてきたんだった。
「見たの?」
「はい、と言ったら?」
「蹴落とします」
「なら、見てません。墜ちるのは、ご免こうむりたいですからね」
ほんとうのところは、どうだか。
調子のいい彼を置き去りにして、わたしは潜り戸を抜けた。
そこは灯台の天辺を一周する張り出しで、子どもの背丈ほどの柵の向こうには真夏の空と海があった。
雲ひとつない空、はてしない大海原。その境目はわずかに霞んで、下向きに反った弧を描いていた。
足元に広がる荒々しい岩礁から左に目を移すと、山側にはなだらかな丘が続いていた。丘の頂には風力発電の風車が並んでいて、細長い三枚の羽根をのんびりと回転させている。
張り出しを回り込むと、原生林の向こうに広がる入り江が見えた。照りつける太陽が、さざ波を白く輝かせている。
入り江の奥にはこじんまりとした街並みがあって、その彼方には濃緑の山塊が連なっていた。
「ここは陸繋島なんですよ」
追いついてきたのか、耳元で彼の声がした。
「リクケイトウ?」
「ええ、街並みがある部分は、砂州なんです。もともとここは島だったんですが、長い年月のあいだに砂がたまって、半島に繋ぎとめられてしまったんです」
地理の授業のような彼の説明の間も、灼熱の陽光は遠慮なく照りつけている。日焼け止めをしていない素肌が、悲鳴をあげはじめた。
そろそろ降りようかと思ったとき、わたしは不意にそれを見つけた。
鬱蒼とした原生林の合間から、茶色い建物がわずかに覗いている。銅板で葺いた春日造りの屋根は特徴的で、たぶん神社の建物だろう。
明媚な風景のなかで、そこだけが陰気を放っているように見えた。
わたしの視線に気づいたのか、彼が誘いの声をかけてきた。
「いい神社ですよ。あとで行ってみましょう」
「ちょっと怖そうだけど」
「観光客はまず行きませんけど、大丈夫ですよ」
正直、あまり気乗りはしなかった。
だいたい、一人旅の女をそんなところに誘うなんて、親切なふりをしているけど下心が見え透いている。
でも、まあ、それもいいか……。
ほんとうなら、恋人と一緒に来ていたはずの旅行だった。
なのに、旅行の直前になって、一方的に別れ話を切り出された。最近になって知り合った子に、本気になってしまったようだった。
長く続いた相手だったし、相性もいいように感じていたので、かなり落ち込んだ。
でも、一晩めそめそしたら、なんだかすっきりした。
旅行の費用は折半で前払いしていたし、キャンセル料が高くなる期限も過ぎていた。いまさら友だちを誘うのも面倒だったから、わたしはひとりで特急列車に乗り込んだのだ。
そんなわけで、わたしは目下のところ、傷心旅行中なのだ。だから、なかば自棄ぎみに、出会ったばかりの彼の誘いに乗ることにした。
灯台の門を出ると、一本の石柱が立っていた。
ずいぶん古いもののようで、風雨にさらされ苔が生えて、刻まれた文字は判読しにくかった。かろうじて「神社」という部分だけ、読み取ることができた。
そこが、神社への参道の入り口だった。
木の下闇に吸い込まれるような細道で、原生林のなかへと下っていた。
それと知っていなければ、この先に神社があるとはだれも思わないだろう。
じっさい、灯台の門を出てきた女の子たちのグループは、だれひとり見向きもせずに立ち去った。
木陰を縫うような道は、サンダルの足には歩きにくかった。
耳が痛くなるくらいに蝉の声が降り注ぎ、湿気を含んだ土の匂いが鼻をつく。
来なければよかったかなと思いはじめたとき、ぽっかりと日が当たっている場所に出た。
鳥居が立ち、手水舎があって、参道はそこから石敷きになっていた。モザイクのような鉄平石の表面を、日差しが白く焼いていた。
手水を使おうと思って水溜めを見たら、すっかり乾いていた。どうやら長いこと使われていないようだ。
彼が言ったとおり、ここに来るまでにだれとも出会わなかった。
「例祭は十月十八日で、豊漁を祝うものです。それ以外の時季に、ここにお参りに来る人はほとんどいませんから」
あまりご利益のある神社ではなさそうだ。
そんな不埒なことを思いながら鳥居をくぐった途端に、空気が変わったことを感じた。
「おっと。怖い、怖い」
彼がうそぶく。
鳥居は結界だと聞いたことがあるが、ほんとうにそうかもしれないと思った。さっきの無礼な思いつきを、祭神が咎めたのかもしれない。
鳥居の先は上り坂になっていて、二十段ほどの石段に繋がっていた。
石段を登りきると、城のような石垣に囲まれた境内に出た。
ずいぶん物々しい神社だ。
「この石垣は、風雨から社殿を守っているんですよ。このあたりは台風の通り道ですからね」
言われてみれば、この岬は台風のテレビ中継の名所だ。
石垣に守られ、木々に埋もれるように立つ社殿は、遠目に見るよりも重厚だったけど、すこし寂れていた。
境内にも人の姿はなく、社務所どころか拝殿の入り口も閉ざされている。
鈴を鳴らすことも賽銭を上げることもできないけれど、わたしは拝殿に向かって柏手を打った。
「願いごとでもあるんですか?」
彼が小馬鹿にしたように尋ねた。
見透かされたようで悔しいけれど、たしかに気の利いた願いごとは、思い浮かばなかった。
「祭神はスクナヒコナノミコト。オオクニヌシの国造りを手伝った、一寸法師のように小さな神様です。オオクニヌシの元を去ったあと、この地から常世国に渡ったと伝わっています」
「トコヨノクニ。怪談にそんな話があったような」
「ええ、その常世国です。つまり、あの世のことですよ」
記憶が曖昧だけど、たしか蝶がどうの、蟻がどうのというお話だったような気がする。あの世だとか、その手のお話ではなかったはずだ。
子細お構いなしという感じで、彼の言葉が続く。
「スクナヒコナのように、あちらに渡れて祀られている者はいい。でも、こちらに思いを残したまま、あちらにも渡れず、祀られもしていない者もいる。そういう者たちは、やがて人に祟りをなすようになり、出会っただけでとり殺される……」
なんだろう。彼の口調が変わったような気がする。
わたしを怖がらせて、なにか企んでいるのだろうか。
それに、さっきからずっと、冷気のようなものを感じている。まるで、この世とあの世が繋がっている場所であるかのような。
「このあたりでは、『ミサキ』と呼ばれている」
その言葉に呼応するかのように。
閉ざされた拝殿のなかに、ふわりと人のかたちをしたものが現れた。
暗くてよくわからないが、赤い衣装を身に着け、こちらを向いてたたずんでいた。焦点の定まらない虚ろな目が、わたしに向けられている。
わたしは、全身に冷や水を浴びせられたように、ぞっとした。
けれど、瞬きをする間に、人影は消えていた。
「見た?」
「なにをですか?」
わたしはその先を口にすることができなかった。
きっと気のせいだ。そう思うことにした。