最終話「君を忘れないために」
空間の奥で、何かが軋んだ。
白い壁が細かく震える。
まるで、この結論だけは認めたくないとでも言うみたいに。
ナオは伸ばしかけた手を止めずに、そのまま光へ向けた。
サチも同じだった。
二人とも、もう迷っていない。
『警告』
『終了条件の達成を阻害します』
無機質な声が、初めて露骨にそう言った。
ナオは笑う。
「ほらな」
サチも、かすかに笑った。
「最後まで性格悪い」
その瞬間、白い床が裂けた。
二人の足元から、黒い亀裂が走る。
空間そのものが形を保てなくなっていた。
白と黒が混ざる。
光とノイズがぶつかり合う。
『継続を推奨します』
『再接続は最優先事項です』
『終了は願望残滓の完全消滅を意味します』
サチが目を細める。
「だから何よ」
一歩、前に出る。
「それを選ぶのは、私たちでしょ」
ナオは横目でサチを見た。
強い。
今までで一番、迷いのない顔をしていた。
思い出したわけじゃない。
全部戻ったわけでもない。
それでも、ここで終わらせると決めている。
そのことが、どうしようもなく胸に刺さった。
この人は、本当に強い。
そして多分、自分が何度忘れても、また惹かれるのはこういうところなんだろうと、ナオは思った。
『最終選択を中断します』
『代替処理へ移行』
「代替?」
ナオが眉をひそめた瞬間、二人の前に光が集まる。
ひとつの人影になる。
揺らいで、崩れかけている。
でも、その輪郭を見た瞬間、サチの呼吸が止まった。
「……お兄ちゃん」
そこに立っていたのは、岡野 紳悟だった。
屋上で見た姿と同じ。
少しだけ困ったように笑う顔。
サチが一歩、前へ出る。
「お兄ちゃん……!」
けれど、人影は首を横に振った。
「違う」
優しい声だった。
「これは、俺じゃない」
「俺の記録を使って作った、ただの残りカスだ」
サチの顔が歪む。
ナオは奥歯を噛んだ。
あまりにも悪趣味だ。
最後の最後で、兄の姿を使って揺さぶる。
だが、その人影はどこか寂しそうに笑った。
「……でも、言いたいことは同じだよ」
今度はナオを見る。
「お前ら、もう十分だ」
その一言で、空間の音が少し遠くなった気がした。
「何回も会って、何回も失って、それでもここまで来た」
「だったら、もう終わらせていい」
サチの目から、涙が落ちる。
「でも……」
「でもじゃない」
やわらかいのに、強い声だった。
「“また会いたい”って願うのと、“もう苦しまなくていい”って願うのは、裏切りじゃない」
ナオの胸が、強く軋んだ。
それを、ずっと誰かに言ってほしかった気がした。
終わらせるのは、見捨てることじゃない。
忘れることを選ぶんじゃない。
苦しみ方を変えるだけだ。
人影が、少しずつ崩れていく。
ノイズが混ざる。
時間がない。
「サチ」
ナオが呼ぶ。
サチは涙を拭わずに振り向いた。
「行けるか」
サチは答えなかった。
代わりに、ナオのそばまで歩いてくる。
それから、そっと手を伸ばした。
指先が、ナオの手に触れる。
今度は透明な板もない。
ちゃんと、触れられる。
ナオは目を見開いた。
「……サチ」
「全部は思い出してない」
サチが言う。
「でも、分かる」
「私、何回でもあなたを選んだ」
喉が詰まる。
「だから今回も……選ぶ」
ナオはゆっくり頷いた。
「ああ」
「終わらせよう」
二人で、同じ光に手を伸ばす。
白い光。
“終了”の側だと、もう分かっていた。
その瞬間。
空間全体が悲鳴みたいに軋む。
『継続要求を確認』
『後続願望を確認』
『再接続を――』
「いらねえよ」
ナオが吐き捨てる。
「もう、次はいらない」
サチも続けた。
「会いたいって思うことまで消せなくてもいい」
「でも、それでまた地獄を続けるのは、もう違う」
光が強くなる。
足元の黒い亀裂が、一気に広がる。
白い空間が崩れ始めた。
壁が砕ける。
天井が落ちる。
何もかもが、終わろうとしていた。
それでもナオは、サチの手を離さなかった。
「ナオ」
「ん?」
「もし、これで本当に全部終わったら」
「今度は普通に会いたい」
ナオは少しだけ笑う。
「今さらだな」
「うるさい」
泣きながら、サチも笑った。
「だって、そういうの、一回くらいあってもいいでしょ」
「ああ!」
ナオは、しっかりと頷く。
「そのときは、ちゃんと最初からやり直そう」
「忘れてても?」
「忘れてても」
「どうなろうと、またお前を見つける」
サチが泣きそうに目を細める。
「……遅いのよ」
「知ってる」
次の瞬間、光がすべてを飲み込んだ。
白い空間が砕け散る。
声も、音も、記録も。
何もかもが、遠ざかっていく。
ナオは最後まで、サチの手の温度だけを確かめていた。
それだけは、消えない気がした。
目が覚めたとき、ナオは病院の待合室にいた。
白い天井。
淡い消毒液の匂い。
現実の白だ、とぼんやり思う。
いつの間にか眠っていたらしい。
自販機の音がして、ナオは顔を上げた。
少し離れた場所に、ひとりの女が立っている。
30歳くらい。
短めの髪。
どこか見覚えのある横顔。
女も、ナオに気づいて顔を上げた。
一瞬だけ、目が合う。
その瞬間。
胸の奥が、理由もなく軋んだ。
相手も同じだったのか、少しだけ目を見開く。
けれど、何も言わない。
言えない。
知らないはずだから。
それでも。
ナオは立ち上がった。
女が戸惑ったように瞬く。
近づいて、少しだけ迷ってから、ナオは言った。
「……どこかで会いました?」
女は一瞬だけ黙る。
それから、ふっと小さく笑った。
「さあ」
「でも、初めてって感じはしないかも」
ナオも、つられて少しだけ笑う。
それだけで十分だった。
今度こそ、本当に最初からだ。
でも悪くない。
そう思えた。
【初期願望登録者ログ 削除完了】
【後続願望ログ 削除完了】
【再接続プロセス 終了】
【観測領域 閉鎖】
一秒の沈黙。
何もないはずの暗闇に、最後の文字が浮かぶ。
【観測外記録を確認】
【識別名:R-13】
【再起動条件:未達成】
【新規登録者……確認しました】
その表示は、何かが動き出す音と一緒に、すぐ消えた。




