わたしの救急少年
「こらあっ、廊下を走るなあっ!」
ジャージ姿のいかつい男の先生が、教室の窓から身を乗り出して、こぶしをぶんぶん振り回していた。
しまった、見つかったか。
でも足を止める愚か者は、誰一人としていない。
「おねがーい、見逃してえーん!」
先生の前を通り過ぎる際に、男子生徒がひとり媚びるような返事を返す。
皆くすくす笑いながら、教科書を脇に抱え廊下を走り抜けた。
彼ら六年三組の生徒たちが次の四時間目に受ける科目は国語。
図書室で本を借りることになっていた。
しかし、図書室に行くためには、教室がある南校舎の四階から階段を下り、一階の渡り廊下を通って、北校舎の四階まで駆け上がらねばならない。
制限時間はたったの五分、短い休憩時間の間にアップダウンを繰り返すという体力勝負のミッション。
こんな事態を強いられてしまったのは、校舎の耐震補強工事が行われていて、二階から上の渡り廊下の使用が禁止されているせいだ。
そして運が悪いことに、今日は短縮授業のうえ、どしゃぶりの雨が降っている。
風にあおられて吹き込む雨のしずくによって、渡り廊下はびしょびしょに濡れて滑りやすくなっていて。
奈々は、一階の昇降口の段差で思いきりこけて、右膝をしたたかに打ってしまった。
膝は擦りむき、皮がめくれて血がにじむ。
「いったーい……」
奈々は、すぐに立ち上がることができなくて、膝を手で押さえ座り込んだ。
「だいじょうぶ、奈々ちゃん?」
廊下に散らばってしまった奈々の教科書やワークブックを、仲のよい真奈美が拾い集め彼女に手渡す。
「ありがとう」
奈々は、礼を言ってそれを受け取った。
そして、はっと気づく。
気づいた瞬間、頬がひきつってしまった。
「ひょっとして、わたし、大声で呼んじゃった?」
苦笑いを浮かべて、真奈美もこくんとうなずいた。
「うん。きっと、もうすぐ来るよ。ほら」
廊下をバタバタと走る、すさまじく大きな足音が聞こえてきた。
「奈々あああああっ、だいじょうぶかあああああっ!」
叫び声と同時に、スライディングタックルをしかけるようなスゴイ勢いで、男の子が廊下を滑り込んできた。
バランスを保つため、廊下に片手をついて身体を支える。
倒れこんだ姿勢のまま廊下についた片手を軸にして、くるっと身体の向きを変え、角を曲がりきったとたん彼はダッシュして奈々の元へ来た。
「奈々っ、だいじょうぶか……って、おわっ! だいじょうぶじゃないじゃんっ!」
ひとりツッコミしながら、彼は膝をついた。
「ほら、おぶれ。保健室に行こ!」
彼は、くるりと奈々に背を向けて、彼女が自分の背中に乗りやすいように姿勢をとる。
「えっと、でも……」
彼に助けられるのは、今回が初めてではない。
いつまでたっても彼が無防備に背を向ける行為に慣れなくて、奈々は毎度ためらってしまう。
彼は幾度となく、奈々がケガをしたときに現れては、保健室まで背負って連れていってくれるのであった。
そのため、事情を知っている生徒たちは皆、親しみとからかいを込めて彼のことをこう呼んだ。
『救急少年』
急患を病院へ運ぶ救急車のように、ケガをした奈々を保健室へ連れて行く少年、という意味だ。
奈々は、おとなしく彼の言うことに従い、彼の肩に手を伸ばした。
「ありがと、守君」
奈々が小さな声で言うと、今ではすっかり慣れてしまった彼女の重みを背中に感じながら、守は立ち上がった。
「いいってことよ!」
振り返らずに答えた彼の耳は、真っ赤だった。
奈々の胸は、ときめいた。
でも、ときめいても無駄なことは知っていた。
なぜなら、守には好きな女がいるからだ。
守が奈々の救急少年をやっている理由も、そのためだった。
「おっ、来たな、救急少年」
保健室に行くと、養護の里子先生が奈々と守を出迎えた。
彼女が歩くと、シュシュでひとつにまとめて背中に垂らした長い黒髪もさらさらと流れる。
白衣がよく似合う美しい人だ。
ベッドの端に奈々を下ろすよう守に指示して、彼女はにっこり笑った。
「いつもありがとね、渡辺君」
彼女が微笑んだら、守はうれしそうに頬を赤く染めてうつむく。
いつもの見慣れた光景だ。
奈々は彼らから目をそらし、雨でぬかるんだ校庭を眺めた。
しかし、どうしても二人の会話が耳に入ってしまう。
気のないふりをしながらも、耳をすまさずにはいられない。
奈々は、そんな自分がキライだった。
「吉川さん、えらいわ。薬ちゃんと飲んでるのね」
先生に声をかけられて視線を戻したら、先生が擦りむいた奈々の膝の具合を診てるところだった。
「だいじょうぶ、血はもう止まってるみたいよ。よかったわね、たいしたことなくて」
先生は、ピンセットで挟んだ脱脂綿を、奈々の膝にぽんぽんと軽くあてた。
「先生、守君、ごめんなさい。わたし、わたしのせいで迷惑かけて……」
奈々は、自分の膝を見下ろしながら言った。
すると、守が口を尖らせた。
「バーカ、迷惑だと思ってないよ。病気なんだから、仕方ないじゃん! 血が出たら大変なんだろ?」
「そうよ、血を凝固させる薬を飲んで、すぐ処置すればだいじょうぶなんだから。そのために救急少年やってるのよ、渡辺君は」
奈々が弱音を吐いたとき、ふたりはいつも励まし元気付けてくれる。
それがいちばんイヤだった。
いいえ、先生。
守君は、先生のために救急少年やってるんです。
先生が頼んだから……。
奈々は、口に出せない言葉を、心の中でつぶやくしかなかった。
どうして守君に頼んだんですか?
救急少年が守君じゃなかったら、守君が先生を好きなことを知らずにすんだのに……。
「奈々、どうした? 膝、痛むのか?」
しょんぼりした奈々の様子に気づいて、守はベッドの側に近づいた。
「授業のこと心配してるんだろ? 元気出せよ、オレもつきあってフケてやるからな」
彼の優しい心遣いが、本当はうれしい。
でも卒業して中学校に行けば、こうして話をすることもできないだろう。
そうなったら、救急少年の役目もおしまい。
病気だからって、いつまでも甘えてはいけない。
小学校を卒業する日――来年の三月十五日が、実らない片思いとサヨナラを告げる日だ。
残された時間は、たったの半年だけ。
「守君は、授業さぼりたいだけなんでしょ!」
奈々は彼に向かって、いーっと歯を見せた。
「何だよ、まいったなあ」
守は、ぽりぽり頭のうしろをかいた。
幾日か過ぎて、季節は秋から冬へと移ろうとしていた。
巷ではクリスマスソングが流れだし、学校の生徒たちもウキウキそわそわ浮かれ気分。
しかし、来年卒業を迎える生徒たちは、楽しい冬を前にやっておかなければならない試練があった。
「奈々ちゃん、卒業文集の作文書けてる?」
席に座って鉛筆を持ったままぼんやりしている奈々に、真奈美は声をかけた。
「ごめんね、真奈美ちゃん、文集係なのに。どうしても書けないの」
奈々の机に置かれた原稿用紙には、タイトルのみ書かれている。
『わたしの将来』
こんな病を抱えた自分に、どんな未来が待ち構えているのだろうか。
四百字詰め原稿用紙たった一枚書くだけなのに、文字を埋める作業が延々と続く苦行に感じた。
「ゆっくり書いて、って言ってあげたいけど、今日が締め切りなの。未提出は、あと二人だけなのよ」
「わたしのほかにも、まだ書いてない人いるの!?」
奈々は驚いた。
「誰だと思う?」
全然想像つかない。
真奈美の質問に、奈々は首を横にふった。
「あのね、守君なの。奈々ちゃんが書けるまで自分も書かないっていってるのよ、あの男は!」
口ぶりとは裏腹に、真奈美の顔はにこにこしている。
「ええっ、どうして? そんなの困る!」
作文が書けないのを自分のせいにされてはたまらない。
そうかといって、守がそんなことするとは思えない。
「さあ、本人に聞いてみたら? また保健室にでも行ってるんじゃないの」
「あー、うん。でも……」
守にとっても残された時間は、ごくわずかだ。
先生と守の貴重な時間を邪魔したくない。
そう思う一方で、今ふたりは何をしているのか、気になって仕方がなかった。
奈々は、椅子から立ち上がった。
「ちょっと行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
真奈美は、手を振った。
保健室の扉の前に立ったときだった。
ぼそぼそと誰かが話す声が、中から聞こえてきた。
耳をすますと、会話の主がふたりいることがわかる。
やはり、守と先生だ。
奈々はノックしようと上げた手を途中で降ろして、扉の取っ手に手をかけ、音を立てないようにそっと隙間をつくった。
先生と守が、机に座って作業しているのが目に入る。
先生がガーゼをハサミで適当な大きさに切り、守がその横でせっせと折りたたみながら、ふたりは楽しそうに話をしていた。
(やっぱり戻ろう)
身体の向きを変えた。
「先生がいなくなると、さびしくなるなあ」
守の声を耳にしたとたん、奈々の足は止まってしまった。
扉の隙間を覗く。
守がじっと先生をみつめていた。
「そうね、わたしもやめたくないけど、ワガママ言ってられないの。ごめんね」
先生は手を止めて、守を見た。
あれは……、婚約指輪だ。
彼女の左手薬指に輝く指輪が、奈々の目に飛び込んできた。
「うん、別に謝ることないっすよ。だって先生、幸せになるんだもんな」
自分自身に言って聞かせるせるみたいにつぶやくと、守は口をつぐんだ。
蛍光灯の光を反射しているせいだろうか、彼の瞳が潤んでいるように見える。
「渡辺君、吉川さんのことだけど」
里子先生が、にっこり笑った。
「わたしが辞めた後もお願いね。引継ぎの先生には話しておくから」
「わ、わかってますって。卒業まで、ちゃんと面倒みますから。それに、オレが最初に言い出したことだし……」
守のガーゼを折るスピードがアップした。
彼の顔は、これ以上ないっていうぐらい真っ赤だ。
(え……、守君が……!? 先生が守君に頼んだって聞いてたのに……)
奈々は、心臓が止まる思いがした。
「ふふ、そうだったわね。とってもいいアイディアだと思ったわ、はじめは心配だったけれど。ケガをするのは授業中だと限らないし。渡辺君、がんばったわね」
守は返事をしないで、せっせと手を動かした。
「それで、どうなの? ちゃんと言ったの、吉川さんに?」
先生の問いかけと同時に、守の手が止まった。
「まだ、言ってない……」
「あら、意外と度胸ないのね。先生楽しみにしてるのに」
「それが、養護の先生の言うことかよ!」
守が先生にあっかんべえと舌を出した。
「ま、真奈美ちゃん!」
教室に入るなり、奈々は真奈美の元に走り寄った。
真奈美の席の机に、勢いよく手をつく。
「聞きたいことあるんだけど!」
奈々のらしくない強い剣幕に、真奈美の目が点となる。
他の生徒たちが提出した文集の原稿が二、三枚、ひらひらと床の上に舞い落ちた。
「どうしちゃったの、急に」
「あ、あのさ、守君のことなんだけど……」
「救急少年が、どうかしたの?」
「それなんだけど、それって、守君が言い出したって……」
「えっ!?」
真奈美がぽかんと口を開けた。
「誰に聞いたの?」
「さっき、保健室で……。先生と守君が……」
真奈美が聞き返してきたので、奈々は自分がいけないことを聞いてるような気がした。
すると、奈々の後ろから他の生徒たちの声がした。
「なあんだ、バレちゃったのかあ」
「守のヤツ、何やってんだよう」
口々にぶつぶつ文句を言っている。
「どう……いう意味?」
奈々は、驚いて六年三組の教室を見渡した。
他の生徒たちも、奈々と真奈美に視線を送る。
皆困っているような笑いを浮かべ、落ち着かない様子でそわそわしていた。
「ああ、あのね。救急少年って、ホントは守君だけじゃなかったの。うちのクラス、六年三組の生徒全員が、救急少年だったのよ」
真奈美が、教室の中心に向かって右手を広げた。
「ほら、一学期に怪我して、奈々ちゃん、しばらく休んだでしょう? 学校に救急車来て、大騒ぎになってさあ」
「うん……」
「そのときね、先生から事情を聞いて、皆で話し合って決めたの。小学校生活最後の一年だもん、全員そろって過ごしたいじゃない?」
「え……?」
「奈々ちゃんを絶対ひとりにしない。怪我をしたら、即保健室に連れて行けるようにって。それなのに、あいつひとりでがんばってくれちゃったおかげでさあ。いつのまにか、あいつひとりだけの役目になっちゃったんだよねえ」
「そうだったの? ごめん、ごめんね。そんなこと全然気がつかなかった……」
奈々の目にじわっと涙がにじんできた。
真奈美がポケットからハンカチを取り出し、彼女の目頭を押さえてやる。
「あーあ、もう! そうやって泣くから、ナイショにしてたのよ。病気ってだけで、へこんじゃダメよ! 友達なんだから、気にしなくていいんだからね!」
「うん、うん、ごめんね……」
わたし、ひとりで何やってたんだろう。
真奈美ちゃんや、クラスのみんなや、先生が、わたしのことを支えてくれていたのに。
それに、守君も……。
「ありがとう……」
だいじょうぶ、わたしはひとりじゃないんだ。
奈々は、生まれて初めて思った。
『わたしの将来』 吉川 奈々
わたしは、血が止まりにくいという病気持っています。
ケガをしないように、いつも気をつけなくてはいけません。
体育も遠足も休んだり、見学したりしました。
わたしにできることは、とても少ないです。
でも、友達や先生がわたしのことを助けてくれました。
将来のことはあまりよくわかりませんが、わたしもみんなのようにだれかを支えたい。
だれかを支えることができる大人になれたらいいなあ、と思っています。
奈々は、深呼吸を一度してから保健室の扉を開けた。
「守君、いますか?」
「あら、吉川さん、どうしたの?」
里子先生がガーゼを切る作業を止めて立ち上がり、戸口で立ったままの奈々に近寄る。
彼女の背中に手を添えて、中に入るよう促した。
「奈々っ、またケガしたのか?」
畳みかけのガーゼを放り出して、守も奈々の前に来る。
心配そうに顔を曇らせ、どこにケガをしたのか調べるために、彼女の全身にくまなく目をやった。
上から下まで顔を動かしながら、彼女の周囲を回る。
奈々は、真っ赤になってスカートの裾を押さえた。
「ち、違うの! 守君に用があるの。それと、ケガしてないから、じろじろ見ないで!」
「ご、ゴメン!」
守も、はっと気づいて赤面した。
真っ赤になってうつむいているふたりの顔を見て、里子先生がくすくす笑う。
「じゃあ、先生はトイレに行ってくるから。あとは頼むわね、渡辺君」
「は、はい……」
先生は、合図を送るかのように守に向かって片目を閉じてから、保健室を出て行った。
「……どうした、奈々? オレに用事って……」
守が口を開いた。
「うん、あのね……守君に、言いたいことがあって……」
奈々は、どもりつつ答える。
「あの、文集のことなんだけど、わたし、書いたから……。もう出したからね」
「えっ、ホント?」
「うん、だから、守君も書いてね。絶対だよ。書けないなら、手伝うから……」
すると、守はほっとしたように床の上にどかっと腰を下ろした。
「ううん、だいじょうぶさ。オレ、書いてあるから。あとは、提出するだけなんだよ」
奈々も彼の側に膝をつく。
「どうして? 書いてあるなら、どうして出さなかったの? 教えてほしいの!」
「どうしてって……」
守は、「よいしょ」と足を曲げてあぐらをかいた。
「……オレ、奈々の救急少年じゃないか。奈々より先に出したら、おかしいだろう?」
「おかしいって、なんでおかしいの?」
彼の言うことが、ますますわからない。
「だから、救急少年だからさ! ああ、もう聞かないでくれよ!」
守は、うなり声を上げて、ぱしっと自分の横っ面をはたいた。
「どうしたの!?」
「べ、別に気合入れただけだよ」
「気合……?」
守は、うなずいた。
「だって、まだまだ頑張らなきゃ、だもんな。どうせ、おんなじ公立行くんだろ? これで……意味わかってくれよ!」
「ひょっとして、中学行っても……ってことなの?」
奈々は、どぎまぎして彼に聞いた。
「あったりまえだって! オレが言いだしっぺなんだから。ちゃんとやるよ、やってやるさ。小学校卒業しても、オレは奈々の……きゅっ、救急少年だいっ」
言い終えたとたん、守はくるりと奈々に背を向けた。
「守君……、あ、ありがとう……」
守のすっきり引き締まった背中を、奈々はじっとみつめた。
六年生になった春から自分をずっと守ってきてくれた、たくましい背中だ。
肩甲骨の間の場所に、思わず指で触れる。
守の背中がぴくっと動いた。
「これからも……、よろしくお願いします」
奈々は、あわてて手を引っ込めた。
「うん、よろしくされたのは、任せておけって感じだけど……」
守は奈々に背を向けたままで言った。
「ひとつ、問題があるんだよなあ……」
「何……? ひょっとして、わたしが重いとか……?」
もし、そうならダイエットしなければ! と奈々は思ったが、守が「違う、違う!」と否定したので、ほっとした。
「あの、その、なんていうか……、あ、あたるんだよ……」
「あたるって……?」
守が何を言いたいのかわからなくて、奈々はきょとんとする。
「だから、あのさ、むっ、胸があたるんだよ……」
それを聞いて、奈々は顔から火が出るほど恥ずかしくなった。
とっさに両手で胸を隠す。
「守君のえっち!」
「ばっ、勘違いするなよ! そんなんじゃないよ!」
奈々は守に文句を言ったものの、恥ずかしかったけれどうれしかった。
守が自分を女の子として意識してくれていたのだ。
そういえば、もうすぐクリスマスだ。
ママに習って、守君に手編みのマフラーを思いきってプレゼントしようかな。
今度背負われたとき、うしろからそっと彼の首に巻いてあげるんだ。
うーん、色はどうしよう……?
やっぱり、赤と白がいい。
だって、彼は救急少年なんだから。
(END)
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