その手で、花を。
窓から差す光がまた一段薄くなったので、エレンは燭台を手元へ引き寄せた。
雨は昼前に上がったが、軒先にはまだ雫が残っている。色づいた葉の落ちた石畳が鈍く濡れ、風が吹くたび、湿った土の匂いが工房まで届いた。
木々のざわめきに遅れて、立てつけの悪い窓枠が鳴る。窓際に溜まった削り屑が、乾いた音を立ててわずかに動いた。
エレンは真鍮の指を一本ずつ曲げ、軸に残る引っかかりを確かめていた。
毎日使うものは、どうしても持ち主の癖に合わせて傷む。よく物を握る男の手は親指の付け根が緩み、細かな作業を好む女の手は人差し指の鋼線が先に擦り減る。
指一本、関節一つずつを確かめ、最後の調整ねじを締めたところで、扉を叩く音がした。
緩んだ黒髪をうなじで巻き直し、前掛けに指を拭う。
向かいに置いた椅子の背には、朝に脱いだ上着がかかっていた。前掛けを外し、それを取って羽織る。
椅子のところどころ色褪せた木肌を見ると、机へ身を屈めていた父の背を思い出した。片づけなければと思いながら、その椅子だけは昨冬から同じ場所に置いてあった。
扉の向こうにいたのは、ずいぶん顔立ちの整った青年だった。
濃い金色の髪は曇天の下でも淡く光り、瞳は冬を待つ針葉樹のような深い緑をしていた。
二十代の半ばほどだろうか。端正な顔に柔らかいところは少しもなく、こちらへ据えられた目には、訪ねる前から用件の順序を決めてきた人間の硬さがあった。
目線は低かった。青年は従者の押す車椅子に腰掛けている。
ここを訪ねる客として、それは珍しいことではない。
座っていても広い肩と厚い胸元がわかり、その左袖が肘の下で折り留められていることと、膝掛けの右側に途中から膨らみがないことには、顔をひと通り眺めてから気づいた。
「ハンス技師の工房で間違いないだろうか。ロイド・ヴァルデンという。義手と義足の製作を依頼したい。」
差し出された紹介状には、見覚えのある封蝋がついていた。
声は低く、抑揚に乏しい。背後の従者まで同じように背筋を伸ばしているので、エレンは少し笑いそうになった。小さな工房の軒下に、そこだけ軍の点呼が持ち込まれたようだった。
「ごめんなさい。新しい依頼はお断りしているの。父は冬に亡くなりましたから。」
青年は目を伏せ、短く弔意を述べた。それでも紹介状は下げられなかった。
エレンが受け取らずにいると、彼はその顔をもう一度見て、あなたがエレン技師か、と確かめた。頷くと、用意してきた言葉を正確に並べるように口を開いた。
「父君が亡くなられたことは承知している。ただ、近年の製作は、あなたが主に担っていたと聞いた。魔力で動く義肢は、ほかでは手に入らない。費用と製作期間については、できる限りそちらの条件に従う。」
「詳しいのね。誰からお聞きになったのかしら。」
「ディートリヒ大尉だ。こちらで右腕を作ってもらったと。」
エレンは少しのあいだ黙った。
三年前、指が動くようになるなり、今度は剣の柄を持たせてくれと言った男だった。自分で外套の留め具を掛けられるようになったことを、ひどく喜んでいた。
その同じ手で敬礼し、工房を出ていった日のことまで思い出した。
「あなたも、また戦場へ戻りたいの?」
「終戦して一年だ。新しい戦争の話は、いまのところ聞いていない。」
軽口にも律儀に答えるものだから、エレンは扉の縁へ置いた指を少し曲げた。
ヴァルデン伯爵家の次男については、彼女も噂を聞いていた。
不利なまま膠着していた戦局を動かし、和平交渉につながる道を開いた最後の作戦。その陽動を担い、敵の主力を引きつけた小隊の指揮官。多くの部下を失い、自身も片腕と片脚を失って戻ったという青年が、今目の前に座っているらしかった。
「言い方が悪かったわね。軍の方からの新しい依頼は、もう受けないことにしているの。」
「軍は退いた。いまは一人の依頼人として来ている。」
返答がわずかに早かった。
眉間に寄った皺は浅く、整った顔には不機嫌さまでよく似合った。気難しいけれど、可愛い青年だとエレンは思った。
前の人生の年まで数えれば、その生真面目さをどこか懐かしく眺められるくらいには長く生きていた。
「そう。けれど、ごめんなさいね。いまは修理だけで手いっぱいなの。」
「待つことはできる。人手が必要なら手配する。材料もだ。」
「お金でも、人手でもないのよ。」
交渉の余地を探していた目が、ようやくこちらの拒絶に行き当たった。
エレンはそっと濡れた敷居を見下ろした。
父なら、まず迷わず中へ入れただろう。外套が乾くまで茶を飲ませ、紹介状を読み、それから、何ができるようになりたいのかを丁寧に尋ねたはずだった。
「……何か欠けていた方が、人間らしくていいじゃないの。何もかも元どおりにしなくても、生きてはいけるわ。」
言ってから、作業台に並べた義手が視界の端に入った。磨いた指に細い光が乗り、その手を待っている客の顔が浮かんだ。
少しだけ後ろめたくなったが、言い直さずにいた。
ロイドは紹介状を握り、わずかに顎を引く。長い睫毛の下で、緑の瞳が暗く見えた。
「元に戻そうとしているわけじゃない。ただ、どうしてもしなければならないことがある。」
「……そう。でも、私は力になれないわ。」
もう一度だけ謝り、エレンは扉を閉めた。
やがて車輪が濡れた石畳を渡る音が耳に届く。それが角を曲がるまで、なぜか扉の前から動けなかった。
作業台へ戻ると、さっきまで確認していた指の緩みを、どこまで直したのかわからなくなっていた。
十年続いた戦争は、去年の秋に終わった。
工房からも祝砲が聞こえ、父は煙草を吸う口実に窓を開けた。これで軍用馬車が夜中に通らなくなると笑い、冷えた手を火鉢へかざしていた。
その冬に父が死んでから、エレンは新しい依頼を取らなくなった。
工房の主が父だったことは、嘘ではない。ただ、父がいなければ作れないという意味でもなかった。
人の身体に合わせて木を削り、金属を曲げることを教えたのは父だった。
そこへ、異世界の知識を持ち込んだのはエレンだった。前世としか説明のつかない記憶の中で、彼女は工業用ロボットを作る会社の技術者だった。
画面に向かって直した設計も、何度も組み直した機構も、仕事を終えたあとまで指先に残っていた油の匂いも覚えている。
その知識を、魔石と刻印を使うこの世界の技術へ置き換えていった。
最初の指は握るばかりで開かず、次に作った指は物を掴む前に折れた。父は折れた部品を拾い、次はもう少し厚くするかと尋ねた。
そうして何年もかけて、持ち主の魔力を受け、動かそうとする意思に従う手足を組み上げた。
五年ほど前から、工房を訪ねる者のほとんどが軍の書状を持っていた。納期は短かったが、費用には糸目をつけなかった。経験を積んだ兵士を失う余裕が、もうなかったのだろう。
戦場からやっと帰れた者を直し、また戦線へ送り出す。エレンはいつからか、自分の仕事をそんなふうに考えるようになっていた。
父は持ち主が喜べば喜んだ。細かな指の動きに注文をつけられると、難しい客だと言いながら、夜まで机に向かった。これで戦場へ戻れると語る兵士に、よく動くだろうと答えたときの顔が、エレンには忘れられなかった。
父が誇っていたのは、自分の作った手がその人の思うように動くことだったのかもしれない。
けれど、その先にあるものを、エレンは見ないでいられなかった。
仕事をやめても困らないだけの金はあった。それを残したのも、軍からの注文だった。
父のいない工房で新しい図面を広げる気にはなれず、エレンは修理を終えたものだけを送り出し、夜にはただ工具を磨いた。軍馬の通らなくなった道は、窓を閉める前から静かだった。
ロイドが二度目に来たのは、風の強い日だった。
外套の裾を従者が直そうとすると、彼は右手で制し、封蝋のついた書面を差し出した。
王の印璽を確かめ、エレンは大人しく受け取ると、細かな文字を最後まで読んだ。
義手と義足を製作するよう命ずるという一文の下に、自分の名がきれいな筆跡で記されていた。
「陛下から、戦果の褒美に一つ、望むものをと仰せつかった。だから、この工房で義肢を作っていただきたいと申し上げた。」
「たった一つのご褒美を、こんな気難しい女に使ったの?」
「ほかに作れる人間はいないと聞いている。」
憎らしいくらい律儀な返事だった。
エレンは薄く笑ったが、その笑みを保つのが急に面倒になり、書面をそばの机へ放った。紙は滑り、床へ落ちた。
これでもう、気持ちを説明する必要はない。嫌でも怖くても、以前のように手を動かせばいい。
それを少し楽だと思ったことが、自分でも何より厭だった。
「これでは依頼ではなく、徴用ね。せっかく戦争も終わったと思ったのに、随分なこと。」
ロイドは口を開きかけ、そのまま黙った。
エレンは奥の棚へ行き、しまっておいた採寸具を下ろした。箱の上には薄く埃が積もり、蓋を取ると、白いものが窓の光に舞った。
「……すまなかった。作業は、やはりやめてくれ。」
振り返ると、彼は床の書面へ手を伸ばそうとしていた。届かずに身を戻したところで、従者が拾い上げる。
ロイドは渡された紙を見つめ、それから折りもせずに内ポケットへ差し入れた。
「陛下へは、命令の撤回を願い出る。今の話は聞かなかったことにしてほしい。」
声が硬いのはいつもと同じだった。
けれど返事を待つ前に、彼は従者へ帰ると告げた。
車輪が軒先を離れ、扉の向こうへ消える。
エレンは採寸具を抱えたまま立ち、やがて、箱を持つ手に力を入れすぎていることに気づいた。
十日後、王命の取り下げを示す書面とともに、ロイドはまた訪れた。
従者を少し下がらせると、車椅子の上で頭を下げる。金色の髪の分け目が見えた。そのあいだ、右手は膝の上で固く握られていた。
「先日は、申し訳なかった。二度と同じことはしない。そのうえで、改めてお願いしたい。私の義手と義足を作っていただけないだろうか。」
お願い、という言葉だけがひどく不慣れに聞こえた。
エレンはその頭をしばらく眺め、細く息を吐いてから、入って、と声をかけた。古い床が車輪の重みで軋む。
茶器を二つ出し、朝に淹れた茶を注いだ。貴族の口に合うものではないだろうが、水よりはましなはずだった。
「退役したのよね。伯爵家なら、生きていくために労働が必要なわけでもないでしょう。それでも、どうしても欲しいの?」
「ああ。私自身が成すと決めたことがある。そのために、遠くへ行かなければならない。」
エレンは向かいに座り、茶器の縁へ指を添えた。
酷く不器用で、真っ直ぐな青年に見えた。命令を撤回させたあとで、わざわざ戻ってきて頭を下げている。かといって、まだ何も知らない相手だった。
「もう、人を傷つけるための手は作りたくないの。そういう使い方をしないと、信じていい?」
「約束する。用事が終われば、義手も義足も返して構わない。」
あまりに迷いのない返事に、エレンは目を上げた。
彼は誠意を示したつもりらしかった。膝の上の右手はまだ握られ、こちらの判断を待っている。
「返されても困るわ。あなた一人に合わせて作るんだから。」
「……そういうものなのか。」
「そういうものよ。用事が済んだあとは、好きなことに使って。」
彼は少し考えるように黙った。エレンは茶を一口飲み、採寸具の箱へ目をやった。
材料から揃え直すなら、半年はかかる。暇を出した手伝いの者も、いまは別の工房にいる。完成してからも調整で数週間ほどは毎日通ってもらうことになるかもしれない。そこまで説明しても彼の意思は変わらず、必要であればこちらへ毎日通うと言った。
「それなら、部材を作るところから手伝ってもらおうかしら。一人では、さすがに手が足りないの。」
「私はこのようななりだが。構わないのか。」
「図面を押さえる手が一つ増えるだけでも助かるわ。それにあなたも、自分が使うものなら、覚えておいて損もないでしょう。」
承知した、と彼は答えた。ようやく茶器へ伸びた右手の指がほどけたのを見てから、エレンは椅子を引いた。
身体に触れても、と尋ねれば、ロイドは頷き、従者へ離れたところで待つよう伝えた。
肩の力を抜かせながら年齢を聞くと、二十五だという。これほど若くして、小隊の命を預かっていたのだ。長らく続いた戦争は、熟練の兵士達から始まり多くの命を飲み込んでいった。作戦の要であり、命を捨てる役でもあるものを、若者に任せなければならないほど。それが分かり、胸の底がぐっと重くなった。エレンは沈みかけた内心を振り払うように明るい声を出した。
「さて、したいことがあるのよね。どんな場所を歩くことになりそう?階段や山道もあるのかしら。」
「ある。荷物を抱えて歩きたい。人を背負うことも、あるかもしれない。」
数字とともに書き留め、上腕へ巻き尺を回す。
軍人らしく鍛えた身体は厚く、座っていても、そばへ寄ると大きかった。立ったら見上げなければならないだろう。
ふと見た顔が緊張しているのに気づき、エレンは目を細めた。
「ずいぶん綺麗な目をしているのね。」
「……義手の製作に関係があるのか。」
「いいえ。ただ、元軍人さんにしては可愛い顔をしているなと思っただけよ。」
露骨に眉を寄せられたので、それ以上は言わずに採寸帳へ目を戻した。
黒髪が肩へ落ち、ロイドの視線が一度そこを追った。顔を上げた拍子に目が合うと、青年は何かを堪えるように口を結んだ。
エレンは笑わないでおいてやった。
工房の裏には、小さな庭を挟んで二部屋の離れがあった。以前は手伝いの者が寝泊まりしていたが、いまは物置になっている。
そこを空け、ロイドが暮らすことになった。装着する箇所の詳しい採寸と、魔力の流れを調べるだけでも数日はかかる。いずれ毎日調整するようになるなら、初めからそこにいてもらう方がよかった。
荷物を運び込んだ日、エレンは窓を開け、乾いた寝具を広げた。
ロイドは戸口から室内を眺め、寝台のそばの小椅子に目を留めた。座面が狭く、脚の一本だけ新しい木で継いである。
エレンが子供の頃、父の作業台に手を届かせるために使っていたものだった。
「不格好でしょう。何度捨てようとしても、父が直してしまって。邪魔なら片づけるけれど。」
「……いや、このままでいい。物を置くのに使える。」
翌朝には、椅子の上に本と水差しが載っていた。枕元からちょうど手が届くらしかった。
エレンは何も言わず、採寸に使う紙を机へ置いた。部屋の隅で行き場をなくしていたものが、誰かに使われるだけで、そこへ落ち着いたように見えた。
右脚は膝の下からなく、左腕は肘より少し下で終わっていた。
装具の当たるところを確認し、肌の上に巻き尺を滑らせる。
ロイドは退役後もできる鍛錬を続けているらしく、上半身には厚く筋肉がついていた。
採寸の間、緑の目は窓の外に向けられ、こちらが何か尋ねるまで戻らなかった。
「腕と脚は、同じときに?」
「ああ、最後の作戦で。脚は砲弾で、腕は毒だ。傷口から広がる毒で、他へ回る前に切らせた。」
自分で決めたことを述べる声だった。
エレンはただ小さく頷き、数字を書いた。
それ以上、彼は戦争のことを話さず、エレンも聞かなかった。ただ、初めに見た空の袖の下に、短い決断の時間があったのだと、そう思った。
発注用の仕様書をまとめ、必要なものを注文すると、部材が届くまで少し間が空いた。
そのあいだ、エレンは調整の利く練習用の義手を彼の腕に合わせ直し、使い方を教えた。
神経で動く本来の手とは違い、これは動かそうとする意思を魔力の流れに乗せて伝える。
ロイドは最初は指を開こうとして手首が返り、力を抜くつもりで握り込んだ。思いどおりに動く時間は短く、長く使えば疲れた。
とはいえ一日中練習できるものではなく、助手という名分もあまり役に立たないまま二週間が過ぎた。
ロイドは特に不満を言わず、領地から届いた書面を片づけ、工房の本を読んで過ごした。
手元の輪で片手でも両輪を動かせる車椅子と、短い移動に使う松葉杖があれば、この家ではそれほど困らないらしい。従者もやがて領地へ戻り、必要なものは手紙で頼むようになった。
「それ、面白い?あなた、技術者に興味があるの?」
ロイドが、父と二人でまとめた手記を、頁が外れないよう慎重に開いているのを見てふと尋ねた。彼はすぐには答えず、読んでいたところへ紙片を挟んでから顔を上げた。
「分からない。十四のときに開戦したから、そのまま軍の学校へ入った。十八で従軍して、それからは、あまり他のことを考える機会もなかった。」
机に載せた右手が、閉じた本の背を撫でた。綺麗な緑の瞳が少し戸惑うように細められる。
エレンは返事を探さず、そばの棚から、もう少し初歩的な図を集めた冊子を出した。先にこちらを読んだ方がわかりやすいと渡すと、彼は礼を言い、さっきの手記を手元に置いたままそちらを開き始める。
そのあとも、わからないところへ紙片を挟みながら、ロイドは静かに読み続けていた。
大きな出来事もない日々は、淡々と、且つゆっくり過ぎていく。
朝は二人で食事をし、その日の予定を確かめた。エレンが作業をする横で、ロイドは本を読むか、頼まれた部品を布で拭いた。
昼食は初めこそこちらが作るのを見ていたが、そのうち、下拵えを引き受けるようになった。片手で豆の筋を取り、剥いたものを器へ入れる動きに無駄がなく、エレンは鍋をかき混ぜながら感心した。
「本当に器用ね。貴族の御令息に豆を剥いてもらう日が来るとは、思わなかったわ。」
「軍では調理も当番制だった。片手だと、できることは減るが。」
彼は答え、次の豆を取った。できたものを移す器をそばへ寄せてやると、短く礼を言った。何でも一人でしたいわけではなく、頼まれたことを、できる範囲で正確にやりたいらしかった。エレンも、手を出すときには先に声をかけるようになった。
ある日、野菜の形が不揃いだとふと呟いた彼に、食べれば同じだと返したことがあった。ロイドは少し黙り、それから、部下にも昔そう言ったな、とぽつりと答えた。
聞けば料理の当番になるたび、一人だけ切る大きさを正確に揃えたがる男がいたという。話しているうちに、その男の名はベルトだとわかった。エレンは覚えておこうと思ったわけでもなかったが、次に豆を剥くとき、自然にその名を思い出した。
午後は買い物へ出たり、天気がよければ湖まで足を延ばしたりした。
初めて誘ったとき、ロイドはそれも製作に必要なのかと尋ねた。エレンが、ただ自分が行きたいのだと言うと、少し考えてから外套を取った。
湖の向こうの森は、赤や黄を少しずつ失っていた。風が吹くと葉が舞い、岸へ寄せられたものが、水の動きに合わせてゆっくり重なった。
エレンは車椅子のそばの石に腰を下ろし、冷えた指を外套の袖へ入れた。
ロイドは何も言わず、木々の映る水面を見ていた。黙っていても、特に気詰まりに感じていない様子が、エレンには気楽だった。
「昨年までは、父を車椅子に乗せてよく来ていたの。元気な頃は、ここで釣りもしていたのだけれど。」
「……父君は、ご病気だったのか。」
「老衰よ。八十を過ぎていたから、大往生でしょうね。」
ロイドが驚いたようにこちらを見たので、エレンは少し笑った。自分の歳と父の歳を聞かされると、大抵の人は同じ顔をした。
「私は養子なの。東方の大陸の戦乱で家族を失って、二十年前にこの国まで流れてきた。色々あって、近くの道で行き倒れていたのを、父に拾われたのよ。」
今回の十年戦争が始まる、もっと前のことだ。
しかし、遠い国の焼けたかつての村も、工房へ届くようになった軍の書状も、エレンにはつながって見えていた。
七歳の頭には、たしかに前の人生で学んだことがいくらでも残っていた。けれど、戦乱から家族を守る方法はおろか、腹を空かせて歩けなくなった身体を動かすことにも、一つも役に立たなかった。
目を覚ましたときには、知らない老人が鍋をかき混ぜていた。ここはどこかと尋ねるより先に、差し出されたものを食べた。父は食べ終わるまで何も聞かず、もう少しあるが、とだけ言った。
それから幾日か、エレンが目を覚ますたび、台所には何か温かいものが用意されていた。
「どうして助けたのかと聞いても、道で寝られると荷車が通れないと言うばかりでね。だから、家でも邪魔にならない部屋の隅へ座るようにしていたの。そうしたら、ある日、あの小椅子を作業台の隣に置かれた。」
そこに座っていても、時折材料を取るのに邪魔になる。その度に退こうとするのだが、良いから座っていろと言われた。父は椅子を動かさず、わざわざエレンの後ろを少し遠回りした。仕事を手伝えるようになるまで、ずっとそうしていた。
恩を返したくて始めた手伝いは、やがて、毎朝起きるのが楽しみな仕事になった。魔法も魔道具も、記憶の中にはないものだったから。これが使えれば、あれもできるかもしれない。父と向かい合って図面を広げる夜には、そんな話ばかりした。
そうして二人が作ったものを身につけ、また戦場へ帰って行く者が増え始める頃には、工房の仕事は簡単に止められなくなっていた。
「知識は素晴らしいものだと思っていたのよ。……でも、作ったものが向かう先を思うと、そうも言ってられなくなった。」
前世から生きた年数を含めても、未だ答えの出ない問いが脳裏を駆けていく。
「戦争が技術を育てるのか、それとも技術が戦争を広げるのか。……人はなんて愚かなのかしらね。私も含めて。」
ロイドは水面へ目を戻した。岸の枯れた葦が揺れ、その影が波に崩れていた。しばらくしてから、低い声がした。
「非国民だと言われるかもしれないが、私は戦争が嫌いだ。少なくとも、私の小隊に、戦争が好きで残っていた者はいなかった。皆、帰りたがっていた。」
エレンは彼を見た。整った顔にはやはり表情が乏しかったが、膝の上に置かれた右手が、外套を少し掴んでいた。
「私より若い者が多かった。十八になったばかりの者もいた。……あの子は、一目母に会いたいと、そう言って死んだ。」
風が吹き、森から落ち葉が降った。ロイドはそれ以上話さず、エレンも返事を探すのをやめた。
ただ、落ちる葉が、水面を覆う赤や黄の葉が、散っていったあまりにも多くのものに重なった。
帰る頃には日が傾き、エレンの指は外套の中でもすっかり冷え切っていた。
部材が届き始めると、二人で過ごす時間はほぼ工房の中に移った。鋼線を切り、軸を磨き、刻印を通した魔力がどこで滞るかを確かめる。晴れた日も日暮れは早く、向かいの窓が暗くなると、エレンは燭台へ火を足した。
ロイドは修理の客が来れば作業の手を止め、別の机で静かに本や図面を眺める。客が帰ると、頼まれる前に椅子を戻し、調整する箇所へ灯りを寄せた。
義足を合わせ始めた頃、彼が痛みを隠したことがあった。
歩けるかと聞けば歩き、続けられるかと聞けば続けた。休もうと言っても、まだ問題ないと答えたが、腰を下ろす瞬間に口元が強張った。
エレンはそれを見て工具を置き、今日の練習は終わりだと告げた。
「まだ歩ける。」
「歩けるかどうかだけではないの。外すから、少し待って。」
留め具を緩めると、内側に当たっていた皮膚が赤くなっていた。いつから痛んだのか尋ねても、彼は少しの間答えなかった。
エレンは当て布に印をつけ、作りかけの義足を作業台へ置いた。
少しの具合の悪さでも教えるように、と言った声が、自分でも思ったより冷たかった。
「この程度なら耐えられる。早く慣れた方がいいだろう。」
「身体の方を義足に合わせないで。義足を、あなたに合わせているんだから。」
ロイドの目線がそっと窺うように上げられた。
エレンはその視線を受けたまま、身体を傷めてからでは義足を直すだけでは済まなくなる、だから我慢せずに全部伝えて、と続けた。言い終わると彼は顔を伏せ、最初の往復から少し圧迫されていたと答えた。
エレンはしっかりと頷き、布の印を濃くした。彼を急いでどこかへ送り返す必要は、今はもうないのだから。
翌日から、報告は少し具体的になった。ここが擦れる。この角度では力が抜ける。二階まで上ると右側へ重心が寄る。短い言葉を受けて、エレンは寸法を変えた。
直したものをまた試し、何も悪いところがなかった日には、ロイドはただ頷いた。その頷きを待つ時間が、彼女にはいつからか楽しみになっていた。
二か月も経つと、ロイドは本を読むだけでなく、簡単な図を写すようになった。
地図や陣地の略図は学校で描いたことがあると言い、線そのものは迷いなく引いたが、仕組みを理解しているわけではない。印の意味を一つ尋ね、その説明の中に出てきた別の印について、また尋ねた。
エレンはそのたびに仕事を止め、余った紙へ描いてみせた。
写した図のとおりに部品を削っても、組み合わせるとうまく動かない日があった。
ロイドは何度も測り直したあと、どこが違うのかわからないと、きちんと彼女の前へ持ってきた。
エレンは少し嬉しくなり、二つの部品を並べた。紙の上で同じ太さに見える線にも、作るときには隙間が要る。
説明すると、彼は深く頷き、その日のうちに最初からやり直した。
雪が降る前に、台所へ小さな道具が増えた。板の上に瓶を固定できるよう、革を張った押さえがついている。ロイドが蓋を開けるたび、エレンに瓶を押さえさせているのを気にして、作り始めたものだった。似た道具の図は本にもあったが、右手が使いやすい位置へ合わせるのが大変なようで、ロイドは何度も調整を繰り返していた。
初めは押さえる力が強すぎ、次は蓋と一緒に瓶が回った。何度か直したあと、彼は台を押さえず、片手で蓋を開けた。エレンはちょうど火にかけた鍋を見ていたが、音がやんだので振り返った。ロイドは瓶を台に据えたまま、もう一度蓋を閉め、また開けた。
「できたの?」
「ああ。これなら、毎回頼まなくて済む。」
「よかったわね。私も使っていいかしら。」
好きにすればいい、と答えた声は平らだった。
けれど、その日の夕方、エレンが瓶を置いて使っていると、そばを通った彼の足が少しだけ止まった。片手で開くと便利ねと言えば、そうだな、と返ってきた。
翌朝には台の端がもう一度磨かれ、手の当たるところが滑らかになっていた。
食事の支度も、二人でする方が早くなった。義手で野菜を支え、右手で包丁を使うと、ロイドは軍で覚えた調理を少しずつ取り戻した。
彼はエレンの切り方は大きさが不揃いだと言いながら、自分の方も、左の指の動きを確かめながらで随分時間がかかっている。それを指摘すると彼は僅かに眉を寄せた。
それでも、鍋を火にかけるのが遅れても、食事を急かす者はいない。二人で軽い言い合いをしながら作るくらいが丁度よかった。
父がいた頃には、何か一つうまく動くようになると、夕食に肉が出た。そんな話をした次の日、ロイドは買い物に出て、肉の包みを持って帰った。昨日は瓶の蓋が開いたからな、と言われ、エレンはしばらく返事ができなかった。それから、ずいぶん高くつく習慣を教えてしまったわねと笑い、いつもより厚く切って焼いた。
雪が窓辺に残る頃、ロイドは仕上げの研磨や簡単な接合を手伝えるようになった。彼は教わったとおりに繰り返すことを厭わず、納得できないところは聞いた。
エレンはときどき、客の持ち込んだ部品を彼の机へ置き、どこが傷んでいるか見ておいてと頼んだ。返ってくる答えが少しずつ正確になると、その分だけ任せることを増やした。
「あなた、本当にいい助手になりそうね。雇いたいくらいだわ。」
削った部品を持つ手元へ身を寄せて言うと、ロイドの動きが止まった。気を悪くしたのかと思い、そのまま彼の顔を覗く。
ロイドは部品を置いたが、こちらを見ようとしなかった。
「貴族の御令息には、あまり言うべき台詞ではなかったかしら。」
「……いや。近い。」
その声で、ようやく意味がわかった。
エレンは目を瞬かせ、それから、少し意地悪な気持ちで笑った。近いと何か困るの、と尋ねて、更にわずかに顔を寄せた。
ロイドの喉が動き、薄い唇が一度引き結ばれた。
「そのようなことをされると、勘違いする。」
今度はエレンが黙った。
冗談を返す間に、言葉がどこかへ行ってしまった。
ロイドは椅子を少し引き、手元の部品へ目を戻した。
エレンも自分の机へ戻ったが、しばらく同じ図を見ていた。
前の人生でも今の人生でも、色恋はいつも自分より遠いところで起きることだった。顔が熱く、窓を開ければすぐに理由を知られそうで、何もできなかった。
それから二人とも、時折、不自然に動きを止めるようになった。
道具を渡した指が触れたとき、狭い台所ですれ違ったとき、読んでいる頁をそばから覗かれたとき。それでも、何もなかったように続きをすれば、それで済んだ。
しかしエレンは、彼のいる方を見ずにいられる時間が、少し短くなった気がして、内心でため息を吐かずにはいられなかった。
雪解けが始まる頃、義手と義足は仕上げの段階に入った。
仮に留めていた部品を本留めに替え、旅先で手入れしやすいよう道具を揃える。
重い荷物を抱え、段差を越え、疲れたときの動きまで確かめた。
ロイドはもう、具合の悪いところを隠さなかった。教えられたことを守り、休めばまた動かせることも、少しずつ覚えたようだった。
丸いものを抱える動きを試したとき、彼が壺を持ちたいと言った。
エレンは疑問に思いながらも、留め具の入っていた陶器を空にし、彼に渡した。
ロイドは左手を添え、胴の丸みに沿って指を動かした。落とさずに抱えて歩けるか確かめたいのだという。
「問題なく安定してるわね。……でも壺?あなたのやりたいことってなんなの?」
ロイドの指が止まった。しばらく壺を見ていたが、エレンが不思議そうな顔をしているのを見て、躊躇うように口を開いた。
「……元に戻らないことは、もちろん分かっている。」
低い声に、エレンは組んでいた腕を解き、彼をじっと見つめた。
「死んだ者たちは、自分の脚では故郷へ帰れない。いつか叶えたいと語っていた夢も、もう自分の手ではできない。」
ロイドはエレンを気遣うように言葉を選びながら話した。
移動も多い戦線で、皆、遺品となる持ち物は少なかった。戦場では遺体も腐敗する。だから、焼いた骨の一部をなんとか回収するだけで精一杯だった。
海を見たがっていたトマスは、身寄りのない男だった。戦争が終われば、海のそばで暮らしてみたいと話していた。
野菜の大きさに文句を言っていたベルトは、いつか両親に新しい大きな家を建てるつもりだと絵をいくつも描き溜めていた。
ニコはことあるごとに故郷の高台を自慢し、老いてから眠るならあそこがいいと話していた。
カルロは産まれたばかりの子に帰ったら聞かせるのだと、夜になると小さな冊子に童話を書いていたのを、恥ずかしげに見せてくれた。
テッドは戻ったらまず貯めた給金で祖父の家の雨漏りを直すのだと雨が降る度に言っていた。
ヨナス、ルイス、ゴート、セオ、ゲイル、シモン――。
彼がふとした折に語った名前が、そこにあった。エレンは、ロイドが雨の日に窓を見ていたことや、本の余白に小さな家の形を描いていたことを思い出した。どれも、何でもないことのように過ぎた時間だった。その向こうに、彼が忘れずにいた人がいた。
「十八人分だ。死ぬ間際に頼まれたこともあるし、もっと前に、何気なく聞いたこともある。故郷を聞いていなかった者もいたから、調べるのに少しかかった。」
手元の壺を、彼はゆっくりと両腕で抱え直した。自分の手で持ちたいと言った理由が、今は分かった。エレンは顔を伏せ、目の奥が熱くなるのをやり過ごした。彼の求めるものについて知らないまま吐いた言葉を強く悔やんだ。
「ごめんなさい。私、あなたが何を望んでいるのか、聞きもしないで。……欠けていた方がいいなんて、あなたのことを何も知らなかったのに。」
ロイドは何も言わず、壺を机へ戻した。それから、エレンの肩へ手が触れた。左手だった。何度も外しては直し、彼の腕へ戻した手が、いまは彼の意思で、ためらうようにそこに置かれていた。
「作ってくれて、本当に感謝している。」
それだけ言われて、エレンは頷いた。外気を含んだ指は布越しにも少し冷たかったが、その力はよく知っていた。
どれほど強く握れば物を傷めるか、どのくらい緩めれば落とすか、二人で確かめてきた手だった。肩から離れていくまで、彼女は動かなかった。
その晩、ロイドは地図を広げた。聞いていた名前と、家族の住む場所が、几帳面な字で別の紙にまとめられている。
遺骨を保管していた領地の者へ、旅路に付き添う従者への引き渡しを頼み、最初に向かう遺族へも手紙を出していた。
家族のない者をどこへ連れていくかは、まだ迷っているものもあるらしかった。道は遠く、順番どおりに行けるとも限らない。
「どのくらいかかるの?」
「分からない。道の状態によるし、行った先で待つこともあるだろう。だから――」
そこでロイドは不自然に言葉を切った。地図から視線を上げないまま、僅かに逡巡するように口を開く。
「……あなたに待っていてほしいと、言うつもりはない。」
ロイドはエレンの方を見なかった。表情も変えなかった。
言ってしまえば何かが変わると知っているからこそ、変えないために慎重に言葉を選んだように見えた。
エレンは口を噤んだ。ずっとここにいてほしいと、そう言うこともできたはずだった。彼はどんな顔をするだろうか、想像せずにはいられなかった。けれど、しばらく考えて、胸の奥に押し込んだ。
「……手紙を送ってよ。色んな場所に行くんでしょ?製作者として耐久性や使用感を知りたいわ。」
わざと明るく言った言葉に、ロイドの目がやっと彼女へ移った。彼は少し間を空けたあと、短く頷き、必ず、とだけ答えた。エレンは精一杯いつも通り口端を上げた。
出発までの数日、エレンは手入れの帳面を書いた。市井の工房でも替えられる部品には寸法を添え、どんな症状が出たら使うのをやめるかを記した。
読み返して同じ注意を別の頁にも書いているのに気づき、慌てて片方に線を引いた。ロイドはそれを指摘せず、渡された帳面を汚れないよう布で包み、鞄の取り出しやすいところへ入れた。
春の日差しの中で馬車を待ちながら、エレンは彼の外套の留め具を見た。初めて来たときと同じものだった。支払いはすべて済み、使わなかった材料まで細かく精算されていた。渡された額には、食事と部屋代のほかに、謝礼としてかなりの金額が含まれていた。
受け取れないと返そうとすると、一対一の教師代としてはこれでも安過ぎると、ひどく真面目に言われた。
「そんな計算でお金を払っていたら、旅の途中でなくなってしまうわよ。」
「国からの報奨金もある。それに、一応伯爵家の人間だ。特に金銭で困ることはない。」
それ以上押し問答を続けるのも、別れを先延ばしにする口実のように思え、エレンは受け取った。
ロイドは工房を一度振り返り、机と棚と、その奥の窓を順に見た。それから、世話になった、と、いつもの調子で言った。
「痛いときは、我慢しないこと。何かあったら、すぐ知らせて。」
「承知した。」
同じ注意を、もう何度もしていた。エレンは、元気で、と言った。ロイドは頷いて馬車に乗った。
馬車が見えなくなるまで見送ってから、一人、工房へ戻る。
彼の机には磨き終えられた部品が並んでいた。どれも布の上に、同じ向きで几帳面に揃えて置いてある。エレンは思わず笑った。その拍子に頬を熱いものが伝って、エレンは下を向いた。
◇
海は、ロイドが思っていたよりも広かった。馬車を降り、港へ続く坂を歩いているあいだ、建物の隙間に見える青いものが、少しずつ大きくなった。浜へ出ると、そこから先には何も遮るものがなかった。左腕に抱いた壺へ右手を添え、彼はしばらく立っていた。
トマスは、あんなに水があるなら、戦争がなくても食べていける気がすると話していた。魚を捕るのかと聞けば、船を直してもいいし、荷物を運んでもいいと答えた。村を出てから何年も兵士をしていたが、他に仕事があるなら覚えるつもりでいたらしい。
波が足元へ来る手前で止まり、ロイドは膝を折った。壺を乾いた砂の上へ置き、右手の指先に水をつけて舐めた。塩辛かった。飲めるものではないと、伝える相手がいないことを静かに思った。波は何度か同じところまで来て、少しずつ違う形で引いていった。
海辺で暮らすことは、もう叶えてやれなかった。ロイドは土地の者に相談し、港の見える丘の墓地に場所を求めた。墓を建て、名を刻み、管理を引き受ける者に礼を払った。帰る前に海の方へ向き直ると、さっきまではなかった船の帆が遠くに見えた。トマスが生きていたら、きっと船着き場で仕事を尋ねていたに違いなかった。
次の町で、約束通りエレンへ手紙を書いた。手足の具合と歩いた距離、道中で替えた革帯について記し、そのあとへ海の話を添えた。次に滞在する宿の名を書き、そこで受け取れなければ先へ回してもらうよう、宿の者へ頼んだ。
夏には、国で一番高い山へ登った。案内人の後をゆっくり辿り、山頂で、ヨナスの骨壺と二つの盃を並べた。彼はこの国の一番高いところで酒を飲んでみたいと話していた。どこで飲んでも味は同じだろうと言ったロイドに、だからあなたはつまらないのだと笑った男だった。
酒を注ぎ、片方を壺の前へ置いた。雲が低く流れ、谷の向こうの峰が見え隠れした。ロイドは盃を持ち上げ、一口飲んだ。風が冷たく、酒が喉を通るところがよくわかった。その味をもう少し確かめようと、二口目はゆっくり飲んだ。
秋には、一人暮らしの老人を訪ねた。孫の最期を話すために言葉を用意していたが、その人が初めに尋ねたのは、ちゃんと食べていたか、ということだった。ロイドは少し考え、誰より早く食事の列に並んでいたと答えた。朝の当番は苦手で、起こしに行くと、返事だけしてまた眠った。そんな話をすると、老人は目を赤くしながら昔からだ、と小さく笑った。
最期の話は、そのあとで聞かれた。ロイドは覚えていることを話した。話し終えるまで、老人は手を膝から動かさなかった。それから、老人は孫が使っていたという椅子を勧めた。ロイドはそこに座り、茶が冷めるまで、幼い頃の話を聞いた。翌日から雨漏りの修理を手配し、無事に工事が完了するまで老人の下へ毎日通い、テッドの話をした。別れの日には近くに住む人を訪ねて回り、礼を渡し今後の暮らしを助けてくれるようよくよく頼んだ。
冬、ベルトの両親のもとで家の相談をした。彼が描いていたのは、家族が増えても暮らせる大きな家だった。ロイドもそのつもりで話を進めかけたが、母親は図を眺め、こんなに部屋があっても掃除ができないと困ったように笑った。
「ベルトが、大きな家を建てたいと話していたので。」
「ええ。あの子にお嫁さんが来て、子供が生まれたら、それくらいあってもよかったでしょうけど――」
そこで母親の言葉が震えて途切れた。父親がそっと横から図を指し、二人で座れる陽当たりのいい部屋が欲しいと言った。雨が入らず、冬に暖かく、使うものを遠くまで取りに行かずに済む家がいいと。ロイドはしばらく図を見ていたが、やがて白い紙を出し、図面を引きながら二人と確認を始めた。
雪のあいだはその土地で過ごした。新しく描いた間取りをエレンへ送り、家具を置く場所や生活動線などを相談した。返ってきた紙には、出来るだけ長く陽の下でお茶が飲めるといいわね、と窓やベランダの詳細図が描き加えられていた。ロイドはそれを両親に見せては図面を挟み、また長く話した。
春にできあがった家の窓は、ベルトが描いていたものより大分低く見えた。母親が椅子に座っても庭が見えるよう、大工と相談しながら決めた高さだった。ロイドは引き渡しの日、外からその窓を眺めた。中で父親が椅子の位置を直し、母親が何か言っていた。しばらくして二人が並んで座ると、彼はそこで初めて、冬の間から手伝ってきた仕事が終わったのだと思えた。
それからも、道は続いた。青玉の指輪を持って寡婦を訪ね、夫がその石の色をどう話していたか伝えた。ある日は舟を借りて一日釣りをし、ようやく釣れた小さな魚を、壺のそばへ置いた。子供に、父親の書き残した童話を読んだ夜もあった。冊子は話の途中で終わっていた。続きをせがまれ、ロイドは戸惑いながら、かつて部下が語っていたことを思い出した。そこから先は、自分の言葉でゆっくりと話した。眠ってしまった子を見て、煤と土で汚れた冊子を閉じると、母親が声を立てずに泣いていた。
十八人分の願いは、行った先でそれぞれの形や言葉に変わった。ロイドが受け取ったものもあった。知らなかった子供の頃の思い出を聞き、好物を出され、代わりに持っていてほしいと小さなものを渡されることもあった。
もちろん、聞いていた願いのとおりにはできないこともあった。そのときには、その場にいる人に尋ね、相談した。無くなったものは戻らない。けれど、少しでも彼等が安心できるように。その為に自らの手と足でロイドは旅を続けていたから。
宿で手紙を書く夜が、日を追うごとに増えていった。初めは義肢の報告として何を書くべきか考えていたが、いつしか、会った人のことや、食べたもののことから書き始めるようになった。返事には工房の小さな出来事が並び、ときどき、新しい部品の図が入っていた。ロイドはそれを明かりに寄せて眺め、わからないところに印をつけて返した。
◇
最初の手紙を読んだとき、エレンは、彼らしいと思って笑った。項目ごとに分けられた報告は、距離も日数も、使った道具の名も正確だった。その最後に、海水を舐めた話が短く書かれていた。飲めるものではなかった、という一文を二度読んでから、彼女は手紙を机に置いた。もし、向かいの席で話していれば、どんな顔をして答えただろうと思って、少し視界が揺れた。
返事には潮気の落とし方を書き、ほかにもいくつか注意を足した。あとは、工房の樋が詰まったこと、いつものパン屋に孫が生まれたこと、彼の作った台を毎日使っていることを書いた。封をする前に読み返すと、ずいぶん些細なことばかりだった。それでも消さず、次の町の宿へ宛てて送った。
最初の夏、修理の客に連れられて、一人の男が来た。新しい義手を作ってもらえないかと言うので、エレンはいつもの断りを口にしかけた。しかし、男はエレンが言葉を続ける前に、娘の髪を結べるようになりたいのだと少し恥ずかしげに話した。妻が朝早く働きに出るようになったため、自分が面倒を見られるようになりたいのだと。何歳なのか尋ねると、先日四歳になったと嬉しそうに答えた。髪の長さを手で示し、もう立派なレディで、毎朝違う髪型がいいとねだるのだと彼は語った。
エレンは棚から採寸帳を出した。男がかつて軍にいたということは、話の途中で聞いていた。けれど恐らくそのときにはもう、細い髪をつまむ指の動きを考えていた。持ってきた紐を試しに結んでみせてもらい、細かい動作を確認した。客が帰ったあとには、部材発注の為の粗方の採寸と新しい名前の書かれた頁が残った。
そのことを知らせると、ロイドから、どの部材から手配する必要があるのかと質問が返った。エレンは余白に図を描き粗方の納期を添え、旅の途中でする質問かしら、と一言加えた。次の便りには、今後の参考にしたいから、とあった。机に向かってそれを読んでいると、彼がそばで本を閉じ、質問する前に少し眉を寄せるところまで思い浮かんだ。
冬には、家の間取りが届いた。紙は何度も広げられたらしく、折り目が柔らかくなっていた。両親が求めたのは、息子の話していたものより小さな家だったと書いてある。エレンはその図を長く眺め、窓とベランダの図を描いた。使う人の姿を想像すると、部屋の明るさが一番に気になった。
仕事は少しずつ増えていった。修理の合間に新しい部品を作り、装着してからの調整にも時間を取った。
一人で工房に立っていると、いつの間にか彼に任せていたことがいくつもあったと気付いた。
書面をまとめることも、材料を仕分けることも、測っているあいだ図面を押さえることも、思っていたより助けられていたのだと、改めて分かった。
助手を雇うべきだということは分かっていた。けれど、朝に机に向かえば、向かいで部品を磨く音を思い出し、昼に図面に線を引けば、何も言わずに紙を押さえる手が脳裏によぎり、夜に金具を削っていればそっと近くに置かれる燭台の灯りの記憶に思わず目を伏せた。
彼がいないことに慣れながら、いないことで思い出すことも増えていった。
便りは少しずつ長くなった。初めは義肢の具合を先に確かめていたエレンも、やがて、誰に会ったかを読む方が早くなった。舟で一日過ごした話には、魚が釣れるまで自分なら待てないと書いた。子供へ本を読んだ話には、どんなお話なのかと尋ねた。答えとともに送られた一節を読むと、その向こうで彼が子供へ話しかけている声が聞こえるようだった。
一度くらい、好きだと言えばよかった。そう思う夜もあった。顔を見て揶揄うように言えば、ロイドはまた眉を寄せたかもしれない。けれど、もし花束を手に真剣に言えばどうだっただろう。考えても仕方ないと思うのに、手紙に一言すら書けないのに、エレンは何度も彼の姿を想像した。
二度目の冬が過ぎ、新しい図面を広げる時間が日に日に長くなってきた頃、また手紙が届いた。今度は息子の代わりに母親を背負い、故郷の山の見晴らし台まで朝日を見に行ったと書いてあった。母親に、息子がえらく大きくなって帰ってきたと泣きながら笑われたらしい。帰りには、自分で歩けるところは歩くと言われ、二人でゆっくり下りたという。
「……これは確かに、手足が要るわね。」
エレンは笑い、手紙を持ち直した。彼が出ていって、もうすぐ二年だった。工房には抱えている仕事がいくつもあり、そろそろ本当に助手を雇わなければならなかった。その相談を書こうと、図面を横へ寄せて便箋を出した。次の滞在先を確かめようと手紙を読み返し、いつものように最後の行まで目を通したところで、手が止まった。
次の町の名がなかった。宿の名も、転送を頼む先も書かれていない。もう一度初めから読んだが、やはりなかった。どこへ返せばよいのかと考え、筆先を浮かせたとき、工房の扉が叩かれた。
新しい客だろうか。そう思って立ち上がり、いつもの癖で前掛けに指を拭った。いつの間にか、窓からの光だけで夕方近くまで作業できるようになっていた。扉を開けると、春の冷たい空気と一緒に、かつて見慣れた色が目に入った。
ロイドが立っていた。旅装の外套を着て、左手には花束を抱えている。濃い金色の髪は以前と変わらず綺麗なままだったが、少しだけ春の風に乱れていた。
緑の目はこちらを見たまま動かず、口元が、何か言う前に一度引き結ばれる。
「エレン。……今、帰った。」
呼ばれた自分の名が、知らない響きで聞こえた。エレンは瞬きをし、彼の顔から外套へ、花へと目を動かして、また顔へ戻った。
「どうしたの?用事は、全部終わったの?それとも、どこか具合が悪くなった?」
「不具合はない。十八人分、全て回り終えた。」
いつもの硬い答えだった。その声で、ようやく彼がそこにいるのだとわかった。
入って、と慌てて身体を引くと、ロイドは少し緊張した面持ちで敷居を越えた。庭へ続く戸を一度見て、それから工房を見回す。
彼が使っていた机の上には部材が所狭しと並べられ、窓際には書きかけの図面が何枚も広がっていた。
ロイドは何かを確認するようにもう一度部屋を見回した後、小さく咳払いして口を開いた。
「それで、その……助手として、雇ってもらえないだろうか。」
エレンは返事を忘れた。ロイドは目を逸らさず、少しだけ息を整えるように間を置いた。けれど、その場を動こうとはしなかった。
「旅の間、ずっとここでのことを思い出していた。やっと自分の人生に向き合えると思った時、ここであなたと働きたいと、そう強く思ったんだ。」
エレンは机の端へ手をついた。ふと、初めて彼と会った日のことを思い出した。可愛い青年だと思った。律儀で、愛想がなく、どうでもよいところで意地を張る。初めて頭を下げたときも、図面を読めずに質問したときも、自分が作った台の具合を何度も確かめていたときも、その顔はどこか不機嫌そうだった。今も同じ顔だった。
そこでふと、これまでと違う、彼にひどく似合わないものが気になった。
「……その花は?」
ロイドの口元が、一度固くなった。左手で抱えていた花束へ右手を添え、それから彼は、まるで訂正の許されない報告をするように緊張しきった硬い顔で言った。
「もし夫でも構わないと言われたら、渡そうと思っていた。」
喉の奥が詰まった。
エレンは思わず彼の側へ歩き、手を伸ばした。そして、花だけを受け取るつもりだったのに、彼の右手を握ってしまった。
包み紙が小さく鳴り、左の指が、彼女へ渡すためにゆっくりと開いた。かつて用事が済めば返してもよいとまで言った手が、今、白と淡い黄色の花束を差し出していた。
「ぜひ、いただきたいわ。」
声が震えたのに気付いたと同時に、頬へ温かいものが流れ落ちた。もう隠そうとは思わなかった。
ロイドの目が揺れ、彼は一歩エレンへ近づいた。花束を机へ置いても、エレンは握った彼の手を離さなかった。そのまま外套へもう一方の手をかけると、ためらいがちに腕が背へ回った。
「……これは、勘違いしても構わないということだろうか。」
エレンは笑おうとして、うまくいかなかった。初めて立った姿を見た時と同じように、その顔を仰ぐ。近くにある緑の目から、今度は逃げずにいた。
「あなた、本当に不器用ね。……可愛い人。」
首へ腕を回して唇を寄せると、一度だけ身体が強張った。それからゆっくりと力が抜け、背へ添えられていた左手が彼女を引き寄せた。そのあとを追うように、右の腕が深く回った。何度も調整した指の力を、エレンは初めて、自分の身体で受け止めた。
「おかえりなさい、ロイド。」
少し離れた唇でそう言うと、ただいま、と低い声がした。エレンは彼の肩へ頬を寄せた。外套には遠い道の匂いが残っていたが、その下の身体は温かかった。彼女が身を預けると、抱く力が、もう少しだけ確かになった。
開いた扉から風が入り、机へ置いた花束がかすかに揺れた。窓の向こうでは、木々の枝に小さな芽がついていた。
工房には書きかけの図面があり、まだ手をつけていない仕事があった。
明日からは、また二人で机に向かえばよかった。




