10話「最初の願い」
白い空間は、また何事もなかったような顔をしていた。
さっきまで病室だった場所も、泣き声も、約束も、もうどこにもない。
残っているのは、ナオの手の中の熱だけだ。
サチの手。
まだ離れていない。
離す理由も、もう見つからなかった。
「……今の、見たよね」
サチが小さく言う。
ナオは頷く。
「ああ」
「病室だった」
「お前がいた」
「俺もいた」
「あと……もう一人、いなかったか」
サチの指先が、わずかに強ばる。
ナオは目を細めた。
やっぱりだ。
自分だけじゃない。
あの記憶には、二人以外の“誰か”の気配があった。
はっきり映っていたわけじゃない。
でも確かに、いた。
窓際。
あるいは扉の近く。
ずっとこちらを見ていた、誰か。
「……いた気がする」
サチが答える。
「でも、顔が出てこない」
「名前も」
「最初から消されてるみたいに」
ナオは奥歯を噛む。
今までだって、そういうことはあった。
誰かが消えれば、その存在は薄れる。
関係の薄いものから順に。
でも、今回のそれは違う。
最初から“そこだけ削ってある”感じだ。
都合よく。
見せたくない部分だけを。
『補正不能領域の残留を確認』
天井から声が落ちる。
ナオとサチは同時に顔を上げた。
いつもの無機質な声。
けれど、もう誤魔化しきれていない。
どこか切羽詰まっている。
『例外処理を実行します』
『第八プロセス「原点照合」』
「また来るか」
ナオが吐き捨てる。
床の中央に、今度は扉のような長方形の光が浮かんだ。
白い空間の中に、そこだけ黒い部分は穴みたいだった。
『最初の記録へ接続します』
その一言で、サチの手がぴくりと震えた。
「……最初」
サチが呟く。
ナオはその言葉を繰り返さなかった。
代わりに、光の扉を見つめる。
最初。
そこに、何がある、何が始まった。
そして……誰が願った。
「行くぞ」
ナオが言う。
サチは顔を上げた。
まだ怖がっている。
でも、目は逸らしていない。
「……うん」
二人で、扉へ踏み込む。
その瞬間、すぐに空気が変わった。
白は消える。
代わりに広がったのは、夕焼けだった。
古びた屋上とフェンス。
強い風。
ナオは目を細める。
知っている場所じゃない。
でも、知っている気がした。
フェンスの前に、三人いた。
……ナオ……サチ。
そして――もう一人。
「……っ」
サチが息を呑む。
その“三人目”は、今度ははっきり映っていた。
若い男。
二人より少し年上に見える。
笑っているわけでもない。
でも、どこか優しい目でこちらを見ていた。
ナオは胸の奥がざわつくのを感じる。
知らないはずなのに、完全に他人には見えない。
映像の中のサチが、その男に向かって何かを言う。
風に声がちぎれる。
けれど、次の瞬間だけ、妙にはっきり聞こえた。
「――兄ちゃん」
サチの手が、強くナオの手を握った。
ナオは横を見る。
サチの顔が真っ白だった。
「お兄……ちゃん……?」
自分で口にして、信じられないみたいに震えている。
映像の中の男が笑う。
やわらかく。
そして今度は、ナオを見る。
その視線が妙に近い。
まるで、ずっと前から知っている相手を見るみたいに。
「お前ら、またそんな顔して」
今度は声が聞こえた。
はっきりと。
「二人とも、抱え込みすぎなんだよ」
ナオの喉が詰まる。
知ってる。
この声。
知らないはずなのに、聞いた瞬間に胸が痛んだ。
映像の中のサチは泣きそうな顔で俯いていた。
ナオも、今よりずっと荒れた表情で黙っている。
あの頃の二人は、多分もう限界だった。
そこで、兄が言う。
「じゃあ約束しろ」
「どっちかが消えそうになっても、もう片方がちゃんと引っ張れ」
「見失うな」
「何回でも、見つけろ」
その言葉に、風が止まった気がした。
次の瞬間、景色が大きく揺れる。
夕焼けの屋上がノイズに侵される。
男の輪郭が崩れ始める。
「待って!」
サチが叫ぶ。
初めて、自分から。
「待って……兄ちゃん!」
男は消えかけながら、それでも笑っていた。
そして最後に、はっきりと言った。
「頼んだぞ」
誰に向けたのか。
サチか。
ナオか。
それとも二人へか。
分からないまま……映像は白に潰れた。
景色が壊れる。
代わりに真っ黒な画面が現れる。
そこへ文字だけが浮かび上がった。
【初期願望登録者:岡野 紳悟】
【登録願望:二名の再会維持】
【優先目的:生存ではなく再接続】
ナオは言葉を失う。
生存ではなく。
再接続。
サチの呼吸が浅くなる。
「……お兄ちゃんが」
掠れた声。
「始めたの……?」
『訂正』
唐突に、声が割り込んだ。
いつものシステム音声。
だが今は、明らかに邪魔されたような不自然さがあった。
『初期願望登録者は、システム起動の許可者にすぎません』
『継続原因は、二名の後続願望です』
文字列がさらに浮かぶ。
【願いの発生源を確認】
【ナオ:もう一度会いたい】
【サチ:忘れたくない】
【相互干渉により循環固定】
サチが震えた。
ナオも、拳を握る。
つまり。
兄の願いが扉を開けた。
でも、そのあとこの地獄を回し続けたのは――自分たちだ。
「……じゃあ俺たち」
ナオが低く言う。
「助けられてたんじゃなくて、延命されてたのか」
『肯定』
『本ゲームは二名の再接続を最優先に設計されています』
『ただし、生存の保証は目的外です』
その一言で、全部が繋がる。
何度も会える。
でも、何度も失う。
生き残るためじゃない。
再び“出会わせる”ためだけの仕組み。
あまりにも歪だ。
あまりにも残酷だ。
サチが、小さく呟く。
「……兄ちゃんは、こんなの望んでない」
ナオは答えない。
でも、同じことを思っていた。
これは祈りの形をした呪いだ。
善意が壊れた。
『記録照合を終了します』
『次段階へ移行します』
黒い画面が崩れる。
白が押し戻してくる。
その寸前、最後の文字が浮かんだ。
【このゲームは、あなたたち二人のために作られました】
【ただし、あなたたち自身が生き残るためではありません】
白がすべてを飲み込んだ。




