8話「壊れたルールの向こう側」
空間が悲鳴みたいな音を立てた。
白い壁に細い亀裂が走る。
床が震え二人の間にあった透明な板が明滅した。
『警告』
『警告』
『規定外の行動を確認』
無機質だった声が初めてわずかに乱れた。
ナオは目を細める。
やっぱりだ。
このゲームは絶対じゃない。
壊せる。
少なくとも、傷はつけられる。
「サチ、下がるな」
ナオが言う。
サチは頷き、透明な板に手を当てたまま動かない。
「壊すの?」
「壊れるなら……な」
警告音が強くなる。
白い天井にノイズが走った。
壁の一部が、砂嵐みたいにぶれる。
完璧だった空間が、初めて“作り物”の顔を見せた。
『直ちに承認を行ってください』
『規定時間まで残り五秒』
「嫌だね」
ナオは吐き捨てた。
サチが、横目でナオを見る。
泣きそうだった顔が、少しだけ笑っていた。
「ほんとにやるのね」
「ここで従ったら終わりだろ」
「そうね」
「私も……もう嫌!」
その一言と同時に、サチも板を強く押した。
その瞬間。
透明な板が、大きくひび割れた。
白い光が弾ける。
激しいノイズ。
二人の視界が白に塗り潰される。
ナオはとっさに目を閉じた。
次に感じたのは、浮遊感だった。
床が消える。
落ちる。
あるいは、引きずり込まれる。
上下も分からない感覚の中で、ナオは反射的に手を伸ばした。
何かを掴む。
細い手首。
「……サチ!」
「……っ、離さないで!」
珍しく、サチの声がはっきり揺れていた。
ナオは力を込める。
白い空間が砕ける。
ひびの向こうから、別の景色が覗いた。
真っ白じゃない。
黒い。
無数のモニターみたいな光。
数字と文字列。
そして、いくつもの映像。
その中の1つに、ナオは目を奪われた。
映っていたのは――自分たちだ。
今の自分たちじゃない。
もっと前。
何度も。
繰り返し。
違う服装。
違う表情。
……けれど、同じ二人。
ナオとサチ。
「……なんだよ、これ」
喉の奥が冷える。
サチも、その映像を見て固まった。
そこには、いくつもの“終わり”があった。
ナオが一人で立っている映像。
サチが一人で泣いている映像。
二人が背中合わせの映像。
そして――
どちらかが消えた直後みたいな、空白の映像。
それが、何個も、何個も並んでいる。
「……繰り返してる」
サチが、かすれた声で呟く。
「私たち……一回じゃない」
ナオは答えない。
答えられない。
もう、それはほとんど確信だった。
何度もここまで来た。
何度も最後で切り離された。
そして多分、そのたびにどちらかが願った。
もう一度、会いたいと。
『アクセス権限外の領域です』
『直ちに離脱してください』
声が響く。
今度は、はっきり焦っていた。
無機質なまま取り繕ってはいる。
でも、遅れている。
乱れている。
ナオはサチの手首を掴んだまま、一歩踏み出した。
白い床じゃない。
黒い格子状の床。
踏める。
その先に、縦に並ぶモニター群があった。
ひとつひとつに、見たくもない断片が映っている。
サチが、小さく息を呑む。
「あれ……」
彼女の視線の先。
一枚の画面。
そこに映っていたのは、ナオだった。
けれど、今のナオじゃない。
血だらけで、膝をついている。
目の前には、立ち尽くすサチ。
泣いている。
唇が震えている。
そしてナオが、笑っていた。
苦しいはずなのに。
どこか、諦めたみたいに。
その唇が動く。
音はない。
でも、ナオには分かった気がした。
――またな。
そんなふうに見えた。
次の瞬間、映像の中のナオが消える。
画面の中のサチが崩れ落ちる。
その映像が、ぶつりと切れた。
「……やめて」
サチが呟いた。
ナオが振り向く。
サチの顔が青ざめている。
「サチ」
「やめて……もう、見たくない」
声が震えていた。
無理もない。
記憶がなくても分かってしまう。
これはただの映像じゃない。
自分たちが本当に辿ったかもしれない結末だ。
それも、1回じゃない。
『最終警告』
『システム補正を開始します』
空間が低く唸る。
黒い床の下から、白い光がせり上がってくる。
ナオは舌打ちした。
「戻される」
「……っ」
サチはまだ画面から目を離せないでいる。
ナオは迷わずその肩を掴んだ。
「見るな!」
サチが、はっとしたようにナオを見る。
「今は無理だ」
「でも……!」
「分かってる」
ナオは低く言う。
「俺も見た」
「でも今ここで全部見たら、多分、持ってかれる」
サチの目が揺れる。
悔しさと、恐怖と、混乱、全部が混ざっていた。
白い光が、もう足元まで迫っている。
時間がない……そのとき。
ひとつのモニターが、急に切り替わった。
映ったのは、文字だった。
無機質な白文字。
それだけ。
でも、その内容にナオは息を止める。
【最終到達回数:12】
【生存到達記録:ナオ/サチ】
【最終選別実行回数:12】
「じゅう……に……?」
サチが呟く。
ナオの喉が乾く。
12回。
ここまで来た回数。
12回も。
その下に、さらに文字が浮かぶ。
【願いの発生源を特定済み】
【再会要求の継続を確認】
【ゲーム継続は願いの残滓により自動維持】
ナオは目を見開いた。
願いの、残滓。
つまり、このゲームは。
運営が一方的に作っただけじゃない。
自分たちの願いが、燃料になっている。
「……私たちが」
サチの声が、かすれる。
「続けさせてたの……?」
その瞬間、モニターが激しく明滅した。
文字が崩れ、画面が黒く潰れる。
白い光が一気に膨れ上がった。
『強制補正を実行します』
『異常領域を切断します』
ナオは舌打ちし、サチの手を掴む。
「走るぞ!」
「どこに!?」
「知らねえよ!」
でも、止まったら終わる。
二人は黒い床を駆けた。
背後から白い光が飲み込んでくる。
まるで消去そのものが迫ってくるみたいだった。
サチが息を切らしながら言う。
「ナオ!」
「なんだ!」
「12回って……本当なら」
「私たち、何回お互いを失ってるの」
ナオは答えられなかった。
答えたくなかった。
その数字が持つ意味を、認めたくなかった。
けれど、もう遅い。
知ってしまった。
自分たちは、初めてじゃない。
何度もここに来て。
何度も壊れて。
それでもまた会いたいと願ってきた。
その執着が、今の地獄を回している。
白い光が、ついに二人を飲み込んだ。
視界が真っ白になる直前。
ナオはサチの手を、もっと強く握った。
「離すな!」
「分かってる!」
その声だけが、最後まではっきり聞こえた。
次の瞬間。
世界が反転した。




