24章 混乱の合宿~三日目・朝~
大変長らくお待たせいたしました。
本日より、更新再開です。
翌朝。
例によって五時丁度に目を覚ました僕は、誰かが覗き込んでいることに気が付いた。
少し離れた位置では穏やかな寝息が一つ聞こえるので、目の前の人物は琴音ではない。でも、微かに押し殺したような息遣いがあるから、間違いなく誰かが僕の顔を覗き込んでいるんだ。
(こんな時間に既に起きていて、さらには他人の部屋に無断で入ってくる人なんて……)
そんな人いるわけがない、と思ったけど撤回。一人だけ知っている。
「おはよう、凛」
「おはよう、雅人。起きていたのね」
眼を開いた僕の前には、何食わぬ顔で微笑んだ凛の顔があった。上から覗き込むように見る彼女の顔は、思いの外近くにある。
「朝一で寝顔を覗き込むなんて、あんまり良い趣味だとは言えないよ?」
不用意に体を起こせないので、視線だけで非難の意志を告げる。しかし……。
「あら、覗くだけならまだしも、堂々と女湯に入ってくる変態男子には言われたくないわね」
「うっ……それは……」
即座に致命的な部分を抉られ、僕は黙るしかなくなる。
元々口喧嘩は得意ではないし、凛は口論に強い(実力行使でも強い)から勝てるわけはなかったのだけど、寝起きの僕はそのことを少し失念していたようだ。
「ほんと、昨日はごめんね」
僕は凛の眼を真っ直ぐに見つめ、心からの謝罪をする。
自ら意図したことではなかったけど、結果的には彼女の信頼を裏切ってしまったのだ。素直に謝罪するのに、なんの抵抗もあろうはずがない。
「もういいわよ。過ぎたことをとやかく言っても仕方ないし」
彼女はふっと、柔らかく微笑んでみせる。
「でもね……」
しかし、僕の顔を覗き込んでいた彼女は突然笑みを怪しげなものに変える。そして、そのまま徐々に顔を近づけてきはじめた。
「ちょっ……凛!?」
鼻先が触れ合う寸前まで接近した凛の頭は、直前で軌道を変えて僕の顔の脇に落ち、耳元で妙に艶っぽい囁きを零した。
「私の身体を見た代償は高いわよ?精々覚悟しておきなさいな」
吐く息が直接当たるほどの至近距離で囁かれた言葉は、僕の身体を色々な意味で震えさせるものだった。
「……肝に銘じておきます……」
勘弁したような僕の答えに、凛はどうやら満足したようだ。
「ふふ、それがいいと思うわ。貴方のためにもね」
体を起こした凛は、横になったままの僕に視線を落とす。
そこには別段冷たさや侮蔑の色は無く、彼女もまた、琴音と同じように事情を十分に酌んでくれているということなのだろう。
「それじゃあ、私はトレーニングに行ってくるから。今日の朝食も、楽しみにしているわ」
凛はそれきり振り返ると、僕が起き上がるのも待たずに部屋から出て行ってしまった。
相変わらずクールな凛の振る舞いに、僕は不思議と安心して笑みを浮かべた。
しかし、今朝の試練はこれだけではなかった。寧ろこの後の方が、僕の緊張度は高かっただろう。
それはもちろん、雪姫さんの訪問だ。
凛が部屋から立ち去っておよそ二十分後。琴音が欠伸交じりに起きだしてきて、着替えるからとトイレへ閉じこもった直後のことだ。
部屋の扉をトントンとノックする音が響いてきた。
「は……」
はい、と答えようとして、僕は瞬時に傍の扉から飛び出してきた琴音に口を抑えられた。
「バカ、あなたが出て行ったら大変なことになるでしょう!」
口調とは裏腹な、囁き声で指摘される。
確かに、僕がこのまま出て行って、それが事情を知らない女子生徒だったら大変なことになる。琴音は危機一髪の窮状を救ってくれたんだ。
「そ、そうだね……。ありが……」
ありがとうと続けようとして、僕の言葉は止まってしまった。ここへきてようやく、僕は琴音の格好に目がいったんだ。
あられもない姿、具体的に言うと、ワイシャツの前ボタンが開かれたまま、健康的な肌色と胸部を覆う桃色の布地を覗かせている格好の琴音の肢体に視線が吸い込まれてしまった。
「こ、琴音っ!?」
「し、静かにしなさい!!それ以上何か言ったら、また数時間気を失わせてあげるんだから!!」
頬を染めた僕の視線に、琴音も顔を真っ赤に染めてまくしたてる。ただし、僕も彼女もできるだけ声は抑えて、だ。
それとこの反応から察するに、どうやら琴音は自らの格好を承知で僕の口を抑えに出て来たらしい。
お蔭で本当に助かった……のかな?
コンコン――。
そのとき、もう一度ドアがノックされる音が響いた。そしてノックの後に聞き慣れた声が続く。
「あ、あの……琴音さん?もう起きていらっしゃいますか?」
中の様子を窺うくぐもったこの声は、ご存知雪姫さんのものだ。僕は聴こえてきたのが事情を知る彼女の声だったため、完全に油断してしまったらしい。
(よ、よかった……。雪姫さんか……。緊張したよ……)
琴音の手に抑えられた状態のまま、安堵の声を漏らす。が、それがいけなかったらしい。
「あ、雅人……ダメ!!」
安堵の声と共に緊張が解けた僕は、僅かながら足の力を抜いてしまった。
今やほとんど体を密着させて僕の口を抑えにかかっている琴音が、こちら側へ体重をかけてきていることを忘れて。
つまり……。
「えっ……と、うわああ!!」
「きゃああ!!」
そのまま後ろ倒しに、二、三歩たたらを踏んだ後、今朝方まで僕が横になっていたベッドへ倒れ込む。もちろん、上には琴音が倒れ込んできているので、まるで僕が彼女を引っぱり倒したかのような態勢だ。
「大丈夫ですか!?」
そこへ、異変を感じた雪姫さんが悲鳴を上げて入ってきた。先ほど凛が出て行ったときに鍵をかけていなかったのが災いしたのだろう。
扉を開いて部屋へ突入してきた雪姫さんは、ベッドに倒れ込む僕と、僕に覆い被さるように手をついて固まる琴音へ視線を配り、白い頬を真っ赤に染めた。
「あっ……その……。お取込み中、だったのですね……」
そして固まる僕らを前に、徐々に後ずさりする。
「あの……私……お邪魔してすみませんでした!!」
物凄い勘違いをして今にも飛び出していきそうな雪姫さん。そんな雪姫さんを見て、慌てて琴音が起き上がる。
「違うのよ、二条さん!今のは単なる事故で……」
彼女の手首を掴んで引き留める琴音。当然、未だ琴音のワイシャツのボタンは開かれたままだ。
振り返った雪姫さんも思わず視線を落としてしまい、赤い顔がさらに羞恥に染まる。
「こ、琴音……その恰好はマズイって……」
呆れた声で、起き上がった僕は琴音の背中に語りかける。
あの姿を誰か事情を知らない人に見られてしまうのは、社会的意味で危険だ。
っていうか見つかったら間違いなく騒ぎになってしまう。女の子二人だけならまだしも、今は僕という男もいるのだから。
「うぅ……。と、とにかく!二条さん、今のは誤解なのよ。ただの事故なんだから」
背中越しでも耳が真っ赤になっているのが判るくらい恥ずかしそうに唸る琴音だったけど、ここは勢いで押し切ることにしたようだ。
少し雪姫さんの手を引いて近付き、自分と同じく真っ赤になっている彼女に必死で訴えている。
「えっと……そう、なのですか……?」
雪姫さんは眉尻を下げ、琴音越しに僕の方を窺い見てくる。
その瞳に浮かんでいたのは不思議と疑いの色ではなく、寧ろ心配というか不安の色に見えたのだけど、僕の気のせいかな?
「うん、琴音は僕の不注意をフォローしてくれようとしただけなんだ。倒れちゃったのは僕が気を抜いた所為で起きた事故に間違いないよ」
自然と苦笑いになって答える。雪姫さんは不安げな目でじっと見つめてきたけれど、やがて微笑むと目の前の琴音に笑顔を向けた。
「わかりました。今のは事故、なんですね?でしたら、安心しました」
晴れやかな雪姫さんの笑顔を見るに、先程の不安げな視線の元凶は解消したらしい。
一体全体何が心配だったのかはわからないけどね。
「大丈夫よ。大事な約束だもの」
琴音も何か意味深な台詞を返し、雪姫さんの手を放す。こちらから表情を見ることはできないので確かではないけど、多分琴音も笑っているのだろう。
女の子二人は楽しげに笑い合っている。ベッドに腰掛けて眺めている僕にとっても、その光景は微笑ましく思えた。
しかし、それにしても……。
「二人とも、『約束』って何の話?」
部屋の中を包む笑い声に載せて、僕は訊ねてみた。軽い気持ちで何気なく問いかけたのだけど、僕の思いとは裏腹に二人は、特に琴音は目に見えてビクッと肩を震わせた。
琴音がそーっと振り返り、僕の顔を窺う。見るからに「しまった」とでも言いたげな顔だ。
雪姫さんもいつもの微笑みを湛えているけど、どうしようかと悩ましげな印象だ。
「えっ……何……?今の何か不味かった?」
自分の問いがいけなかったのか。僕は急に焦りだした二人に戸惑ってしまう。
「ええっと……別に不味いわけじゃないんだけど……」
いつもの果断ぶりは何処へやら、琴音は珍しくハッキリしない。
「そうですね……。雅人さんが悪いわけではないんですけど……」
雪姫さんも困ったような苦笑いを浮かべるばかり。
「えっと……何か聞かれたくないことだったのかな……?」
「………」
「………」
なんだろうか。
二人は苦々しい表情で沈黙しているのだけど、時折僕へ向けてくる視線には妙な刺が含まれている気がする。
琴音なんて、段々と目が据わり始めてきたくらいだ。
どうしよう……。
よくわからないけど、取り敢えず謝っておいた方がいいのかな……。
と、そんなまるっきり弱腰な言葉が飛び出しかけたところで、先に雪姫さんの方が口を開いた。
「ところで雅人さん、昨晩はその……大丈夫、でしたか?」
軽く恥じらいながら、それでも僕のことを本気で心配してくれているのがわかる様子で、雪姫さんは昨晩の僕の不祥事と、ついでに琴音の強烈なハイキックによる失神の件について訊ねてくる。
「えっ!? それは……その……僕はもちろん大丈夫だったんだけど……」
冷静に考えればそれは不自然すぎる話題転換だったにも関わらず、多分に負い目があるせいで、僕の意識は完全にこの問いかけに向けられた。
おかげで、少し焦りの見えていた雪姫さんを傍目に、僕は一人真剣な表情に変わる。
(そうだよ、雪姫さんにも謝らなきゃいけない)
ここまでちょっとゴタゴタしていたために忘れてしまいそうになっていたけど、僕は昨日雪姫さんにも不埒な真似(?)をしてしまったんだ。
丁度彼女から話を切りだしてきてくれた今謝らないで、いつ謝るというのだろうか。
「雪姫さん、昨日はごめんなさい!!」
僕はきょとんとする彼女の前に立って、言葉と共に深々と頭を下げた。
「雅人さん……」
「故意ではなかったとはいえ、雪姫さんの信頼を裏切るようなことをしてしまったことはとても申し訳なく思ってます。本当にごめんなさい」
腰を出来る限り直角に折って頭を下げ、誠心誠意の謝罪を送る。
背信行為に至ってしまった僕としては、これ以外に彼女へ送ることのできる言葉はなかった。そしてこれを機に罵倒や嫌悪を向けられたとしても、一切反論することはできないだろうと覚悟していた。
でも、雪姫さんは寛大だった。
「あの、雅人さん……お顔を上げてください」
言われるがまま体を起こした僕の前には、柔らかな微笑みを浮かべる雪姫さんの顔があった。雪姫さんは笑顔のまま、僕に表情と同じ優しい声音で語ってくれる。
「事情がお在りだというのはすぐにわかりました。それは……裸を見られてしまったときは恥ずかしくて思わず悲鳴を上げてしまいましたけど、雅人さんが理由もなく他人の嫌がることをする人だとは思っていませんでしたから」
「雪姫さん……」
「ですからもちろん、私は怒ってなんていませんし、雅人さんを嫌がったりなんてしません。こうして丁寧に謝っていただけたので、私は貴方を許します」
そう言って笑みを浮かべる雪姫さんは、先程までよりも少し近くに寄っていて、僕はその笑顔をとても美しいと思った。
「雪姫さん、ありがとう。信じていてもらえて、とっても嬉しいよ」
彼女の厚意に少しでも報いたくて、僕は笑顔を返す。やっぱり笑顔には笑顔を返すのが正解だと思うから。
「あ、でも……」
がしかし、雪姫さんはすぐに顔を引いてしまうと、僅かに目を伏せて頬を赤く染めた。
その表情の意図するところが読めず、僕は彼女を見つめる。そして、直後に雪姫さんの口から漏れた一言で、僕も彼女と同じく顔を赤くすることになった。
「お風呂場で見たことに関しては……忘れてくださいね?」
今後は不定期での更新をしてまいります。
ぶっちゃけると、じっくり腰を据えて書きたいものがあるので、そちらを優先するということですね。
では、今後ともよろしくお願いいたします。




