5章 ハイスペック高校生のある日
十一月の最終週。
僕はこの一週間、多忙を極めていた。
朝はいつもの弁当の他に学園祭のお店で出す料理の試作。
授業は試験も近いので三割増しくらい集中して受け、
昼休みには、昼食もそこそこに生協の商店で食材の買いだし。
午後の授業を真面目に受けた後、
放課後は雪姫さんと料理の試作。
それから夕方まで、久藤さんも交えた三人で値段の設定。
日が暮れてから帰路に着き、
駅前のスーパーで夕食の買い物を済ませ、
家に帰ると遅めの夕食。
それから軽く掃除をして、
お風呂に入って汗を流し、
コーヒーを淹れて試験の勉強。
勉強の後はルーナと他愛のないおしゃべりをして、
家のトレーニングルームで日々の鍛練。
柔軟体操をして筋肉をほぐしたら、
軽くシャワーを浴びて汗を流し、
歯を磨いてベッドに入る。
毎朝五時に起きて、寝るのは零時三十分頃という、あまりにハードなスケジュールをこなし、大変な毎日を送っていた。
でも、どれかを省いてしまうわけにはいかない。
学園祭の仕事は、大事な役割を任されたこともあるし、何より楽しいと思っている。
勉強も毎日継続していかなければ、すぐに解らない箇所が出てきてしまう。
トレーニングも同じで、体は使わなければ衰えてしまうのは道理だ。
だから僕はどれに対しても全力で取り組み、充実した日々を過ごしていた。
……充実し過ぎな気もしないではないけど。
そして金曜日。
「じゃあ、オムライスは五百円ということでいいかしら?」
「そうだね。それなら上手く採算がとれると思うよ」
「お客様にも、お手頃な感覚を持ってもらえそうですしね」
この日、久藤さん、雪姫さん、そして僕の三人は、学園祭に向けた準備の進む教室の隅で、メニュー決めの最終段階、商品価格の調整を行っていた。
「ではオムライスの値段は五百円に決定ということで…。これでメニューは完成ね。二人とも本当にお疲れ様」
久藤さんが微笑んで僕たち二人を労ってくれる。
「ありがとう。でもまだまだ終わりじゃないよね」
「はい。これから本格的に、皆さんに作り方をお教えしなければなりませんから」
でも、僕も雪姫さんもまだ終わったとは微塵も考えていなかった。
寧ろこれからが大変だ。
料理に慣れていないクラスメイト達に、お金を取れるほどの腕になってもらわなければならないのだから。
そんな風に意気込む僕たち二人に、久藤さんは穏やかな言葉で返した。
「そうね。みんなは二人ほど料理が上手じゃないから練習は必要でしょう。でも取り敢えず、二人のお仕事の第一段階は終了よ」
そう言った久藤さんは手元の時計で時刻を確認する。
僕もちらっと教室の壁に掛けられた時計に目を向けた。
時計は十八時三十分を示している。
下校時刻は十九時なので、もうあまり時間は残っていない。
久藤さんは一つ息を吐いて頷くと、おもむろに立ち上がった。
そのまま教室の前、教壇の方へ歩いていく。
学園祭に向けて、衣装やポスターなどを作成していたクラスメイト達が、教壇に立った久藤さんに目を向ける。
何も声をかけていないのに、前に立つだけで全員の集中を集められるなんて、すごい人だな。
「みんな、今日も遅くまでお疲れ様。ちょっと手を止めて聞いてくれるかしら」
すでに静かになっていたクラスに声をかける久藤さん。
もちろん、反抗するような人はいない。
「みんなそれぞれ持ち回りの仕事を進めてくれていると思います。お蔭で作業はスケジュール通りに進行しているわ。どうもありがとう」
自然と拍手が拡がる。
皆彼女の指導力には信頼を寄せているんだ。
「さて、みんなも知っての通り、来週からは試験前週間になります。そこで、ここまでは準備が順調に進んでいるので、来週一週間は作業を一旦中止にします」
「ええっ!?」
「本当に?」
「間に合うのかよ?」
口々に驚きと疑問の声が上がる。
僕も驚いていた。
スケジュールが順調とはいえ、試験が終わるのを待っていたら、準備に使える時間はあと一週間しか残らない。
それではやはり時間的に厳しいのではと思ったんだ。
だけど、久藤さんはそんなクラスの疑問に、不敵に笑って答えた。
「大丈夫。秘策を考えてあるわ。だからみんな、来週は試験に備えてしっかり勉強してください」
秘策。
その言葉に教室に残っていた全員が息を呑む。
ここまで周到にスケジュールを組み、すべての作業の統括を一人で担ってきた久藤さんが言う“秘策”とはいったいなんなのだろうか…。
彼女の事だから、少なくとも根性論のような根拠のないものでないことは確かだろう。
さらにその秘策が、すでに関係者を説き伏せ、万全を期したものであることは予想できる。
この数日間で、久藤さんという人の段取りの良さは何度も目にしてきたから。
「それじゃあ、今日はもう解散にしましょうか」
久藤さんが一度手を叩いてクラスの皆に解散を促す。
それを聞いたクラスメイト達は、各々自分の行っていた作業の片づけを始めた。
皆も、久藤さんの言う“秘策”に期待を寄せているらしい。
「秘策…。どんなものか想像がつきませんね…」
僕の隣の席に座っていた雪姫さんは、大きく息を吐いてそう言った。
「うん。久藤さんの考えることだから、なんだかすごそうだなって思うよ」
僕は教壇でクラスを見渡している指揮官を見つめながら答える。
雪姫さんはちらっと僕の方へ振り向くと、目を細めた。
「ふふ、そうですね」
「まあ、心なしか嫌な予感もするんだけどね…」
僕はそんな彼女に顔を向けて苦笑いを浮かべる。
僕の一言に、雪姫さんは声を漏らして笑った。
僕も一緒になってくすくすと笑う。
「何をそんなに笑っているの?」
二人で揃って笑っていると、さすがに不審に思ったのか、凛が側まで近づいてきた。
「いや、なんでもないよ。ちょっとね…」
僕は凛に顔を向けて返事をする。
「それより凛、もう片付けは済んだの?」
「ええ、終わったわよ」
さらっと言い放つ凛。
その左手には、一枚の用紙が大事そうに握られている。
「制服のデザインはできたのですか?」
雪姫さんが凛に訊ねる。
それに凛は頷いて返した。
ちなみに『制服』とは、学園祭で僕ら2ーAの店の店員が着用する衣装のことだ。
凛はメイド長(女性店員のリーダー)として、竹内さんが班長を務める衣装係の、お店の制服のデザイン作成を手伝っていた。
「規格は無事完成したわ。後は採寸して、個人のサイズに合わせて縫製するだけね」
「そうですか。凛さんの制服姿、とても楽しみです」
「……他人事みたいに言ってるけど、雪姫も着るのよ?」
「そ、そうでした…。あの、でも…あまり派手な格好はちょっと……」
「観念しなさい。私も着るのだから、貴女だけ逃がしたりしないわ」
凛が意地の悪いを笑みを浮かべて、雪姫さんに詰め寄っている。
雪姫さんも恐々としながらも、どこか楽しそうな様子だった。
皆の片づけもあらかた終わり、全員で揃って教室を出る。
昇降口で靴を履きかえ、流れに乗って教室棟を出たところで、後ろから声がかかった。
「雅人」
その声に後ろを振り返ると、丁度琴音が靴を履きかえて昇降口から出てくる姿が目に入る。
彼女の後ろには、女子生徒が三人と大人しそうな男子生徒が一人ついてきていた。
「琴音。生徒会も今終わったの?」
僕は体ごと振り返って、琴音が近くまで来るのを待つ。
雪姫さんも凛も、立ち止まって待ってくれる。
「ええ。生徒会の方も忙しくて…。クラスの子には少し申し訳ないかな…」
頭を撫でながら苦笑いを浮かべる琴音。
(その割にはしょっちゅう僕らのクラスに顔を出すのは気のせいかな……?)
そんな疑問が脳裏をよぎったけど、きっとそれは余計なことだと思う。
だから口には出さずにおいた。
「それでは会長、お疲れ様です」
「お疲れ様でーす!」
「お先に失礼します」
「お疲れ様です」
その間に、琴音の後ろから来ていた生徒会の面々が、琴音に挨拶して通り過ぎていく。
琴音は四人に向かって手を振ると、そのうちの一人に諭すように声をかけた。
「みんなお疲れ様。それと航君、寄り道せずに帰るのよ」
「僕は子供じゃありません!」
子ども扱いされた書記の男子生徒が顔を真っ赤にして返す。
その様子を見て微笑んだ琴音は、もう一度小さく手を振っていた。
彼も「もう」と言って前に向き直ったけど、決して嫌がっているようには見えなかった。
「じゃあ、僕たちも帰ろうか」
生徒会の四人が歩いていくのを見送った僕は、目の前の琴音と後ろの雪姫さん、凛に帰りを促す。
僕のクラスメイトも、既に正門のあたりまで行ってしまっている。
三人はそれぞれ頷いて、僕らは正門の方へ歩き出した。
正門を出て駅前に続く大通りを歩いていく。
秋から冬へと季節の変わるこの時期、街路樹はもう葉を落として、寒々しい印象を与えてくる。
体にあたる風は冷たくて、そろそろマフラーが欲しいなと感じるほどだ。
僕と琴音、雪姫さんと凛の四人は、まだまだ人が行き交う通りを和やかに話しながら進んでいく。
進捗状況や作業中にあったことなんかを、三人は楽しそうに話している。
主に琴音が質問して、雪姫さんが答えて、凛が一言つっこんで、それを三人で笑うといった流れだ。
少し後ろで三人を眺めていた僕は、自然と笑みを浮かべていたことに気が付いた。
気が付いて、また微笑ましくて笑みが続く。
自分のことながら、なにを笑っているんだと思ってしまうけど、どうしてか笑みは消えなかった。
と、不意に琴音が振り向いて声をかけてくる。
「ねえ雅人。折角久藤さんが勉強週間くれたんだから、勉強会でもしない?雅人の家で」
またなにか言いだしたよ、この子は。
「それは構わないけど、どうして僕の家なの?」
そう訊ね返すと、琴音は不思議なものを見たとでも言うような表情になる。
「広いからに決まってるじゃない。他に何があるのよ?」
まあ、そんなことだろうとは思ったよ…。
僕はあからさまにため息を吐くけど、琴音は全く気にする様子がない。
「それじゃあ決まりね。いつにしようかしら…?」
琴音は前に向き直って、顎に指を当てる。
そんな彼女の横から、援護射撃が行われた。
「それでしたら、土曜日がいいと思います。丁度明日からは土曜授業がありませんし」
雪姫さんが笑顔で琴音に進言する。
琴音はそうねー、と少し考えるそぶりを見せたけど、すぐにニヤッと笑って頭だけ振り返る。
「じゃあ二条さんの言う通り、土曜日にするわよ。早速明日から…」
「ごめんなさい。明日は駄目よ」
琴音が言いきる前に、凛が口を挟んだ。
「そうなの?それじゃあ私と二条さんと雅人の三人で…」
「ごめん、琴音。僕も明日は駄目なんだ」
再び、今度は僕が琴音の言葉を遮る。
立ち止まった琴音は訝しげな表情になって、僕を睨んでくる。
「二人ともに用事があるだなんて、どういうことかしら?」
その視線は鋭く、僕は全く後ろめたいこともないはずなのに冷や汗をかいてしまった。
そこへ、琴音の後ろから冷静な声がかけられる。
「琴音。私も雅人も、明日は仕事なのよ」
すると、先程までの威圧感は一瞬で霧散し、琴音は寧ろ心配そうな表情になった。
「……そういうことね。わかった」
しかし、文句や引き留めるような言葉を言うことはなく、静かに引き下がる。
唇をかみしめ、必死で出かかる言葉を我慢しているようだ。
「…来週の十二月七日なら大丈夫だから、勉強会はそこで、ね?」
僕は努めて穏やかにそう言い、俯く琴音の肩に手を置いた。
「……うん」
しばしの間の後、ようやく頷いた琴音の肩から手を放す。
「雅人さん、凛さん…」
今度は凛の隣から声がかかった。
雪姫さんは不安そうな表情で僕らを見つめ、それから一つ息を吐くと微笑んだ。
「お仕事、頑張ってくださいね」
気丈にそう言ってくれる彼女の笑みに、僕と凛は深く頷く。
「無事に帰ってきて…」
琴音の言葉にも頷いておく。
その双眸が潤んでいたのは、見なかったことにした。
それから僕たち四人は、ほとんど話すことなく家路に着いた。
別れ際、凛とは目で頷きあって、雪姫さんには笑顔を向けて、琴音はその頭を撫でておいた。
いつもよりも早めに横になった僕は、心内で明日の無傷での任務達成を誓った。




