8章 もたらされた情報
『皆、ご苦労。作戦は恙なく完了した』
モニターの向こうから、隊長が真剣な表情で労ってくる。
普段おちゃらけているあの母も、さすがに作戦のときは真面目に臨んでいるのか、制服に身を包み、雰囲気もしゃんとしている。
私は母がまともな態度でいることに、密かに安堵していた。
あの不気味な男が文字通り消えた後。
私たちは駆けつけた部隊の応援と部下に後処理を任せ、護衛対象の男と共に防衛省の建物の一室へ移動した。
案内の役人に通されたのは会議室のような部屋で、その部屋の正面には大きなモニターが設置されており、隊長が映された映像の向こうで待っていた。
隊長は室内に入った私たちに着席を促し、全員が席に着いたのを確認すると、真っ先に全員を労う声をかけたのだった。
隊長の滅多に見られないしっかりとした態度の後、私は横に座る雅人にちらっと目を向ける。
あの男との邂逅以来、雅人は全く口を開いていない。
あの時の雅人の激昂ぶりは、普段の彼からは想像ができないほど激しいものだった。
男の方も、雅人と過去に何かあったということを匂わせていたし、それは雅人と、あの謎めいた男との因縁が相当根深いものであることを窺わせている。
それがわかってしまう隊員達も、雅人のあの尋常じゃない剣幕を目の当たりにした所為か、何かにじっと耐えるかのように苦痛の表情を浮かべる彼に声をかけられなくなっていた。
こうして隣にいる私も、彼の痛々しい表情を見ると、なんと声をかけてあげたらいいのかわからない。
誰しも触れて欲しくない過去というものはあるのだ。
非公開戦闘組織の隊員という特性上、それは皆重々解っている。
だからこそ、自らは口を閉ざしている雅人に、あの男との関係を問うなどと、簡単にはできない。
『それで、君は我々にどんな情報を提供してくれると言うのかな?』
隊長の発した言葉に、ふと我に返る。
視線をモニターに映る母の方へ戻し、この場にいる目的を思い出す。
そう。
これから件の敵組織の元研究者だという男から、情報を得ようとしていた。
そもそも護衛を引き受けたのも、その情報を得るためだったのだから。
しかし、男はきょとんとした顔で反応を示さない。
まるでこちらの意図が伝わっていないようだ。
「ああ、そいつは日本語話せないらしい」
大佐が肩をすくめて言った。
そこには、ここまで短い時間ながらも移送する間の苦労が見て取れた。
「どうするんですか?これじゃあ話になりませんよ」
那智さんが冗談っぽく口にする。
どうしたものかと、全員が頭を抱えた。
その沈黙が功を奏したのか、男は自ら口を開いた。
「Mein Name ist Richard Shneider」
自己紹介だろうか。
なんとなくは掴めるけど…。
「凛、お前わからないか?」
政宗少佐が私に問いかける。
私がずっとアメリカにいて英語を話せるから、もしかしたらと思ったのだろう。
「今のくらいならなんとなく掴めるのだけど、英語ではないから……」
でも、私はそう言って苦笑いを浮かべる。
情報は正しく伝わらないといけない。
下手に私が手を出して、事実を誤認してしまうのは危険なことだ。
「そうか…」
政宗少佐は軽くため息を吐いて、腕を組んでしまう。
他の皆も同じような状態だ。
「今のはドイツ語です。この方はリヒャルト・シュナイダーという名前だと言っています」
突然、隣から声が上がった。
私たちは全員がそちらへ目を向ける。
私の隣では、雅人が未だ蒼白な顔色ながら、真剣な表情を取り戻していた。
「雅人…あなた……」
思わず声が漏れる。
雅人はそんな私に軽く微笑んでみせると、男の方へ目を向けた。
「Mein Name ist Masato Aoi.Würden Sie es als das sagen, was Sie vom "Schatten" wissen?」
彼の口から、流暢な異国語が発せられる。
「お前、ドイツ語まで話せるのか…?」
政宗少佐が呆れたように彼を見つめる。
雅人は軽く苦笑いをして応えた。
母国語で応えられた男、シュナイダーは、それから雅人の翻訳という力を借りて、私たちの求める“情報”を語り始めた。
私たちが“影”と呼ぶ存在は、ある男によって、対となるもう一つの世界から呼び寄せられた存在らしい。
十年前の六月、当時16才の少年が方法は解らないが、裏の世界との交信に成功した。
彼はこれまで絶対に干渉できなかったもう一つの世界に接触し、その世界の住人と対話を試みた。
結果は失敗。
そもそももう一つの世界の住人は、「個であり全でもあり」という人間には理解しがたい在り方をしているそうだ。
だからこちらからコミュニケーションを図っても、向こう側が「全の意」で拒否してくる。
だからこちらからの働き掛けは通じなかったそうだ。
そこで少年は考えた。
どうすれば彼らと交信できるのか。
どうすれば自分の言葉を聞いてもらえるのか。
そうして思い至った結論が、“彼らの方から語らせる”ことだった。
それから少年は一か月間繋がりを維持し続け、向こうから話しかけてくるのを待ち続けたそうだ。
やがていつまでもひたむきに待ち続ける彼に興味を示した存在が、「個の意」でもって彼に語りかけてきた。
それから少年がその存在とどんなやり取りをしたのかはわからない。
しかし以後、少年が「印」をつけ、繋がりを一方的に開かせた人間には、“影”の声が聴こえるようになったのだという。
そして少年は仲間を集め、次第に勢力を拡大。
彼を中心とした組織となっていった。
「その組織こそが、僕たちが先程交戦した「人影(Figure)」だそうです」
雅人の翻訳で、話の結びが語られる。
人影。人と影。
先刻の戦闘で相対した敵の組織。
その構成を如実に表した名前だ。
『雅人、「人影」の目的はなんだ?』
隊長がモニター越しに雅人に訊ねる。
表情は冷静そのもので、変わる気配はない。
「少々お待ちください。Was ist der Zweck Ihrer Organisation?」
一度断ってから、雅人はシュナイダー氏に目を向ける。
問いかけられた男は、雅人の発した質問にあっさりと答えた。
「Es ist Vereinigung von Leuten und einem Schatten. Aber, wird es selten als wichtig gedacht. Fast alle Menschen bitten nur um vorübergehendes Vergnügen」
相変わらず、私には彼が何を言っているのか解らない。
しかし、雅人だけは真剣に耳を傾け、時折相槌を打っている。
少し前までの悲壮な気配は薄れていた。
それはもしかすれば雅人自身が、何かに真剣になることで考えないようにしようと思ってのことなのかもしれない。
雅人は男が口を閉じるのを待って、隊長の方へ振り返ると、男の言ったことを訳しはじめた。
「目的は“人と影の融合”だそうです。しかし、ほとんどの組織の構成員はそのことに拘っているわけでもなく、ただ自分たちの刹那的な快楽を叶えているだけのようですね」
「Nur der Chef, der dabei erschien, ist das Ende anders」
雅人が言い終えると、男は続けて何かを言った。
雅人が振り返る。
その瞬間、彼は顔を顰めていた。
『彼はなんと?』
隊長が男の言った言葉が何であるかを訊ねる。
雅人は口をきつく結んで僅かに俯いた後、しばしの間を置いて訳した。
「先程逃がしたボスだけは、本気で目的を果たすつもりのようだ、と」
『そうか』
それきり、雅人はまた俯いたままになってしまった。
私は彼の辛そうな表情に胸が苦しくなった。
でも、彼の苦しみの原因を知らない私には、何も言ってあげることができない。
『重要な情報が手に入った。つまり向こうも、簡単に“影”と接触できるわけではないということだ。そのボスの地位にいる男以外はな』
隊長が総括して、締めくくる。
そして、この日はお開きになる。そんな雰囲気だったが…。
「雅人、お前、あの男と何があった?」
大佐の一言で、全員が息を呑んだ。
雅人も一瞬震える。
言葉の解らないシュナイダー氏以外の全員が疑問に持ち、それでいて彼の悲痛な表情から訊くのを躊躇っていたこと。
あの男と雅人の因縁。
「人影」のボスと、一高校生の関係。
それを大佐は問いかけたのだ。
全員が固唾をのんで雅人を見つめる。
彼は俯いたまま、その表情を窺い知ることはできない。
「今日はこの辺で止めておきましょう?雅人君も疲れてるみたいだし…」
那智さんが気を利かせて撤収を促す。
しかし、大佐は雅人を見つめたまま動こうとしない。
オロオロしだす那智さんを、政宗少佐が落ち着かせる。
そして会議室はまた、静寂に包まれた。
「雅人…」
私は無意識のうちに呟いて、彼に手を伸ばす。
しかし、それは新たに現れた存在によって、遮られた。
突如、雅人のすぐ側に現れた漆黒のドレスを纏う女性は、私の伸ばした手を軽く掴むと、首を振ってひっこめさせた。
「ルーナ…ごめん……」
雅人の口から、弱々しい声が漏れる。
両手を膝に置いて、俯いたまま顔を上げない雅人の頭を、彼女は優しく撫でる
『いいのよ…。私が話すわ…』
雅人の契約主。
裏の、影の世界の女王。
若く、妖艶な姿をした美女。
ルーナ・ラプリネが、雅人の悲壮な過去を語り始めた。




