9話「持ち帰ってはいけない記憶」
――落ちた。
そう思った次の瞬間には床に叩きつけられていた。
鈍い痛みが背中に走る。
ナオは咳き込みながら目を開ける。
白い、あの空間だった。
何もなかったみたいに、壁も床も天井も白い。
さっきまで見えていた黒い領域も、モニターも、文字列も消えている。
全部、なかったことにされたみたいな。
「……っ」
右手に、まだ感触が残っていた。
誰かを掴んでいた感覚。
ナオは反射的に横を見る。
少し離れた場所に、サチが倒れていた。
「サチ」
呼ぶ。
返事はない。
ナオは立ち上がり、すぐそばにしゃがみ込む。
「おい、サチ」
肩に手をかけた、その瞬間。
サチが息を呑むように目を開いた。
そして、ナオの手を振り払った。
「触らないで!」
鋭い声だった。
ナオの手が止まる。
サチは自分でも驚いたみたいに息を乱し、そのまま数歩分の距離を取った。
肩が震えている。
「……サチ?」
呼んでも、すぐには返事がなかった。
サチはナオを見ている。
でも、その目には戸惑いだけじゃなく、もっとはっきりした感情があった。
恐怖だ。
「……どうした」
低く聞く。
サチは喉を鳴らし、それからやっと声を絞り出した。
「分からない」
「でも、今、触られた瞬間……」
視線が揺れる。
「すごく、嫌だった」
ナオの胸が冷える。
「嫌って……」
「違う」
サチはすぐに首を振る。
「あなたが嫌なんじゃない」
「じゃあ何だよ」
「分からないって言ってるでしょ!」
珍しく声が荒れた。
空気が張る。
サチは唇を噛み、目を伏せる。
「……ごめん」
小さく言う。
「でも、本当に分からないの」
「頭の中、ぐちゃぐちゃで」
ナオは黙る。
持ち帰ってしまったんだ。
あの向こう側で見たものの、一部を。
修正しきれなかった断片を。
「……何を見た」
ナオが聞くと、サチの肩がわずかに跳ねた。
「覚えてない」
「でも」
「あなたが消える映像、見た気がする」
ナオは息を止める。
やっぱりだ。
あれは自分だけじゃなかった。
「それで?」
サチは目を閉じる。
「そのあと、私――」
言いかけて止まる。
喉の奥で言葉が詰まっているみたいだった。
「……泣いてた」
かすれた声。
「ものすごく」
ナオは何も言えなかった。
分かってしまう。
記憶じゃない。
感情の傷跡だけが残ってる。
それが今、サチの中で暴れている。
『補正を開始します』
唐突に声が落ちた。
ナオとサチが同時に顔を上げる。
いつもの無機質な声。
けれど、前よりわずかに強引だ。
『プレイヤーの認識誤差を確認』
『記憶領域の再整合を行います』
「……再整合?」
ナオが眉をひそめる。
その瞬間、床に細い光の線が走った。
白い空間の中央に、円が浮かび上がる。
『第七プロセス。「補完」』
「ゲーム……じゃねえのか」
ナオが吐き捨てる。
だが、返答はない。
『プレイヤーは円の内側へ移動してください』
『不足している記憶の断片を補完します』
サチが顔をしかめた。
「……補完って、何を?」
『観測された誤差の修正を行います』
「修正、でしょ」
サチが低く言う。
「補完じゃなくて」
ナオは光の円を見るが嫌な感じしかしない。
けれど、ここで逆らっても何が起きるか分からない。
いや、もう分かっている。
逆らえば、向こうは焦る。
だからこそ、乱暴に来る。
「……入るしかねえか」
ナオが言うと、サチは頷かなかった。
ただ、円を見たまま固まっている。
「サチ」
「これ、嫌」
その声は小さかった。
「すごく嫌」
ナオは一瞬だけ言葉に詰まる。
でも、今は分かる。
ただの恐怖じゃない。
サチは本能で感じ取ってる。
これに入れば、自分の中の何かがまた消されるって。
「……俺もだよ」
ナオは言う。
「でも、何も知らねえまま削られるより、少しでも見ておきたい」
サチが顔を上げる。
その目はまだ迷っていた。
「見たら、余計壊れるかもしれない」
「もう壊れてる」
ナオは静かに返す。
「だったら、せめて何に壊されたかくらい知りたい」
沈黙。
長くはなかった。
サチはゆっくりと息を吐いて、円の方へ歩き出す。
ナオも並ぶ。
光の中へ足を入れた瞬間、視界が反転した。
白い空間が、病室に変わる。
消毒液の匂い。
薄いカーテン。
午後の光。
ナオは立ち尽くす。
知っている場所じゃない。
でも、知っている気がする。
ベッドの横に誰かが座っていた。
サチだ。
今より少しだけ幼い表情で、ベッドの上を見つめている。
その視線の先。
横たわっているのは――ナオだった。
「……は?」
声が漏れる。
ベッドの上の自分は、ひどく痩せていた。
顔色も悪い。
呼吸をするのもしんどそうだ。
サチが、その手を握っている。
強く。
なくすまいと、するみたいに。
そして、ベッドの横で呟いた。
「ねえナオ」
「また忘れても、また会えるよね」
ナオの背筋が凍る。
その言葉。
軽く言えるようなものじゃない。
サチは泣いていた。
声を殺して、それでも止めきれない涙を零しながら。
「次も……次も、私を見つけてよ」
ベッドの上のナオが、かすかに笑う。
青白い顔で。
それでも、少しだけ優しく。
唇が動く。
今度は、はっきり聞こえた。
「……何回でも」
その瞬間、映像が歪む。
サチが息を呑んだ。
「……これ」
ナオは答えられない。
病室の空気が、ひび割れるみたいに崩れていく。
白いノイズが混ざる。
『補完不能領域を確認』
『該当記憶の切除を実行します』
「やめろ!」
ナオが叫ぶ。
咄嗟に前へ出る。
だが手は届かない。
映像の中のサチが、泣きながらナオの手を握っている。
それが、ノイズに食われていく。
場面が崩れる。
光景そのものが削除されるみたいに。
サチが、苦しそうに頭を押さえた。
「……っ、やだ」
「サチ!」
「これ、消したくない……!」
ナオは目を見開く。
今、サチははっきり言った。
記憶じゃない。
でも、自分の中で何かが叫んでる。
これは消しちゃいけないと。
『修正を完了します』
『観測誤差を――』
「黙れ!黙れよ!」
ナオは怒鳴った。
その声が空間を揺らす。
白いノイズが一瞬、止まる。
サチがナオを見る。
涙で滲んだ目。
でも、そこにはさっきまでの拒絶はなかった。
代わりにあったのは、もっと生々しい感情だ。
怖い。
でも、失いたくない。
……その矛盾。
ナオはサチへ手を伸ばした。
今度は、振り払われない。
サチの手が、ナオの指を掴む。
弱くも、確かに。
『異常反応を確認』
『補正を中断します』
空間がまた揺れる。
病室の景色が崩れ、白へ戻っていく。
最後に、映像の中のサチの泣き顔だけが残った。
それもすぐに消える。
気づけば、二人はまた白い空間に立っていた。
呼吸だけが荒い。
サチはナオの手を掴んだまま、俯いていた。
「……サチ」
呼ぶと、サチはゆっくり顔を上げる。
目元は赤い。
「……私」
「あなたを忘れるの、もう嫌かもしれない」
ナオの胸が、強く痛んだ。
ようやく掴みかけたもの。
でも、それは同時に、このゲームの一番壊したくない核でもある。
だから向こうは修正しようとする。
消そうとする。
ナオはサチの手を握り返した。
「だったら」
低く言う。
「もう忘れねえとこまで行くしかない」
サチは何も言わなかった。
でも、その手は離れなかった。




