第8話:師匠の警告
十八歳の秋、リナは宮廷錬金術師として確固たる地位を築いていた。王国第二位の実力者として、重要な案件を一人で任されることも珍しくなくなった。
工房の窓から見える紅葉が美しい午後、リナは複雑な治療薬の調合に没頭していた。宮廷の重要人物が患ったという原因不明の病気の特効薬を、三日以内に完成させなければならなかった。
「集中しているな」
背後から師匠ヴィクトルの声が響いた。振り返ると、いつもの厳格な表情を浮かべた師匠が立っていた。
「はい。あと少しで完成します」
「順調のようだが、何か気になることはないか」
師匠の問いに、リナは手を止めた。確かに、患者の症状には違和感があった。
「症状の進行が不自然です。まるで人工的に作られた病気のような……」
「ほう」
ヴィクトルの表情に、わずかな変化が現れた。
「詳しく聞かせろ」
「毒の可能性も考えたのですが、一般的な毒とは異なります。もしかすると……」
リナは声を潜めた。
「錬金術によって作られた毒かもしれません」
師匠の瞳に鋭い光が宿った。
「鋭い洞察だ」
「やはり、そうなんですか」
「政争だ。詳しいことは知らなくてもよい」
ヴィクトルの冷たい言葉に、リナは複雑な思いを抱いた。宮廷の暗部を垣間見るたびに、純粋に医療に専念したいという気持ちが強くなっていく。
「お前は変わった」
突然の師匠の言葉に、リナは顔を上げた。
「変わった?」
「以前より、患者への感情移入が強くなった」
確かに、セドリックとの出会い以来、リナの治療に対する姿勢は変化していた。技術の追求だけでなく、
患者一人一人への思いやりが深くなっていた。
「悪いことでしょうか」
「場合によってはな」
師匠は薬草を手に取りながら続けた。
「感情は時として判断を曇らせる。特に、政治が絡む案件では」
その時、工房の扉が勢いよく開いた。
「失礼します」
現れたのは、息を切らしたセドリックだった。
「セドリック様」
リナの表情が自然と明るくなった。
「緊急事態です。王都近郊で魔獣の群れが出現し、多数の負傷者が出ています」
「魔獣の群れ?」
ヴィクトルが眉をひそめた。
「通常の魔獣ではありません。何らかの術で凶暴化させられているようです」
「分かった。すぐに治療の準備をする」
リナが立ち上がると、師匠が制した。
「待て。現在の案件が優先だ」
「でも、負傷者が……」
「宮廷の命令は絶対だ」
師匠の厳格な言葉に、リナは困惑した。目の前で苦しんでいる人々がいるのに、政治的な案件を優先しなければならないのか。
「リナ様」
セドリックがそっと声をかけた。
「あなたの判断を信じます」
その言葉に、リナの心は決まった。
「師匠、申し訳ありません。私は負傷者の治療に向かいます」
「リナ」
ヴィクトルの声が低く響いた。
「宮廷錬金術師としての責務を忘れるな」
「忘れていません。でも、私の責務は人を救うことです」
初めて師匠に反抗するリナの姿に、ヴィクトルは複雑な表情を浮かべた。
「……好きにしろ」
意外にも、師匠は引き下がった。
「ただし、後で必ず宮廷の案件を仕上げろ」
「はい、必ず」
治療道具を急いで準備するリナの後ろ姿を、ヴィクトルは黙って見つめていた。
王都近郊の被害現場は惨憺たるものだった。凶暴化した魔獣たちによって、多くの村人や騎士が重傷を負っていた。
「こちらに重篤な患者が」
セドリックの案内で、リナは次々と治療にあたった。魔獣の毒、深い裂傷、折れた骨。あらゆる症状が複合的に現れている難しい症例ばかりだった。
「この毒は……人工的に強化されています」
一人の患者を診察したリナが呟いた。
「人工的?」
「通常の魔獣毒に、錬金術で何かを加えています」
セドリックの表情が厳しくなった。
「やはり、何者かの陰謀か」
「詳しいことは分かりませんが、まずは治療が先です」
リナは夜通し治療を続けた。一人、また一人と患者を救っていく中で、彼女は医療錬金術師としての使命感を改めて感じていた。
夜明けが近づく頃、ようやく全ての患者の治療が完了した。
「お疲れ様でした」
セドリックが労いの言葉をかけた。
「当然のことをしただけです」
「いえ、あなたは素晴らしい」
「ありがとうございます」
疲れ切ったリナの顔に、満足の笑みが浮かんでいた。
宮廷に戻ると、ヴィクトルが工房で待っていた。
「遅かったな」
「申し訳ありません」
「患者は全員助かったか」
「はい」
師匠の表情に、わずかな安堵が見えた。
「では、約束通り宮廷の案件を仕上げろ」
「はい」
リナは疲労を押して、政治犯の治療薬を完成させた。技術的には完璧だったが、心は複雑だった。
「完成です」
「ご苦労だった」
薬を受け取った師匠は、しばらく沈黙していた。
「リナ、お前はもう十分に成長した」
「師匠?」
「錬金術師として、そして人として」
ヴィクトルの言葉に、リナは困惑した。
「これからのお前の道のりは平坦ではないだろう」
「どういう意味ですか」
「宮廷は複雑だ。お前のような純粋な心を持つ者には、生きにくい場所かもしれない」
師匠の言葉が、何かの予言のように聞こえた。
夕方、宿舎に戻ったリナは窓辺で考え込んでいた。十八歳になって、宮廷錬金術師として認められ、素敵な人との出会いもあった。しかし、同時に宮廷の複雑さや暗部も見えてきた。
「これからどうなるのかしら」
故郷の星空を思い出しながら呟く。祖母から教わった「人を救う」という純粋な動機が、政治の複雑さの中で試されている。
窓の外では、セドリックが訓練場で剣の練習をしていた。その誠実な姿を見て、リナの心は温かくなった。
「でも、一人じゃない」
支えてくれる人がいる。それだけでも、十分だった。
十八歳の秋が深まる中、リナは知らなかった。これから結婚、出産、そして想像を絶する試練が待っていることを。師匠ヴィクトルの予言めいた言葉が、やがて現実となることを。
しかし今は、ただ目の前の患者を救うことに専念していた。それが、リナという人間の本質だった。
王国錬金術師として確固たる地位を築いた十八歳の少女は、まだ希望に満ちた未来を信じていた。この時期が彼女にとって最も輝いていた時代だったのかもしれない。
やがて訪れる激動の人生を予感させながら、静かな夜は更けていった。




