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第3話:最初の患者

宮廷錬金術師として二か月が過ぎた頃、リナは初めて実際の患者と向き合うことになった。十六歳の誕生日を迎えたばかりの彼女にとって、それは人生を変える体験となる。


「今日は見学だけだ。余計なことはするな」


ヴィクトルの厳しい言葉に、リナは緊張した面持ちで頷いた。宮廷の医療棟は普段立ち入ることのない神聖な場所で、白い石造りの廊下には薬草の香りが漂っていた。


「患者は宮廷騎士の一人だ。訓練中の事故で毒を受けた」


案内された病室で、リナは初めて本物の患者を目にした。ベッドに横たわる若い騎士は、顔色が青白く、額に冷や汗を浮かべて苦しそうに呻いていた。


「症状は?」


ヴィクトルが担当医師に尋ねる。


「発熱、嘔吐、そして手足の痺れです。魔獣の毒針が刺さったようですが、種類が特定できません」


「なるほど」


師匠は患者の脈を取り、瞳孔の状態を確認した。その手際の良さに、リナは見入った。


「一般的な解毒薬は試したか」


「はい。しかし効果はありませんでした」


医師の困惑した表情に、ヴィクトルも眉をひそめた。


「毒の種類が分からなければ、対症療法しかない」


その時、リナの直感が強烈な違和感を告げていた。患者から漂う微かな匂い、肌の色合い、呼吸のリズム。全てが記憶の奥底にある何かと共鳴している。


「あの……」


小さく手を挙げたリナに、ヴィクトルが振り返った。


「何だ」


「この方の症状、もしかして『紫棘蜘蛛』の毒ではないでしょうか」


病室が静寂に包まれた。医師が驚いたような表情を浮かべる。


「紫棘蜘蛛?そんな魔獣、この地域にはいないはずだが」


「確かにそうです。でも……」


リナは患者に一歩近づいた。


「爪の色が僅かに紫がかっています。それに、呼吸が不規則なのも紫棘蜘蛛の毒の特徴です」


ヴィクトルの瞳に鋭い光が宿った。


「根拠はそれだけか」


「匂いも……甘ったるい花の香りに似ています。祖母から聞いた特徴と一致します」


「祖母から?」


「昔、遠方から来た商人を治療したことがあると。紫棘蜘蛛に刺された人だったそうです」


医師が首を振った。


「しかし、紫棘蜘蛛の毒なら、もっと激しい症状が出るはずです」


「それは……毒の濃度によります」


リナの声が少し強くなった。


「完全に刺されたのではなく、針が浅く刺さっただけなら、症状は軽くなります。でも治療が遅れれば……」


「どうなる」


ヴィクトルの問いに、リナは青ざめた。


「毒が心臓に回って、三日以内に……」


言葉を最後まで言えなかった。しかし、その意味は全員に伝わった。


「紫棘蜘蛛の毒に有効な解毒薬は?」


「『月光蘭』と『銀鈴草』を主成分とした調合薬です。でも、正確な配合比率は……」


リナは記憶を辿った。祖母から聞いた古い話。曖昧な知識しかない。


「分からないのか」


「すみません……」


落胆した表情を浮かべるリナを見て、ヴィクトルは考え込んだ。


「試してみる価値はある」


医師が驚いた。


「しかし、診断が間違っていたら」


「このままでも患者は死ぬ。ならば賭けてみよう」


師匠の決断に、リナの心臓が激しく鼓動した。自分の判断で人の命が左右される。その重みに、足が震える。


「リナ、お前が調合しろ」


「えっ?」


「お前の直感を信じる。最適な配合比率を探れ」


工房に戻ったリナは、震える手で薬草を取り出した。月光蘭の青い花びら、銀鈴草の銀色の葉。それぞれの特性を思い浮かべながら、慎重に計量していく。


「祖母様、お力をお貸しください」


心の中で祈りながら、リナは調合を続けた。通常の比率、古典的な比率、そして彼女の直感が告げる比率。三つの可能性を天秤にかけながら。


「これで……」


完成した薬液は、淡い緑色に輝いていた。


病室に戻ると、患者の容態はさらに悪化していた。唇が紫色に変わり、呼吸も浅くなっている。


「急げ」


ヴィクトルの指示で、薬液が患者の口に注がれた。一分、二分。変化は現れない。


「効いていないのでは……」


医師の不安そうな声に、リナの心は沈んだ。自分の判断が間違っていたのか。患者を死なせてしまうのか。


その時、患者の顔色にわずかな変化が現れた。青白い頬に、僅かだが血色が戻り始めている。


「脈が安定してきました」


ヴィクトルが患者の手首に指を当てながら言った。


「体温も下がり始めています」


三十分後、患者は静かな寝息を立てていた。危機は去ったのだ。


「見事だった」


病室を出た後、ヴィクトルはリナに声をかけた。


「お前の直感と知識、そして勇気が一人の命を救った」


「でも、もし間違っていたら」


「間違いを恐れて行動しなければ、確実に患者は死んでいた。医術とは、常にそういう選択の連続だ」

師匠の言葉に、リナは深く頷いた。


「人の命を預かることの重みを忘れるな」


夕方、宿舎に戻ったリナは、窓から見える夕陽を眺めていた。今日、彼女は初めて人の命を救った。その実感が、胸の奥深くで温かく燃えている。


「錬金術師になる理由が、見つかった気がする」


呟く声は、決意に満ちていた。技術を極めることも大切だが、それ以上に人を救うことの意味。リナの心に、医療錬金術師としての使命感が芽生えた瞬間だった。


明日からも修業は続く。しかし、今日の経験は彼女の人生の指針となり、やがて辺境の地で多くの人々を救う力の源となるのだった。

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