22章 琴音の想い
帰り道、私たちは色々なことを話した。
秋鷹高校での生活。
二条さんと弓月さんの前の学校のこと。
そして雅人の話。
特に、雅人の気に食わないところを弓月さんと二人で列挙していったときはとても盛り上がった。
二条さんは聞いているだけだったけど、それでも笑顔だった。
当の雅人は、私たちの少し後ろで苦笑いを浮かべていたけど。
それから駅の前で、二条さんと弓月さんの二人と別れることになった。
彼女たちは、私たちと駅を挟んで反対の方向に住んでいるらしい。
二人は私たちに別れの挨拶をすると、楽しそうに会話をしながら歩いていった。
「いい子たちね」
私は隣で彼女たちを見送る雅人に言葉をかける。
「うん」
雅人はすぐに返事を返してくる。
彼は穏やかな笑顔を浮かべていた。
その顔を見ていたら、少しからかってみたくなる。
「本当に。雅人には勿体ないくらい」
「あはは……」
私の皮肉に苦笑いを浮かべる雅人を見て、少し調子を取り戻した。
でも…。
やっぱり私は雅人の隣に立つ資格がない…。
二条さんのように雅人を笑顔にしてあげることも、弓月さんのように一緒に危険に立ち向かうこともできない私が、彼の隣を占有するのは許されない…。
「琴音…?」
いつの間にか俯いてしまっていた私に、雅人が声をかけてくる。
ハッとして顔を上げると、彼は心配そうな表情で私を覗き見ていた。
「どうかした?」
「う、ううん。なんでもない…」
「そう?」
いまいち気持ちの乗らない返事を返してしまい、また後悔する。
雅人はそんな私をじっと見つめていたと思うと、後ろを向いて顔だけ振り返り、私に笑顔を向けた。
「琴音。ちょっと買い物していっていいかな?」
「ええ、いいけど…」
どうしてわざわざ訊いてきたのかはわからないけど、拒否する理由もない。
私は頷いて彼の後ろに付いて歩いた。
駅前のスーパーに到着する。
雅人がよく利用する大きめのスーパーだ。
大手コンビニ会社と一緒になってからは、独自ブランドの商品を前面に出して少し業績が上向いてきていると言われている。
大型店の不振が続く中で粘りを見せているグループの一つだ。
「何を買うの?」
気になった私は、前を歩く雅人に訊ねてみた。
彼は足を止めて振り返って微笑む。
「今晩のおかずの食材だよ」
「ああ、なるほど…」
いつもの買い物か。
雅人は料理が好きだもんね。
そういえば、しばらく雅人の作ったご飯を食べてない気がする。
そんなことをボーっと考えていると、いつの間にか雅人が目の前に来ていた。
「ほら、行こう」
「ひぇ…!?」
雅人は顔に笑みを浮かべたまま、突然私の手を取った。
驚いた私は思わず変な声を上げてしまった。
しかし、雅人はそんな私を気にも留めず、私の手を引いて歩き出す。
慌てて付いていく。
そして、私はそのまま雅人に連れられて店に入った。
ドンドン歩く雅人に引っ張られて、私たちは店内を歩いていく。
ようやく雅人が私の手を放したのは、生鮮食品売り場だった。
そこで彼はずらっと並んだ食材を眺めている。
私は、何故か買い物かごを持たされて彼の横に立っていた。
「ねえ……雅人?」
「うーん……今日は豚がちょっと高めだな……」
呼びかけても返事をしない。
というか聴こえていないのだろう。
雅人は何かに熱中すると周囲の音をシャットアウトする癖があるのだ。
私は真剣に商品を眺めている彼の横顔を見て、少し笑みがこぼれた。
「何がいいかな……。ねえ、琴音は何か食べたいものある?」
顔は目の前の商品に向けたまま、雅人が私に訊ねてきた。
「私に訊いてどうするのよ」
雅人の夕食なのに、私の食べたいものを訊いて何の意味があるのか。
可笑しくて思わず笑ってしまう。
すると雅人はやっと顔を上げて、私の方に振り向いた。
「いや、これから琴音に暇があるなら夕食をご馳走しようかと思ってね」
「えっ?」
「色々心配かけちゃったみたいだし、最近ゆっくり琴音と話すこともできなかったからね。もちろん、琴音さえよければだけど」
穏やかに笑顔を浮かべながらそう言う雅人。
一方私は、彼の言った言葉の意味を飲み込むのにたっぷり5秒ほどかかってしまった。
5秒後。
私の顔はまるで火がついたかのように急激に熱くなっていく。
鼓動も全力疾走した直後みたいに速くなり、頭の中が真っ白になる。
「わわ、わたしが雅人の家で食事!?」
「……なんでそんなに驚いてるのさ…?」
私の焦りまくった態度に、雅人は若干引き気味だ。
「でもでも……それじゃあ雅人に悪いし……」
「中学時代、三日に一度はうちで食べてたじゃないか」
「あのときはまだ……」
以前、雅人に頼りきりだった頃のことを思い出して恥ずかしくなる。
私の両親は仕事で家を留守にすることが多い。
だから中学生のときは、よく雅人の家で一緒に夕食を食べさせてもらっていたのだ。
今思えばなんと厚かましい態度だろうか。
雅人は穏やかに笑って続けた。
「まあまあ。それで、今日ご両親は?」
「……仕事でいないけど……」
「そっか。ならうちにおいでよ」
無垢な笑顔で誘ってくる雅人。
そんな可愛いとさえ思えるほどの笑顔で言われて、断れる娘がいるだろうか。
「……それじゃあ、ご馳走になろうかな。久しぶりに…」
「うん、任せて」
……私には断れない。
恥ずかしさを紛らわすために、少し俯きながら雅人の笑顔を見つめる。
未だ顔は火がでているかのように熱かったけど、変な緊張はもう無くなっていた。
その後。
買い物を終えた私たちは、一度私の家に寄ってから雅人の家に入った。
帰り着くなり、雅人は早速夕食の準備に取り掛かる。
制服の上着をハンガーに掛け、ワイシャツの袖をまくる雅人の姿は、以前見た同じ仕草の彼よりもずっと大人びて見えた。
「私も手伝う」
前みたいに任せっきりにしたくはないので、自分からきりだす。
雅人は快く承諾してくれた。
「じゃあお願いしようかな。筍とピーマンを切っておいてくれる?」
「わかったわ」
私も少し袖を上げて、調理場に立った。
これが知らない家の台所であれば、包丁やお皿がどこにあるのかわからないだろう。
でもそこは勝手知ったる雅人の家の台所。
包丁やお皿を始め、調味料の保管場所まで知っている。
私はまな板や包丁を取り出して買ってきた野菜を軽く水洗いすると、早速言われたとおりに食材を切っていった。
そんな私の様子を、牛肉に下味をつけている雅人が窺っている。
私が淀みなく刃を入れているのをじっと見ていた雅人は、ふっと笑顔になった。
「包丁使い、上手くなったね」
「高校に入学してからは自分でも料理をするようにしてきたから」
私は手元から視線を外すことなく答えた。
雅人は依然、片栗粉を絡めた牛肉を袋の中で揉んでいる。
下味をしっかりとつけることでさらに美味しくなることは、私も既に心得ているつもりだ。
「そっか…。僕もせめて料理だけは琴音に抜かれないように頑張らないとね」
私が野菜を切り終えた頃に、雅人はそう呟いた。
言葉とは裏腹に穏やかな口調は変わらない。
そんな雅人の言葉を聞いていると、皮肉の一つでも言ってやりたくなる。
「抜かれるかもなんて思ってもいないくせに」
「そんなことはないよ。琴音は真面目でセンスが良いから、すぐにもっと上手くなれるよ」
よく言うわ。
私が野菜を切っている間に自分はもうお肉の下処理を終えて、必要な調味料を近くに揃えて、おまけにもう中華鍋を火にかけ始めているというのに。
「つくづく要領がいいんだから…。情けなくなってくるわ」
「あはは……。慣れの問題じゃないかな…?」
雅人は苦笑いをこぼしながら、温めた鍋に油をひき、牛肉を炒め始めた。
40分後。
「それじゃあ食べようか」
「ええ。いただきます」
「いただきます」
『いただきます』
私たちは食事の前の挨拶をしっかり行ってから、食卓に並んだ料理にお箸を伸ばす。
といっても、おかずは一種類しかないから私たちがお箸を伸ばす先は同じなのだけど。
……ていうか。
「ルーナ…?いつの間に出てきたの?」
『あら、いけなかったかしら?私も雅人の料理は食べたいもの』
いつものすまし顔でちゃっかり食事の席に同席していたルーナは、悪びれる様子もなくそう返してきた。
「あなたが出てくるのはわかってはいたけど、それならどうして手伝わないのよ?」
『私は料理はできないもの』
「………」
胸を張って言うな!
そんな風につっこみたくなるところだが、我慢する。
なんとなく、彼女が出てこなかった別の理由もわかっているから。
雅人は一人苦笑いを浮かべて私たちの言い合いを見守っていたが、それが一段落すると場を収めるために、おかずにお箸を伸ばす私に声をかけてきた。
「琴音。一品だけで物足りなくない?」
「ううん、大丈夫よ。久しぶりに雅人の作る〝青椒肉絲〟を食べたかったから」
「そっか。そういえばこれは琴音のお気に入りだったもんね」
「うん。とっても美味しいわ」
今日私が雅人にリクエストしたのは、牛肉で作る青椒肉絲だ。
中学時代、月に2回はこれを雅人に作ってもらっていた私のお気に入りの一品。
ジューシーな牛肉にはしっかりと味が染みこんでいて、ピーマンも筍も歯触りがとてもいい。
時折顔を出す山椒の味が絶妙なスパイスになっていて、これだけでご飯をいくらでも食べられる気がする。
付け合せの中華風タマゴスープもあっさりとした味わいで癖になる。
「懐かしいな。琴音ってば最初は『ピーマンは嫌い!』って言って嫌がったのに、一回作ったらはまっちゃったんだよね。それ以来何度作ったことか…」
雅人がそんな暴露話を始める。
「ちょっと雅人!?」
『これだけ美味しければそうなるかもしれないわね。子供は単純だから』
ルーナはそれを聞いてちらっと私を見ると、面白いことを聞いたというように微笑んでフォローしてきた。
「もう、小学生の時の話でしょ……」
私は二人にため息を吐いて見せる。
でも内心では「懐かしいな~」とか思ってしまっているのだから二人を非難できないな。
私がそんなことを考えていると、雅人は一人何か頷いていた。
それに気づいたルーナが彼の隣から声をかける。
『どうしたの、雅人?急に頷いて』
雅人はお箸を置いてその理由を語る。
「いや、琴音が子供のときにこれを食べてピーマン嫌いを克服したからさ。もしかしたら雪姫さんもそうかもなってね」
『ああ……そういうことね……』
「……どういうこと?」
ルーナは雅人の言っていることの意味が解ったようだが、私には話が見えなかった。
雅人は私がもう一度訊ね直すと、微笑んで説明し始める。
「雪姫さんもピーマン嫌いなんだよ。昔の琴音と同じようにね。だからこの青椒肉絲を作ってあげれば、彼女もピーマン嫌いが治るかなって思ってさ」
ズキンと胸が軋んだ。
雅人が笑顔で二条さんの話をしている。
その笑みを浮かべた顔を目にした瞬間、私の心に夕方の暗闇が戻ってきた。
無意識のうちに私の箸は止まり、俯いてしまう。
『琴音?』
「琴音、どうしたの?どこか具合でも悪くなった?」
私の様子がおかしいことに気が付いた二人が心配そうに声をかけてくるが、私は言葉を返すことができない。
雅人はやはり二条さんが大事なのだろうか?
それとも相棒の弓月さんか?
「琴音、大丈夫?」
雅人がもう一度声をかけてくる。
でも私は彼のそんな問いに答えることはせず、気付けば震える声で胸に渦巻く黒い感情をぶつけていた。
「雅人は……二条さんが大事なの……?」
「えっ……?」
思いがけない質問に呆気にとられる雅人。
私はそれがわかっていながら、こぼれ続ける言葉を止めることができない。
「二条さんは雅人の料理の話に付き合えるらしいもんね。やっぱり雅人も趣味の会う人と話す方が楽しいよね……?」
「琴音……?」
雅人は私の唐突な詰問に戸惑ってしまっている。
「それとも雅人は弓月さんの方がいい…?彼女とはずっと一緒に仕事してきて気が合うみたいだもんね…」
雅人からすれば、突然何を言っているのだろうと感じていると思う。
私も内心ではこんなことを言いたいとは思っていない。
でも溢れだした感情は堰を切ったように止まらなかった。
自分自身止めることができなかった。
「もしくはルーナがいいのかな…?毎日一日中一緒だから、気心が知れあってるもんね?」
『琴音……あなた……』
私の眼からはいつの間にか涙が流れ出ていた。
そんな私を、ルーナが悲しそうな表情で見つめる。
「二条さんに弓月さん……そしてルーナ……。皆素敵な人たちだもんね…。もう……私が近くにいる必要はなくなっちゃったんだよね……」
「琴音……」
冷たい水が絶えず私の頬を濡らす。
もう自分でも何が言いたいのかわからない。
雅人の側にいたいのに、必要とされる自信がない。
彼を支えてあげたいのに、求められる自信がない。
だから自棄になって彼に当たり散らしてしまうのだ。
私は雅人の側にいる資格がないという卑屈な気持ちと、それを他人にぶつけてしまう卑怯な気持ちの両方を。
我ながら嫌な女だと思う。
小さいときからずっと一緒に過ごしてきた。
でもルーナが雅人のもとにやってきて、彼の傍らに常に寄り添うのは私ではなくなった。
それでも雅人を支えようと過ごしてきた。
しかし、その役目も最早私のものではない。
彼の心の支えには二条さんが。
彼の頼る相手には弓月さんが。
私よりもずっと適格な人が現れたのだ。
私にはもう、雅人の側にいる必然性がない。
雅人に必要とされる理油がない。
だからもう……。
「うぅ……」
耐えきれなくなって泣き出してしまう。
涙は延々と流れ続けるかのように止まる気配を見せない。
そんな泣きじゃくる私を、ルーナはどうしていいかわからないといった様子で見つめていた。
ただ、雅人は驚いた表情から一転、真剣な表情に変わって口を開いた。
「琴音……。僕には琴音が何に悩んでいるのか……よくはわからないよ……」
私は涙で滲む視界のまま、雅人の顔を見る。
雅人は私と目が合うと話を続けた。
「琴音がどうして、雪姫さんや凛、ルーナのことをそんなに気にしているのかはわからない…」
「………」
「でもね。僕は琴音に傍にいて欲しいと思ってるよ」
「……えっ?」
私の反応に応えるように、雅人が微笑む。
「確かに、雪姫さんとは話が合うし守ってあげたいと思う。凛は頼りになるし、頼りにされてるのも嬉しい。ルーナは常に一緒にいる家族みたいな存在だ」
穏やかに笑みを浮かべながら語る雅人を、私はじっと見つめる。
涙はもう頬を流れてはいない。
「でも……僕が誰よりも信頼していて、誰よりも僕のことを理解してくれてるのは……」
雅人は微笑みを湛えながらも、真剣な眼差しで私を見つめる。
「琴音なんだよ」
瞬間、私は風に吹かれた。
もちろん、ここは雅人の家のダイニングで、風なんて吹くはずがないというのはわかっている。
でも確かに、私は正面から飛んできた息吹に全身をうたれたように感じた。
それはとても暖かくて、優しくて、光に満ちていた。
「琴音は僕の幼馴染だ。世界中で唯一人の、かけがえのない存在なんだ。だから離れていくなんて寂しいこと、言わないで欲しいな」
雅人は穏やかに言葉を繋いでいく。
その一語一句が、私の心にスーッと染みこんでいった。
私は雅人に必要とされている。
彼の幼馴染として…。
そして彼の一番の理解者として…。
「私は……これからもあなたの傍にいていいのね…?」
私は最後に彼に訊ねた。
「もちろん。寧ろ僕のほうからお願いするよ。これからもよろしくね」
「うん!」
頬を伝う涙は先程と打って変わって、とても温かかった。
彼の隣では、ルーナがやれやれといった風に首を振っていたが、その表情はとても優しかった。




