第1話:小さな天才
秋風が王都の石畳を撫でて行く午後、アルカディア王国宮廷の錬金術師ギルド本部に、一人の少女が立っていた。
銀髪を後ろで結い、紫の瞳に緊張を宿したその少女――リナ=ヴァルメリアは、手に握った推薦状を見つめながら、重厚な扉の前で小さく息を吐いた。
「十五歳……本当にここで学べるのかしら」
石造りの建物は威圧感を放ち、通り過ぎる宮廷の人々は皆、絹の服に身を包んだ貴族ばかり。農家出身のリナには、その格差が痛いほど分かった。
扉が軋みを上げて開くと、中から冷たい空気が流れ出る。薬草と金属の匂いが混じった独特の香りが、リナの鼻腔をくすぐった。
「君が新入りの見習いか」
振り返ると、濃紺のローブを纏った中年の男性が立っていた。鋭い灰色の眼差し、整った顔立ちに刻まれた厳格な表情。王国最高位の錬金術師、ヴィクトル=アーレン。
「は、はい。リナ=ヴァルメリアです」
震え声で答えるリナを、ヴィクトルは値踏みするような視線で見下ろした。
「推薦状を」
差し出された羊皮紙に目を通すヴィクトルの表情は変わらない。しかし、その瞳に一瞬、興味の光が宿ったのをリナは見逃さなかった。
「地方の薬草師からの推薦か。『類まれな才能を持つ』とある」
「あの、私は……」
「黙れ。才能など、実際に見なければ分からん」
工房に足を踏み入れた瞬間、リナの世界は一変した。天井まで届く本棚、壁一面に並ぶ薬壺、中央に置かれた巨大な蒸留器。そして何より、空気中に漂う魔力の濃度が、故郷とは比較にならないほど濃厚だった。
「他の見習いたちだ」
ヴィクトルが顎で示した先には、リナと同年代の少年少女が五人ほど。皆、高級そうな服に身を包み、自信に満ちた表情を浮かべている。
「新入りね。どこの出身?」
栗色の髪をした少年が、馬鹿にしたような笑みを浮かべて近づいてきた。マルセル。後に彼女の人生を大きく狂わせる男だが、この時のリナはまだ知らない。
「えっと、東の森の近くの村で……」
「村?まさか農民上がり?」
見習いたちの間に、くすくすという笑い声が響いた。リナの頬が赤く染まる。
「出自など関係ない。問題は実力のみ」
ヴィクトルの一言で、工房は静寂に包まれた。
「今から基礎的な薬草の識別を行う。この中から『月光草』を選び出せ」
机の上に並べられたのは、十数種類の薬草。どれも似たような緑色で、素人には判別が困難だった。
先輩の見習いたちが次々と手を伸ばしていく。しかし、その大半が間違いだった。正解者は二人だけ。
「リナ、お前の番だ」
呼ばれて前に出たリナは、薬草の山を見つめた。瞬間、彼女の脳裏に故郷の記憶が蘇る。祖母と一緒に森を歩き、月夜に光る薬草を採取した日々。
迷うことなく、リナは一本の薬草を選び取った。
「これです」
ヴィクトルの眉がわずかに動いた。
「理由を述べよ」
「月光草は昼間でも、葉脈に微かな銀色の筋が見えます。それに……」
リナは薬草を鼻に近づけた。
「香りが他とは違います。甘い花の香りに、僅かに金属的な匂いが混じっている」
工房が水を打ったように静かになった。見習いたちの表情から、馬鹿にしたような笑みが消えている。
「正解だ」
ヴィクトルの声に、わずかな驚きが混じっていた。
「しかも、香りによる判別は上級者の技術だ。どこで覚えた」
「祖母から教わりました。昔から薬草を扱う家系で……」
「ほう」
初めて、ヴィクトルの口元に微かな笑みが浮かんだ。
「では次だ。この魔力石の純度を測れ」
差し出されたのは、手のひらサイズの青い結晶。魔力を込めて鑑定するのが一般的だが、リナは結晶を光にかざした。
「内部の気泡の数と分布から……純度は七十八パーセント程度かと」
「……正確には七十九パーセントだ」
今度は、ヴィクトルの表情が明らかに変わった。
「貴様、本当に見習いか?」
「は、はい」
「魔力を使わずに鑑定するなど……」
工房内がざわめき始めた。見習いたちの視線が、リナに注がれる。羨望、嫉妬、そして畏怖の入り混じった複雑な感情が、空気を重くしていく。
「今日はここまでだ。明日から本格的な修業を開始する」
ヴィクトルは踵を返すと、工房の奥へ消えていった。残されたリナは、周囲の視線に困惑しながらも、胸の奥に小さな希望を感じていた。
夕陽が工房の窓を染める頃、リナは一人、薬草の香りに包まれながら思った。ここで学べることへの感謝と、そして漠然とした不安。この時の彼女は、十年後に待ち受ける運命など知る由もなかった。
王国最高峰の錬金術を学ぶ道のりは、今始まったばかりだった。




