20 スイッチ
その名前に、私の体は一瞬強ばった。だけど、すぐに元通りになって見せた。絶対に悟らせないように。
「……うん、お母さん。大丈夫だよ」
大丈夫。ちゃんと『愛』として返事できたはず。
「それで寄り道は楽しかった? お友達とどこに行ってきたの? カフェ? ショッピング?」
「ええと……パティスリーだよ。『アリス』っていう……」
「いいわねぇ。でもいくら美味しくても食べ過ぎちゃダメよ。当分の取り過ぎだって、まだ注意しなきゃ」
「う、うん……」
本当は世界で一番甘いものを二つも食べたんだけど……この様子だと黙っておいた方が良さそうだ。でないと、また……
「本当に? まだ一年ちょっとしか経ってないんだから、油断したらダメよ。いくらヒトミの方は平気だったからって……」
そこまで言うと、お母さんは急に動きを止めた。スイッチが切れたみたいに。
そして何度か瞬きをしたかと思うと、怪訝な表情で私を見る。
「……ヒトミ? 何してるの」
淹れたての紅茶のようにほかほか温かだった声は、急に凍り付いたように温度をなくした。
「あ、えぇと……ただいま。今、帰ってきたところだよ」
お母さんは「そう」とだけ言うと踵を返した。
去ろうとする背中に、何か言わねばと思った。私は咄嗟にバッグからお弁当箱を取り出した。
「あの……お弁当、ありがとう。美味しかった……です」
お母さんは振り返り、チラリと視線だけを投げかける。そして……
「お弁当? なんのこと?」
「えっと……」
お母さんが作ってくれたんだよ、なんてとても言えない空気が流れた。次の言葉を考えていると、お母さんは珍しく笑った。口の端だけを持ち上げた、歪んだ笑みを。
「……誰か、あんたを大事にしてくれる人がいるのえ。良かったわね。愛と違って、あんたは人工子宮でぬくぬくと、大事に大事に育てたもんねぇ」
そう言うと、今度こそそっぽを向いて行ってしまった。
私の事なんて、まるで興味がないような、色も温もりもない顔だった。
「ああ。スイッチ、切り替わっちゃったか……」
朝は確かに、私に御念頭を渡してくれて、笑顔で送り出してくれたのに。
「惜しかったな……あともうちょっと、あのままだたら『ごちそうさま』って言えたのになぁ」
そう思うことが、なんだか皮肉だと気付いて、乾いた笑いがこみ上げた。
私は、やっぱり『愛』でいた方がいいらしい。
(ああ、ナオヤくんと同じだ)
私たちはやっぱり、同じだったんだ。そう実感した。
だけどそれは、共感というには虚しい感じがした。
虚しさを振り払うように、私は一人、キッチンへ向かう。そこで、さっさとお弁当箱を洗うのだった。




