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クモの糸

作者:

何もやる気が起きない。


俺はうつむきに寝転がりながらぼんやりと前を見ていた。

一人暮らしをはじめて早半年。だいぶ生活にも慣れてきた。

大学を卒業して、特に夢も無かった俺は名前もよく知らない中小企業に入社した。

学生時代に憧れていた一人暮らしも、今ではもう生活の一部となり何の感慨もなくなってきている。一週間に一度掛かってくる両親からの電話も、会社での上司からの小言も生活のサイクルの一つに組み込まれてしまい、正直、マンネリとした気分で日々を送っていた。

目標も無くだらだらと毎日を過ごす。

まずいなぁ、とは思いつつも特にすることも無く、ぼんやりと寝転がっている自分がいる。

暇をつぶすため何かすることはないかと部屋を見回してみた。

家賃、月2万という安さに引かれて住み始めた六畳一間のボロアパートだが住めば都とはよく言ったものだ、初めはハエや蚊やゴキブリの大歓迎に悲鳴をあげたがもう慣れた。

元は純白であっただろうが既にこげ茶色となった外壁も、所々雨漏りする赤い屋根も愛着すら湧いてくる。・・・いや決して負け惜しみではない。

二階建て建物で自分の住む部屋以外にも5つの部屋があるが、今は自分しか入居者がいない。


部屋の角にはやたらと立派なベッド――眠る時くらいは安らかに寝たいとささやかな贅沢だ、の上に着替えが無造作に放ってある。朝着替えてそのままにし、眠る時にまたそれを着て寝る。

うん、効率がいいのでここはこのままでいいだろう。

この部屋唯一の収納である押し入れに目を向ける。自宅からいくつか持ってきた、本やゲームをしてもいいのだがそういう気分じゃない。

しかもそれは魔境と化している押し入れに突っ込まれ、一度開けたらなにが起きるかわからないパンドラの箱状態だ。よってこれは却下だ。

次にキッチンに目をやる、一応自炊をしているのでそれなりに片付いている、はずなのだが最近忙しくて、二、三日分の洗い物がそのままになっていた。

俺はあえてそこから目をそらすことにした。

「うぉうっ!」

目をそらして横を向いた先には一匹のでかいクモがいた。

クモ自体は珍しくないのだが、いきなり目の前に現れたので思わず仰け反ってしまった。

のけぞった拍子に背中は変な方向にねじり、嫌な音がして腰に痛みが走った。

地味だがかなり痛い。今なら腰を痛めている祖父の気持ちがよくわかる。

手で腰をさすりながら、その元凶となった存在を睨む。

意外と大きかった。ジョウロウグモとか言うやつだろうか?

黒と黄色のまだら模様、細長い手足、丸い胴。虫が苦手な人なら悲鳴をあげて逃げ出すような代物だ。あいにく俺にそんな繊細な心は残っていない。

くもは肝が据わっているのか俺の叫び声も気にしていないように、同じ場所に居座っている。

「いや、虫のクセに肝が据わってるも何も無いだろう」

自分自身に突っ込みを入れて周りを見回す。当然このクモを退治するためだ。

傍らに置いてあったティッシュを掴もうとしたが、これほど大きいとティッシュでは少し

不安がある。叩き潰そうかとも思ったが地面に張り付かれても困る。

殺虫剤を探してみたが、なぜか見つからない。どうやら魔境に紛れ込んでしまったようだ。

「しょうがねぇなぁ」

ため息交じりにそう呟いてから、ひょいっとクモを摘み上げ、窓を開ける。

一階なのですぐ下に地面が見える。そこにポイっとクモを投げ捨てる。

ついでとばかりの窓から身を乗り出し、風に当たる。

そろそろ半袖では肌寒い季節になってきた。時間も遅いために辺りは真っ暗で、時折犬の遠吠えのような声が聞こえてくる。

下を向いてみると、クモの姿が見えない。どこかへ逃げてしまったようだ。

冷たい風がむきだしの腕に当たり、ぶるりと身体を振るわせる。

「・・・・・・寝るか」

俺は窓を閉めてさっさと眠ることにした。まだ痛みのある腰をいたわりながらゆっくりと窓から降りた。

このときはまだ、長い付き合いの始まりだとは思いもしなかった。


「あらぁ?」

しばらく日数が過ぎ、クモの事をすっかり忘れたころ、ふと窓を開けてみるとそこには見事なクモの巣が掛かっていた。窓の広さを限界まで使って張り巡らされてクモの巣はまるで一種の芸術品のような雰囲気を持っている。

そして巣の中心には例のクモがふんぞり返っていた。

「お前、ほんといい度胸してるな・・・」

俺は半ば感心しながら、それを眺めていた。

じっとしたまま、まったく動かずに獲物を待つ姿はまるで自分こそが家主だと言わんばかりだ。当然俺はくもの巣を払うべく、丸めた新聞紙を手に取った。

そして、くもの巣へと手を伸ばす。

「いや、待てよ・・・。一様これもこいつの家だもんな。下手に壊したらかわいそうか」

しばらく迷っていたが、結局そのまま放置する事にした。元が虫屋敷なのだ。いまさらクモの一匹や二匹増えたところで大差はない。

「感謝しろよ。こいつめ」

クモは相変わらず動かなかったが、獲物が巣にかかった瞬間素早く動き始めた。


次の日から俺とクモとの妙な共同生活が始まった。

両親の小言も、上司からの小言も何一つ変わっていないが、というか小言言われてばかりだな俺・・・。とりあえず毎晩のように窓を開けるようになった。

はっきり言って、一人暮らしの男がクモと見つめあっている姿は傍から見れば無気味な事だろう。だが、チョコマカと動き回り、あくせくと働いている、ように見えるクモはなにやら親近感の湧く存在だった。

しかも、窓から入ろうとする虫をある程度取ってくれるので、意外と使える同居人だ。

その日も、俺はハエを糸でぐるぐるまきにするのを眺めながめていた。

何故だかわからないが、ふいに糸にまかれているハエが自分の今と重なった。

立場、地位、社会、その他もろもろに絡み取られている情けない自分。

ならばそれを食うのは一体誰であろうか?

「縁起でもねぇ」

俺は頭を抱えてうなだれた。何やってんだ俺は、ハエ並の人生かよ。

クモは相変わらず、糸を出してハエと格闘している。

そこでちょっとしたイタズラ心が湧いた。

糸の繋がった状態で獲物を指で弾いてみる。

くるくると回転するハエに釣られて、クモが左右に揺れる。そしてすぐにおたおたと糸を巻き上げ始めた。もう一度弾いてみる。まったく同じ動作をクモは繰り返した。

「うわ、なんか和む〜」

その動作を何度も繰り返してみる。

何回目か糸を弾いた時、プチッと糸が切れてしまった。

晩飯を落とされたクモはまったく動かない。

ちぎれた糸が垂れ下がる姿は哀愁すら漂う。少し罪悪感が・・・

「おっ?」

突然クモが動き出して、巣の下のほうに移動する。

もしかして拾いに行くのか?

と思ったら窓の隙間に入って隠れてしまった。もしかしたら怒ったのかもしれない。

「お〜い、謝るから出て来いよ」

隙間を覗いていると、突然背後から携帯の着信音がした。

ベートーベン作曲『運命』

これが流れてくる相手は一人しかいない。俺は一気に憂鬱な気分を引きずりながら電話に出た。

「おぉ、○○君? 実は今飲んでるんだけどさ〜。君も来ないか」

開口一番、上機嫌な酔っ払いの親父の声がする。俺の直接の上司だ。

社内でもっとも口が臭く、もっとも性格が悪く、もっとも禿げている。

それが俺の出世や人生を握ってるって言うんだから冗談じゃない。

冗談みたいなつもりで着信曲を決めたが、少々皮肉がききすぎてるな。

そんな事を考えてる際も、この親父は喋り続ける。完璧にできあがってやがる。

俺に拒否権は無さそうだ。わかりました、と返事をして場所を聞く。

携帯と財布だけ持って出かける準備をする。ふと窓に目を向けてみるがクモは相変わらず出てくる気配はない。仕方なく窓を閉め、部屋を出る。

窓に下には先程落ちたハエがなんの役に立つ事も無く転がっていた。


「最悪だ・・・」

現在時刻早朝4時。くそ親父は――もう、これからはくそ親父と呼ぶ事にした。散々引っ張りまわした挙句に酔いつぶれ、飲み屋で寝てしまい、さらにタクシーへ運ぼうとする時に盛大に吐きやがった。それを処理して会計まで済ませた俺の惨めさは一晩では語り尽くせまい。さらに付き合いと称した飲みに飲まされ、二日酔いで頭が割れそうだ。

誰かのせいで財布が空の俺はタクシーが使えず、何とか這うようにして自宅へとたどり着いたのだった。

幸い今日は土曜日。ゆっくりと休む事が出来る。本来はもっと有意義に使いたかった。

何とか服を脱ぎ、ベッドに飛び込む。そして俺は一瞬にして眠りに落ちていった。

次に目を覚ませたのはもう夕方だった。

ひどい気分だ。重い身体を引きずって起き上がると、冷蔵庫をまさぐりスポーツドリンクを取り出し、それを半分ほど一気に飲み干す。喉が潤うと今度は腹が減ってきた。

さらに冷蔵庫から惣菜をいくつか取り出し、飲み物と一緒に胃袋に流し込む。

いつ体を壊してもおかしくないなと苦笑しながら早い晩飯を堪能していると、再び背後で携帯が鳴った。今度は運命ではなく、最近流行のバンドの新曲が流れる。

口の中のものを飲み込んでから電話を取り、着信ボタンを押す。

「もしもし?」

「あっ、○○君。これから飲み会なんだけど。一緒に来る?」

激しくデジャブを感じるが、今度の電話の相手は女性だ。

社内で唯一の良心。地獄に垂らされた一本のクモの糸。

眉目秀麗にして日進月歩と名高い我が社のマドンナである。

ん?少し言葉の使い方を間違えたか。ともかくこの誘いを断る理由はない。

即決で了承し、身支度を始める。なにせ服なども昨日のままなので、何から何まで乱れまくりだった。顔を洗い、髪形を整えながらひげをそる。我ながら器用なものだ。

そういえば、地獄に垂らされたクモの糸とは何の事だっただろう?

確か小学校で道徳の時間に習ったような気がする。

服を着替えながら記憶をさかのぼってみる。


地獄に落とされた大罪人が、生前に一匹のクモを助けた。

男が地獄に落とされたとき、そのクモの糸が一本地獄に下ろされ、男はそれを上って天国へ行こうとするが、途中で何人もの罪人がそのクモの糸を上り始める。糸が切れる事を心配した男が、これは俺の糸だ昇るんじゃないと叫んだ瞬間、糸は切れてしまい、男は地獄へ逆戻りするハメになったとさ。

「悪い話じゃないか」

特に意味のないツッコミをしている間に、支度が終わった。服は当然昨日よりもお洒落だ。

髪形も決めて鏡の前で軽くポーズしてみる。・・・さえない顔の男が背伸びしている図だった。

いいさ、男は内面で勝負だ。そう自分に言い聞かせ玄関へ向かう。

窓は昨日から閉めたままだった。


「さすがに二日連続は辛かったか・・・」

憔悴しきった俺は今にも倒れそうになりながら部屋に入った。

現在時刻午後十一時。家を出てから四時間くらいか。

甘く見ていた。飲み会はまさに戦場だった。

彼女を狙うハイエナどもが我先にとアピールし、互いに蹴落としあう。

「こいつ、学生のころ二股かけてたんですよ。最低ですよね〜」

「こいつなんか、SMクラブ通ってた事あるんですよ」

「俺、中学のとき野球部で四番でした」

こんな会話が一方的に展開されていた。低レベルで醜いことこの上ない。

彼女もかなりひいてたな。自業自得だハイエナどもめ。

おかげほとんど会話できなかったが・・・

「・・・痛ぇ」

俺がじゃない。頭のことだ。ひどい二日酔いで頭が割れそうだ。

ふらふらと窓辺に寄りかかり、風に当たるために窓を開ける。

いつものように、冷たい風が部屋に吹き込み、馬鹿でかいクモの巣が眼前に広がる。

だが、そこにいるはずの主がいなかった。

「まだ、すねてやがんのか?」

俺はまだ窓の隙間に隠れているものだと思い、何気なくそこを覗いてみた。

確かにいた。ただし、上を向いて、足を曲げて。

どこからどう見ても死んでいる。クモは死んだふりなんかしない。

確かに死んでいる。

「なんで・・・」

酔いも一瞬で浮き飛び、俺は慌てて何か細長いものを探した。窓の隙間は細くて指では届かないからだ。

割り箸を使って引きずり出してみると、確かにあのクモだった。

これほど大きなクモはそうそういない。

呆然とクモの死骸を眺める。何が悪かっただろう。

真っ先に昨日のイタズラが思い起こされた。

やっぱりアレがまずかったのだろうか。怪我はさせなくても、虫もストレスとかでも死ぬのかもしれない。それとも、ただ単に寿命かもしれない。冬だし。このごろ寒かったし。

どっちにしろ、死んでしまったことには変わりない。しばらくボーっとクモの死体を眺めていたが、ふいにある考えが浮かんだ。

「墓でも作ってやるかな。」

俺はクモの死骸を持って外へ出た。アパートの裏。丁度自分の部屋の窓の下に穴を掘り、

そこにクモを埋めてやる。墓標には適当に拾った木の枝を立てる。

粗末な墓だった。見事なまでに貧相だ。

クモの墓なんてそんなものか。昔飼ってた金魚なんて、死んだら畑の肥料にされたからな。

何をするでもなく、しゃがんで墓を眺めていると、ふいに携帯が鳴り出した。

三度目のことなので驚く事も無くそれに出る。

以外にも、電話の相手は彼女だった。周りの喧騒からしてまだ飲んでるのだろう。

「あっ、○○君。急に帰っちゃうから心配したよ。どっか具合でも悪いの?」

そういえば、途中で抜け出してきたんだった。

心配してくれたのか。ちょっとビックリだ。名前すら覚えてくれてないと思っていた。こういう周りによく気がつく所も男に好かれる一因だろうな。

「いや、なんでもないよ」

「そう? 今何してるの?」

「う〜ん、クモの葬式かな」

「えぇ?」

当然の反応だ。変なやつと思われても仕方が無い。

「家に住み着いてた奴なんだけどね。帰ってきたら死んでた」

携帯に耳をあてながら、自然と墓を見下ろす。

こんな話をしたら気味悪がられて当然だろうな。自暴自棄もいい所だ。

もしかしたら、俺は結構ショックを受けてるのかもしれない。誰かに聞いてもらいたいほどに悲しんでいたのだろうか。自分にそんな繊細な心があったのかとさらに驚く。

「一応墓くらい作ってやろうと思ってさ。だから葬式中」

彼女は黙ったままだ。このまま切られてもいいかな、と思っていると電話口から彼女の声が聞こえてきた。

「実は私、こっそりネズミを飼ってたことがある」

突然の告白にビックリした。今日は驚きの特売日か。

いつのまにやら喧騒も聞こえなくなっている。もしかしたら、移動したのかもしれない。

「田舎に住んでたころね、当然うんと小さなころだけど。よくネズミの出る家に住んでたの。

部屋の隅に餌を置いとくとね、いつの間にか無くなってるの。触ったりはしないんだけどけっこう可愛がってたんだけど」

そこで一旦言葉を切る。

「でね、しばらくしてネズミ捕りに掛かって死んじゃってた」

それはまた・・・。軽くトラウマになりそうな事件だ。可愛がっていたペットが罠に掛かって死んでいるのを見つけたのだ。大人でもぞっとするだろう。

「だからって訳じゃないけど、君の気持ちわからないでもないかな? いや、全然関係ない話だったね。ゴメンネ。変な話して」

また明日ね、と言って彼女は電話を切った。

俺はと言えば、ただ同じ姿勢でしゃがんでいた。

なんだろう、俺はもしかしたらすごい得をしてるのかもしれない。

彼女と少しでも接点がもてたのだから喜ぶべきかも知れない。

それより大事な友人が死んだ事を悲しむべきかもしれない。

俺は最初からクモの糸に絡めとられて踊らされていたのかもしれない。

逆に一本の垂らされた糸によって救われたのかもしれない。

「ダメだ。よくわからねぇ」

とにかく俺は明日からも会社へ行かなければいけないのだ。

明日は両親に電話をする日だ。会社ではくそ親父に小言を言われなきゃいけないだろう。

もしかしたら、彼女が声を掛けてくれるかもしれないし、くれないかもしれない。

俺はゆっくりと立ち上がった。

とりあえず寝よう。

明日になればいつも通りの日常が待っている。


俺の前に続く道が、クモの糸の張り巡らされているのか、それともそれは天国から垂らされている一本の救いの糸か。

それは明日考えればいい。

とりあえず俺は窓に掛かったクモの巣を綺麗に取り払っておいた。


はい、涼です。だらだらと長い駄文にお付き合いいただきありがとうございます。

これは、自宅の窓に掛かっていた大きなクモを見かけたときに思いついたものです。

虫ってけっこう奥が深いんですよねぇ。

それでは今日はこの辺で。ご愛読ありがとうございました

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