表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/9

要約すると転生者が色々やって織田幕府と大航海時代が始まったよー的なアレ 本編までの大体の流れ

内藤長忠ないとう ながただ

戦国時代から大阪時代の日本の武将、大名、商人、文化人、発明家、探検家、科学者。少弐内藤氏の祖。内藤財閥の源流。


画像

内藤長忠像(狩野永徳画)


内藤長忠写実絵像(狩野永徳画)


時代 戦国時代〜大阪時代

誕生 天文九年(皇2200・西1540)

死没 承応四年(皇2315・西1655)

改名 内藤鬼夜叉丸(幼名)→長忠

別名 少弐長忠

   仮名:勝三、勝左衛門

   雅号:波進斎、望識、楽睡庵

      波陸斎侘介、阿武楽斎組楽

   渾名:大鬼、鬼神、黒鬼

      西の大鬼、吉備大将

      新地探題、東洋のダヴィンチ

      東洋のオリオン、未来人

戒名 大鬼院殿護国国司鉄布探学文大居士

墓所 健勲神社護国院(京都府)

   剣神社(越前県)

   長忠寺(大阪府)

   尽忠寺大鬼院(吉備県)

   大相国宮護侍殿(吉備県)

   多々良大社(吉備県など)

   蚕馬神社(尾三県など)

   船守神社(近江県など)

   大鬼神社(仙郷県など)

官位 従五位下→従四位→従三位

   贈正二位

   備前守、吉備国司、外海探題

君主 織田信長→織田信忠→織田秀信

藩  吉備岡山藩主・近江今浜藩主

   尾張井上藩主・赤嶺鉄礬ヶ原藩主

   蓬莱望ヶ浜藩主・北奥氷室藩主など

氏族 藤原姓内藤氏→少弐姓内藤氏

父母 父:内藤秀忠 母:寺沢竹

兄弟 内藤勝千代丸、内藤無病丸

   青山吉次(養子)

妻  正室 織田秀子

   側室 有馬幸、山科稀

子  忠吉、忠存、忠広、忠利、忠隆、忠澄

   忠保

   帛、藤、鞠

   初、江(母親不明)

花押 大鬼


概要


画像

長忠公馬揃え姿絵(狩野永徳画)


織田三柱、織田四天王、織田五大老、織田十六神将。

尾張国(現在の尾三県)出身の織田氏家臣。織田信秀の頃から戦で活躍し織田信長おとな衆となった内藤秀忠の嫡男。幕府を開くまで数多の戦で活躍し開府してからは各所を探索して発展と交友を促した。また様々な発明と文化を作り出した学者であり文化人である。


内藤長忠の残した物は非常に多く後世に多大な影響を与えた。また手紙などが非常に多く残っており[後述]歴史研究にも貢献している。


尋常では無い怪力の持ち主にして常軌を逸した回数の一騎打ちを経験した偉人。




生涯


長忠は前半生と後半生を分けて説明しなければならない程に記録が残り、また活躍の仕方も異常な為に別人説が未だに根強いが間違いである。




生い立ち

天文九年(皇2200・西1540)那古野城で生まれた。兄が二人いたが何も夭折している。元服をしていない時点で五尺七寸と凡そ170センチを超えていた。幼少期から織田信長と共に過ごし兄の様に慕っていたという。




初陣から桶狭間まで

天文二十一年(皇2212・西1552)12歳での元服時には長の字を偏諱を受けている。この少し後に半身とも言える青山吉次も元服し初陣を果たすことになった。


その初陣である赤塚の戦いにて柘植之由を一騎打ちで討ち取った上に敵兵七人の首を取り七首一甲の手柄を上げた。柘植之由の首は丁重に遺族へ返還されたと言う。この頃から小姓や馬廻に吏僚として務めを果たし始めた様である。


この初陣から始まり信長の弟や他の織田家との戦いの悉くに参戦した。織田大和守家との戦いでは討ち取った敵の軍馬を手にしたが馬の大きさから青山吉次と得た馬を交換。それが後の大黒と小白で長年戦場を共にする事となった。この頃から鬼と例えられる活躍を見せていた事が信長公記などに記されており著者の太田牛一評では怪力豪胆古今無双と記されており既に勇名を轟かせていた様である。


また火薬を作ろうとして失敗して内藤陣麺、両三蕎麦、うつけ揚げを作り出し之定の脇差を拝領したのもこの頃だと言う。


また長忠が数多残した書物の原著として小姓時代に記した信長公御仕覚書が残っている。これは菓子や茶の置き方に始まり信長の筆記などの片付けの際の配置や控える際の位置などの絵が記されており織田家の小姓必読の物だった。大阪幕府でも信長個人の部分はともかく将軍の側近は必ず目を通す儀礼書として珍重されている。


村木砦の戦いで母方の縁者であった毛利忠之や岩越高定が討死し激昂して壁を飛び上がり今川家の鉄砲隊を鏖殺し大鬼と渾名された。


また手違いで殺されそうになった織田秀孝を助けた事があったが矢を素手で掴んだ事を回顧する手紙が残っており掴んだ本人は忘れていた様である。


ある時、代替わりして織田家と険悪になった斉藤家との戦いで殿軍を信長と務め敵を追撃し半壊させた。


これらの様々な功績から寺沢家、岩越家、毛利家を加えて備を持つ事を許され侍大将となる。それに加えて織田市か織田犬を娶る事を信長から提案されたが余りにも畏れ多い事だと懐古しており他の重臣の言葉もあり織田信光の娘を娶る事となった。尚、信長は織田市や織田犬に本気で拗ねられたらしい。


加えていつ頃かは不明だが灰で石鹸を作った様で後に少量生産され衣類の洗浄などに用いられた。


また母が刺繍を得意とした事から糸車を発明し信長に大鷲の背負胴服を献上し欲しい褒美を尋ねられ養蚕を試す事を願った。これは上洛の後に叶えられ井上職工の元となる。


信長に付き添った上洛は後の松永久秀や後の天下三宗匠の千利休と今井宗久らと縁を結び特に後者からは高機の図面を受け取った。また応仁の乱で別れた大舎人座の内で東陣織と呼ばれた職人集団が室町幕府の裁定により綾織物を作れなくなっており彼等を引き連れて尾張に帰還。信長から受け取った井上城の周辺領地で近江の鉄砲鍛治である国友を参考にした分業体制を構築し白雲織、鬼絹を作る事になる。現、白雲紡績の前身。


尚、この頃から蚕の糞を使った硝石生産がなされていた様である。


森家古文書、柴田家古文書、前田家古文書などの資料により、茶坊事件で森長可と柴田勝家と共に前田利家を庇った。更に前田家古文書には数多くの世話を受けた事が記されており非常に気を遣ったのは確かである。


織田信光の娘である織田秀子を信長の養女として娶り、また井上城城主の遠縁だった有村幸を娶る。その際に百人一首が覚えられず貝合わせが出来なかった為に押せ路を作った。尚、押せ路の弱さは長忠七不思議の一つであり当初から首を傾げられていた。『言継卿記』など。


熱田古文書によると酒の火入れや巨大な樽などを考案している。また桶狭間前であるこの時期に織田家の借用状を買えるだけ買い、千秋季忠を驚かせた。息子に出したとされる千秋文書には織田家への協力姿勢に影響したと述懐されており「意地の張り様如此在るべし」と記されている。


永禄三年(皇2220・西1560)桶狭間の戦いに織田家が勝利した。長忠覚書や内藤家古文書には尋常ではない量の信長の描写と絵が残っておりこの部分だけで長忠覚書の二巻分になる。それによると出陣前に信長が敦盛を舞った際に鼓を叩き破ってしまった事を後年まで引き摺っていたらしい。


長忠覚書や内藤家古文書の全般に言える事だが非常に敵味方を褒める文言が多い。と言うよりは長忠は相手を褒める時に筆が進む様である。特に庵原忠治の事は信長の次に絶賛しており庵原家には弟が持ち帰ったと言う血文字で記された感歎血文字状が家宝として残って居る。


炭焼き小屋や水車などを製作設置したり戦力を強化している。


美濃攻略から嫡男誕生

永禄三年(皇2220・西1560)美濃へ侵攻、殿として敵に突撃、青山吉次と共に長井衛安を討ち取った。当時の斎藤家の文書や織田家の文書から事実である。相当な無茶をしており長忠覚書には自省が綴られており酷く怒られた様である。


勝三の提言で織田家の敵と接していない領地での養蚕や木綿の栽培、少量ながら鉄製農具の製作が成された。また橋本家古文書によると硝石の作り方や早合などを勘案して居る。尚この時期米が足らず内藤陣麺などの兵糧利用はこの頃からだとされる。


最近発見された木下家古文書では木下秀吉の婚姻に助力した事が記されいた。他に斉藤家との小競り合いで復帰した前田利家に鬼縫羽織の一昨である四つ朱槍囲い忠『文化遺産』を送っている。


浅井家との同盟に関わった様で不安がる織田市へ手紙を渡しており、浅井家が無体を働けば打ち据えるとまで書かれており、続けて信長に怒られるので燃やして欲しいと書いてある文が現存して居る。これは長忠が破棄して欲しい書いて残された文書において最古のものである。『養源院起請文』


硝石の製作を成し遂げた褒美に黒鬼平茶碗を授かって居る。滑車台や一角船の勘案製作もこの頃だと推定されており放射性炭素年代測定で裏付けられた。『熱田文書』また領内での畜産も後押しされていた様である。


この間も小競り合いが続いており浅井家と織田家の婚姻関係を結が結ばれた後に美濃三人衆などが降伏し斎藤家も降伏開城した。


永禄八年(皇2225・西1565)に嫡男の内藤忠吉と有馬幸の長男内藤忠存が生まれているが長忠は甚だ取り乱したらしく領内の材木が払底する程に産屋屋敷を建ててしまった。『内藤家古文書』


当時の産屋は簡素な物でありまた出産後は迷信で非常に厳しい願掛けを行なっていたが長忠は安産妙法論という書物を見つけ領内に産屋を建てて効果があるかを検証したと言う。ただし安産妙法論と言う書物は長忠の写本だと言う物意外には確認されておらず、この時期に記された内藤家軍法書と同じ紙を用いられている。その事から長忠の発案だった可能性が指摘されており、悪阻の妻が欲した食べ物は即座に用意して食べさせてくれた事を示しつつ聞いていたものと違う出産に戸惑った織田秀子や妻の手紙が現存し、安産妙法論の原本の捜索や研究が続けられている。




上洛戦から伊勢攻略

永禄八年(皇2225・西1565)に起きた永禄の変の後に細川幽斎が使者として訪れ足利義昭の上洛要請を受けた織田家は六角家と同盟を結び進発。長忠は山科の戦いで本隊先陣総大将を任され三好長逸と戦う。迂回してきた敵を迎撃撃滅した。言継卿記などによると人を殴り飛ばして進んでいたと言う話が語られ懐疑的に見られていた。


ただ織田軍の到着と共に京の治安が回復した事が様々な公家の記録に記されているが特に長忠が金砕棒を担いで走り回り乱暴狼藉を働いた者や慮外者を成敗し回ったと書かれており野盗人攫いの類が消滅したとある。言継卿記には「慮外者、真に空を舞う。三人成虎と申せど驚天動地なり」と記され、これ以外にも当時の公家の手紙に頻出し、今では長忠の怪力は事実とされている。


京がある程度落ち着くと織田家は伊勢攻略に乗り出した。長忠の考案した一角船が活躍し海の動きに合わせ織田家も進軍。夜襲を受けた際に北畠具教と一騎討ちを行い具房を捕らえた。勝三古戦録によると北畠具教は長忠が挙げる猛者の一人である。


朝倉家との戦い勃発と近江平定

足利義昭の手紙が元で朝倉家との仲が悪化し阿波公方の足利義栄についた結果として突如浅井家が裏切った近江騒乱が勃発。その際の長忠の怒りようは凄まじく、織田秀孝を始め様々な家の古文書などで怒髪天と記録されている。


信長と協力関係にあった延暦寺を圧迫していた六角義賢が騙し討ちを受け討ち取られるなど危機的状況であったが長忠は敵の軍勢に夜襲をかけて壊滅させた。長忠の名を用いた躾は各地に伝わっているが浅井家の領地だった土地では未だに躾で悪い事をしたら夜鬼様に追ってもらうと叱られている。


尚この直ぐ後に浅井軍本体も犬上川の戦いで撃滅させているが先陣の柴田家、森家、坂井家が強すぎてやる事が無かったと長忠実記などに記されている。続く記録では攻め込んだ筈の浅井家の城である佐和山城城下町の火事を止めることの方が大変だったらしい。


小谷城攻めでは砦二つと町二つを焼いた軍忠状が残っている。青山与三記によるとこの時の長忠は非常に精神が不安定だったらしく冷静に怒り狂うか激昂して狂乱していた。特に戦織田市の返還後の荒れ様は凄まじく砲撃によって門を攻撃したがトドメを刺したのは長忠が振るった金砕棒だと記されており、実際に現在の近江県門割町では長忠が怒りの余り山本山城の城門を砕いた城砕き伝説が残る。尚、恐ろしい事に人と家屋を薙ぎ倒して進んだとされるが肯定する資料はあっても否定する資料は無い。『阿閉家古文書』『渡辺家古文書』『古今勇将録』など。


これらの功績から長忠は浅井領だった坂田郡を任された。此処に設計から長忠が勘案した城下町と今浜城を作り上げている。琵琶湖に面する平山城であり湊としても整備され、後に琵琶湖水運の要衝となり、ここから内藤水軍の原型が出来上がった。また山林保護を大規模かつ徹底的に始めたのはこの頃からだという。また鉄砲技術集団である国友の保護とその協力を任されており後に大きく影響したのでは無いかとされる。[誰によって?]


この時期の特に大きな発明として輸送における革命の一つである梱手無の原型である船積み木箱がある。また今では場田多芋と呼ばれるバタタ甘薯を知ったのもこの頃で当初は観賞植物として譲られた事が内藤実記に記されていた。


今浜城の街における革新性については今浜城の項目を参照。


城や街の整備に精を出していたが義英派が反撃に出た。朝倉家が近江に侵攻し迎撃の知らせを受け急行したが坂井政尚が討たれてしまい少し後になるが森可成も後に討たれてしまう。この反攻には朝倉家、三好三人衆、比叡山、長島などが協力しており織田家と同盟関係にあった六角義賢も討たれてしまう。この際に都も失陥しており三好三人衆が近江まで進行した。


長忠は内藤水軍によって敵水軍を壊滅させそのまま移送を行い織田信長の進軍に合わせて敵の後方へ強襲揚陸した。尚、この際に大筒の弾を撃ち落としたという。黒坂景久を討ち取っている。


この後の朝倉家の後背を封鎖した石田川の戦いでは長忠が猛者として特に語り継いだ真柄直隆と相対した。真柄直隆は斬鉄剣の一振りである太郎太刀(現越前県真柄神社所蔵)を振るう猛将であり朝倉家との戦いで幾度と無く戦う事となる。この時の一騎打ちは長忠曰く完全に運によるもので撤退せざるおえない真柄直隆に見逃して貰ったという。『正一位織田家蔵大鬼武功話集』『信長公記』


この戦いの後に佐久間信盛が無礼を働き信長が激昂した際に説得を行なっている。『六角記』


京駐屯と大阪本願寺降伏

西近江での戦いの直ぐ後に京に先発し建礼門を守った。庭田日記には長忠が敵か味方か判別ができず切迫したとある。そのまま三好三人衆が京から撤退したので治安維持を担う。


京の治安を憂いた正親町天皇の要請で信長は副将軍となり六角義賢の息子である六角義定を管領として幕府行政を担うことになった。


その一人として信長の要請を朝廷が認可した事で長忠は少弐朝臣を贈姓され備前守を下賜されている。また少し後に近江国の伊香郡と浅井郡を任された。丹羽長秀が敦賀へ進軍する為であるが都の駐屯の必要もありこの時の信用は強固なものであった様である。『信長公記』『健勲今昔話』


この少し後に御札の原点である代文割符の発行をしている。元は琵琶湖の行き来が増えた結果として要は切符として発行した物であった。船賃である良銭にして五十文と交換出来た事から決済手段の簡便化と経済の発展に影響を与えたと言われる。また市杵嶋姫命の絵図が載っていた事から船頭達が御守りとして持つ事もあったという。


本願寺および三好三人衆との戦いで織田信忠に兵站の重要性を伝えている。内藤実記によると川口砦の戦いにおいて生来の大将と織田信忠を絶賛しており時代の将軍に期待をかけていた。また同時に荒木村重との取次役を担い寝返らせている。


本願寺が降伏してからも長忠は村井貞勝などと共に京を維持した。また南蛮人との交渉も織田家として始まっており長忠が求めた蛍石や鉄礬土などの輸入が始まめている。また京が落ち着いた事で開かれた御成の采配で砕棒術を披露した。




義昭放逐

元気三年(皇2232・西1572)に足利義昭が挙兵し織田信長に攻められ、長忠が交渉して降伏させた。この時に怒れる長忠が義昭の篭る槙島城に槍を投げ込み針山の様にしてしまった上に和睦を断られて一面を焼き砲弾を放ったそうである。『言継卿記』


義昭が退去した後は信長に慰労され羽休めをしてから甲斐武田家と交渉を行なっている。国宝の諏訪大権現四つ死巻貝討滅図はこの時送られた。諏訪神社所有。


真壁久幹に棒術を習っているが真壁家文書によると剛の先の技であり教える事が無かった様である。


仙洞院の庭造りを千利休と共に担っており大鬼背負い岩など長忠が手を加えたとされる場所がいくつか残る。また長忠が持ってきたとされる今浜鯉は交雑していない貴重な在来種のマゴイであり別名のカクレ鯉という名前は長忠を恐れているからだという俗信が信じられていた。人慣れしない為に直ぐに隠れてしまう性質なだけである。


朝倉征伐

そして信長の要請により朝倉家を朝敵とし燧ヶ城へ長忠は侵攻。様々な物語や絵の題材とされる真柄直隆との一騎討ちを演じた。各所の古文書に物語の様な一騎打ちが記録されている。


一騎打ちについては燧ヶ城の戦い、内藤長忠の一騎打ちの実証実験または内藤長忠を題材とした作品一覧の項目を参照。


尚この最初の戦いで長忠が引き分けた事で都で騒乱が起きており当時の長忠がどの様に見られていたかが分かる。後にも先にも引き分けただけて驚天動地と記されたのは長忠のみであり、弘法も筆の誤りや猿も木から落ちると同義の燧分けの語源となった。


また水攻めを行った前哨戦で青山吉次や岩越高綱が活躍しているようで内藤日記や内藤実記に詳細が記載されている。


一騎打ちの後に本願寺顕如に反発した本願寺教如が朝倉家に助力し襲いかかってきたが返り討ちにした。この時の活躍は禿首塚や赤染ヶ原や鬼の血洗い池などの地名に残る。


即位礼と馬揃え

朝倉家の降伏を受諾し即位礼における皇室や公家の服装を内藤家が用意した。皇室に伝わる最古の御袍はこの時に作られた物である。


また織田家行った馬備えの準備と参加もしている。また長忠は変わり兜で最も有名な牛鬼大角兜を被った絵はこの時の物。順序は近江と伊賀衆を率いて六番目(小筒大筒が合間に入る為に実際は八番目)を担った。


この後に大老の前身である軍団長に任じられ担当地域を山陽とされる。そして即位礼に参加する為に訪れた武田家を饗応した。




播磨平定

天正元年(皇2233・西1573)備前浦上家の要請を受け宇喜多家の討伐を理由に山陽平定軍を率いた。先ずは播磨を目指し栄賀城を陥落させる。この際に着陣と落城の知らせが同時に届いた程の速攻だったという。


姫路城にて播磨国衆と宴会を開いている最中に宇喜多直家が降伏した。宇喜多直家は毛利家との仲介役を担うと言う条件の提示を行なっており端倪す可らざる胆力と後に長忠が述懐している。


これによって宇喜多攻めは中止となり織田家に反発した播磨国衆の宇野正頼などを討伐した後に備前国(現吉備県)の西大寺に駐屯し安国寺恵瓊と起請文を交わして領地を定めた。


この頃から備前長船派や備前焼の窯元と関係を深めている。


この領地の策定の最中に足利義昭の扇動で荒木村重と播磨の大半が敵に寝返り岸信周が討たれる。長忠は安国寺恵瓊と交渉して即座に進軍し市川で播磨国衆を粉砕。そのまま三木城まで糧食牛馬などを根こそぎ徴発しつつ強引に進軍し落とした。


三木城強攻の後に信長と合流し備前へ帰還して備前三郡と播磨一郡を領地とし斎服山城の建築を始める。長忠の備前統治は今浜時代と同じく港湾を重視しており乙子港の整備も並行して進めた。また美作国の大半を傘下におさめている。


高炉や反射炉を作り大筒の作成に本格的に取り込むのはこの頃であり鶴山白桃公園で有名な津山城の築城はもう少し後の事となる。黒鬼記などを記す大村由己はこの頃に雇われ祐筆となっている。


領地経営をしながら山陰軍団の為に出陣して鳥取城攻めに援軍として出向いており、この際に尼子家残党の山中鹿之介を討ち取った。


そして太政大臣となった信長の武威を示す為という政治的な理由で四国に援軍として出兵し息子たちと共に敵の夜襲を撃滅している。この際に息子に会えたことが非常に嬉しかった様で恥ずかしくなるほどに喜びながら訳の分からない事を言っていたと忠吉、忠存、共に懐古している。『内藤家古文書』


こときの夜襲で五人の敵兵の胴体を薙ぎ払った刀は長忠百八刀の一振りである五胴薙ぎ清光である。


四国の戦いが終わってから長忠は家族を呼び美作の三つの温泉地を巡っており鬼神湯巡りの発祥となった。またこの時に息子達に家庭円満の為に注意すべき事を聞き纏めた嫁取り妙論を送っているが余り役に立たなかったという。『内藤家古文書』


これは多数の嫁取りをする必要がある息子たちを思い出すっての事だったが、このすぐ後に長忠自身が山科稀を娶る事になった。『内藤実記』『今昔笑話』


この時には織田家と毛利家は同盟関係となっていた。そこで九州で泥沼の戦いを打破する為に毛利家は織田家に援軍を要請。それに応える形で内藤家水軍と黒田官兵衛を送っている。




対上杉戦

上杉家と教如派一向宗が手を組んだ為にその討伐を開始。事前準備として長忠は船大工を丹羽長秀の元に派遣し柴田勝家の助力に向かった。主に道中の港整備のためで此の時整備された港は日本海航路の要衝となる。


また事前準備の一環として織田家との関係を強化しつつあった北条家との交渉にも織田家の絹織物に纏わる代表として臨席しており北条玄庵を卒倒させた。初陣で会った怪物を想起させたらしいがおそらくは三浦義意の事である。これは後の上野織物問題の端緒とも言える出来事だった。


長忠記、内藤実記、内藤回顧録や最初期の漫画作品などの原本は此の頃の加賀で書かれ始めた物であり正確性と文章量と絵数が非常に増加する。非常に織田信長および織田信忠や優れた敵味方など特定人物の礼賛が二倍から五倍に増える為に要所を抜き取る必要がある。


織田信長の項目、織田信忠の項目、上杉征伐以降の長忠の戦いの項目を参照。


湊の整備をしながら富山城まで進み佐々成政と交代して守備に当たった。内削り筒が初めて用いられたのは富山城の戦いである。教如派と上杉家の攻撃を防いだ。また同時に此の時に長忠が用いた槍の様に巨大に矢が奉納されている。


詳細は富山城の戦いを参照。


尚、短槍とも言える大きさにから実際に用いられたか疑問視されていたが、後に実際に用いられた事が付着した血などから確定した。しかし未だに物理的におかしいとする研究者も多い。


詳細は長忠の四つ抜き矢の項目または長忠伝説実証実験一覧の項目を参照。


富山城に籠って敵を迎え撃つ役割を担っていたが上杉謙信が迂回して越中に着陣した信長本陣を襲った。長忠も即座に反転したが本戦には間に合わず信長を討ち損ねた上杉軍を待ち伏せて強襲。本庄繁長と相見え逃してしまうが上杉軍の足止めは果たした。


その後は信忠の軍監として魚津城の戦いに参加し陥落後は兵站の管理や織田信長への報告をになっている。魚津城攻めにおいて元服はしていないが信忠の側近として従軍していた息子達と沓を並べる事に喜び、船から飛び降りた事が息子達の手紙に残っており人柄を窺わせる。また国宝の越中戦役御右大将陣中鎧御姿を描き信長に送った。


それからは武田家の援軍を迎え、更に各所の防衛線を構築するも、上杉軍が強行突破してしまう。長忠も急遽敵の後を置い方貝川の戦いで本庄繁長と決着をつけた。




九州征伐

天正五年(皇2237・西1577)に足利義昭が九州に逃亡した。毛利家の庇護下にあった義昭であるが九州で毛利家と戦っていた大友家と接近しており島津家と龍造寺家を引き入れた為である。


従来だと義昭は謀略の天才であるかの様に描かれていたが昨今の発見の結果この時の事を意味不明だと記し降伏する手を問う書状を柳沢元政に何度も出していた事がわかった。此の発見された古文書は全て柳沢元政からの返書であるが全ての文面で降伏が難しいことを報せており最後には腹を切る覚悟を決める様に促している。


その為に備後の三村家が毛利家に背いて宇喜多家を攻撃し長忠に鎮圧された。此の縁から後の宇喜田騒動に関わる事になっている。この時に宇喜多が織田家参加に入ったが人質に出された宇喜多心家に紙飛行機を贈った。


織田信長の作戦により長忠は先鋒大将として府内城へ上陸。兵の移送中に南蛮船との戦いが勃発し、南蛮船に乗っていた島津家に対する警戒を深めた。この際に島津又七朗を捕らえている。


尚、おそらくは家久なのだが息子の豊久であれば十にもなっていない事になる。当時の島津家の状況や長忠の反応から否定もしきれない。もし息子の方であれば歴戦の長忠が九州勢を非常に警戒し弾薬をかき集めて徹底的な攻撃をした理由となりえてしまう。


臼杵城攻略中に九州連合が襲来し現在の大鬼湯宿に陣を張って迎え討った。この朝見河内川の戦いで島津義久と一騎討ちを行い金砕棒を斬られている。これは真柄直隆以来のことであった。


その後は北上しつつ各地に軍勢を送り虱潰しに平定。多数の感状が現存しており前線には出なかった様である。信長と合流してからは幕府についての相談を受けており幾つか提案をしたという。


長忠最後の一騎打ちの舞台となる今山の戦いは織田信長の本陣前に陣取り龍造寺隆信を討ち取った。


この九州征伐でキリスト教への印象が大きく変わったのではないかとされる。[誰によって?]


幕府の成立した年に大老に任じられ喫緊の問題となりつつあった浪人問題の対応として南方探索の提言を行った。勝三の説得により日本の大航海時代が始まることとなる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ