15章 鈍感って……「反応が鈍いこと」を指しているんじゃないの?
勉強会・午後の部は午前中とは打って変わって、平穏な運びとなった。
みんな必要以上のお喋りをすることもなく、それぞれ勉強を進めていく。
僕は午後一番に世界史の勉強をして、それから化学、物理と進めていった。
世界史は先生が随分気合を入れているようだったし、化学も物理も日々コツコツと理解を深めていくのが大事だからね。
そんななか雪姫さんがその一言を発したのは、時刻が夕方六時くらいになった頃、僕が夕食の下ごしらえのために席を立った時だった。
「はあー…。雅人さん、やっぱりすごいですね…」
しみじみと放たれた一言に、何人かが興味を惹かれて視線を向ける。
僕は片足を段差の下に下ろした姿勢で振り返って止まった。
「どうしたの?いきなりそんなこと言って」
琴音が走らせていたペンを止めて、雪姫さんに訊ねている。
雪姫さんは机に少し身を乗り出して、僅かに琴音へ顔を寄せた。
「だって雅人さん、ほんの一時間程度で物理と化学の範囲を網羅してしまったんですよ?私が隣で未だ世界史の勉強をしている間に、です」
それを聞いた琴音は僕の方をちらっと一瞥すると、苦笑いを浮かべて雪姫さんに向き直った。
「二条さん、この男に常識は通用しないから、あまり気にしない方がいいわよ」
「随分酷い言われようだね…」
「そうですか。勉強以外でもそうなんですか?」
思わず零した反応は鮮やかに流されて、二人の会話は続く。
「ええ。二条さんも既に判っていると思うけど、あれの鈍さは筋金入りよ。こうして目の前でそう言っても解らない程に」
「な、なるほど…」
そう言うと、二人してじーっと目を向けてきた。
あんまりの言われように、僕は少し反抗してみたくなる。
「失礼だな。これでも反応は良い方だって、褒められたこともあるんだよ?」
それは大佐に言われた言葉なのだけど、ここで大佐の名前を出すわけにもいかないので、その辺はぼかしておく。
と、何故か琴音と雪姫さんのみならず、凛や仁がため息を吐いた。
特に仁の方は、これでもかというくらいにあからさまなため息だ。
「えっと……何か違ったかな…?」
久藤さんまでもが苦笑いという思わしくない反応に、僕はあれっと首をひねる。
てっきり反射神経が鈍いのだと言われたと思ったんだけど…。
みんなのこの反応を見る限り勘違いだったのかな……?
「……とまあこのように、そいつは少々残念な部分がある」
仁が心底呆れたような口調で、僕のことを顎で示しながら雪姫さんにそう言った。
「そうですね…。雅人さんは少し常識離れしているようですね…」
苦笑いで肯定する雪姫さん。
「これを“少し”で済ませられる雪姫はよっぽど寛容なのね」
凛が眉間を抑えながら首を振る。
「私ですら雅人は“相当”常識はずれだと思うわよ…?」
向かいでは琴音が両肘をたてて呆れ顔。
「うふふ……やっぱり雅人君は面白くて目が離せないわね」
琴音の隣では久藤さんが眼鏡を光らせて何故か不吉に聞こえる言葉を放ち、
「あっははは!」
「ふふふ」
竹内さんと笘篠さんは散々笑い続けた。
「……えーと、何のことを言われているのかさっぱり解らないんだけど…。この場合、僕は怒るべきなのかな?」
何が常識外れだと言われているのかよく解っていないけど、決していい意味での常識はずれではないことくらいは理解できる。
僕は下ろした片足を戻して、長机に戻ろうと体を反転させたのだけど…。
「あー雅人、夕ご飯の準備するんでしょ?私も手伝うから早いとこやっちゃいましょ」
機先を制して駆け寄ってきた琴音に肩を掴まれ、問答無用で和室から降りさせられてしまった。
そのままキッチンまで背中を押される。
何だかはぐらかされた感が否めないのだけど、そろそろ夕食の支度を始めないと遅くなってしまうのも事実だ。
僕は仕方なく、冷蔵庫から食材を取り出して下処理を開始する。
ニンニクの皮を剥いているとき、ちらっと和室に目を向けると、雪姫さんが苦笑いで僅かに一礼したのが見えた。
表情と動作から、先程の一幕の謝罪だろうなというのはすぐに解ったので、僕は笑いかけることで応えておいた。
さっきの話で何を言われていたのかは解らなかったけど、琴音がそれ以上聞かれないようにしたり、雪姫さんが密かに謝るくらいだから、きっと触れて欲しくないことなんだろうな。
僕は隣で手伝ってくれる琴音と一緒に、みんなの分の夕食作りに専念することにした。
「それでは雅人さん、今日は長い時間ありがとうございました」
僕の家の玄関を出たところで、雪姫さんが深々と一礼する。
「ううん。僕もなんだか楽しかったよ」
僕も家族が揃って日本にいない今、広すぎる一軒家に活気が溢れていたのを見ることができたのはとても嬉しかった。
「雅人くん、一応今日は勉強会だったのだけど…。楽しかったばかりではないわよね?」
しかし、久藤さんが釘を刺すかのように言い含めてくるのを聞いて、僕の笑いは苦笑いへ変わった。
「無駄よ、久藤さん。雅人にとっては勉強も娯楽の一つだもの」
諦めて諭すような口調で、琴音が久藤さんの肩に手を添える。
「本当に…。あんな頭痛を誘発するような難問の繰り返しなのに、雅人は嬉々として解いていくんだもの…。改めてあなたの精神が正常か疑わしくなったわ」
凛も恨みがましそうな眼で、大概な台詞を呟いてくる。
「いやいや、だって自力で問題が解けたら嬉しいじゃないか」
「そんな風に思える人間は稀少だというのを、お前は知らんからそんな事が言えるんだよ」
苦笑いのまま普段感じる感想を述べた僕へ、仁が呆れ口調で告げる。
「まあ…確かに難しい問題を自力で解けたら嬉しいけど……」
「あんなに終始微笑みを浮かべながら進められるほどではないですよね」
琴音と雪姫さんが顔を見合わせて頷きあう。
どうやら二人は、こと勉強に関しては通じ合うものがあるようだ。
「………」
琴音がノートに向かっている間ずっと笑みを浮かべている姿を想像して、それがすごく異常な光景であるのがわかった僕は閉口せざるを得ない。
「でも来てよかったよ。雅人君や柊会長に勉強教えてもらって、すごく理解が深まったし」
「そうそう。お昼も夜も、ご飯すごく美味しかったしね」
笘篠さん、竹内さんが、沈黙しそうな場を盛り上げるように笑顔で言ってくれた。
「そうね。やっぱり雅人君の家を推して正解だったわ」
久藤さんもニヤッと笑みを浮かべて、首謀者としての読みが当たっていたことを誇っている。
「確かに、今日はここ最近で一番美味しい料理をご馳走になったわ」
凛もようやく表情を笑みに変え、眼を閉じて呟いた。
「そうだな。お前の絶品中華を食べられただけでも、来た甲斐があったというものだ」
仁も場の流れに乗るように、ふっと微笑んで夕餉の感想を述べる。
夕食は琴音たっての希望で中華にしたんだ。
人数分の炒飯と餃子。
麻婆豆腐に中華風サラダ。
そして青椒肉絲を作った。
そう。
あのピーマンをふんだんに使った青椒肉絲を作ったんだ。
雪姫さんがピーマン嫌いなこと、琴音がこれでピーマン嫌いを克服したことを知っていたから。
「青椒肉絲もとても美味しかったです」
雪姫さんは笑顔で僕にそう言ってくれる。
彼女は言葉の通り、昔の琴音程ではなかったけど、青椒肉絲をちゃんと食べてくれた。
そして少なくとも、嫌そうな顔が表に出ることはなかった。
「どうかな…?琴音は昔、あれでピーマン嫌いを克服したんだけど…」
「ちょっと雅人!それは言わない約束でしょ!?」
僕が偶然ついうっかり誤って口を滑らせてしまった言葉に、琴音が噛みついてくる。
顔を赤くして、本当に恥ずかしそうだ。
「そうだったんですか。それでわざわざ……」
そんな琴音を見て、雪姫さんは「ふふ」っと笑うと、穏やかな表情で少し首を傾けた。
「ありがとうございます、雅人さん、琴音さん。今すぐにはどうかわかりませんが、苦手なものも美味しく食べられるように工夫するのが大事なのだとわかりました」
そう言う雪姫さんの顔を、僕と琴音は微笑んで見つめる。
「これからは自分でも頑張ってみます。なので雅人さん、今度あの青椒肉絲の作り方、教えてくださいね?」
当然、NOとは言わない。
というか雪姫さんにお願いされて、言えるわけがない。
「うん、もちろんだよ」
僕がそう答えると、雪姫さんは「ありがとうございます」と、また一礼を重ねた。
「よかったわね、二条さん」
琴音が彼女に横に寄って呟く。
「はい!」
それは恐らく、複数の意味を持った「よかったわね」であり、「はい!」なのだろう。
玄関先の石畳と、芝生に置かれたいくつもの大きな飛び石の上に立つ友人たちは、今日の終わりにみんな一様に笑顔を湛えていた。
こうして、朝に集まった8人の学生たちはおよそ10時間の自己研鑚を終えて帰路につく。
その間の問題との格闘ぶりはやはり大変なものだったけど、それ以上に、みんなで集まって、お喋りして、教え合って、一緒に食事を摂ったあの時間。
それは何よりも楽しい時間だったことは間違いないと思う。
(やっぱり、一人でやるよりもみんなで一緒にやる方が、何事も楽しくなるんだな…)
17歳の冬のある日。
そんな誰もが知っているようなことを再確認した一日だった。




