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政略結婚で離縁された無口な領主、次に迎えた姫に少しずつ変えられていく話

作者: 雨日
掲載日:2025/08/30

ーーグユウ様、どうか何かお話しください。


若き領主は、妻を前にしてさえ言葉を失っていた。


老臣ジムは、その沈黙が今度こそ破られることを祈っていた。


ジム・ボイドの灰色の瞳は、不安に揺れていた。


彼の正面に座るのは、ワスト領の若き領主、グユウ・セン。


二十一歳になったばかりの青年だ。


本日、グユウ様はめでたく結婚を迎えた。


だが、それは想いを交わした相手との婚姻ではなく、領の未来のために結ばれた政略結婚だった。


遠路はるばる嫁いできた妃マリーと、領主として初めて同じ席に着いた午後。


テーブルには、焼きたてのスコーンと、透きとおるような琥珀色の紅茶。


りんごの砂糖漬けが甘い香りを放っている。


しかし、室内にはただ重たい沈黙だけが流れていた。


グユウは、まるで銅像のように動かず、言葉を口にしない。


耐えかねたジムは、咄嗟に声をかけた。


「マリー様・・・よろしければ、お茶を召し上がってくださいませ」


その一言に、妃はほっとしたように微笑み、細い指でカップを持ち上げた。


「・・・頂きます」


その声音はかすかに震えていた。


気まずい沈黙の中、マリーがようやく口を開いた。


「・・・ワスト領は、空気が澄んでいて、とても綺麗です」


せっかく花嫁が勇気を振り絞ったというのに、グユウの返事は短かった。


「そうか」


まっすぐ前だけを見据え、彼女の方を振り向きもしない。


声をかけたマリーは、唇を噛みしめて俯いた。


――まるで、話しかけたことを後悔するかのように。


ジムは小さくため息をつく。


グユウ様を、幼い頃から見守ってきた。


剣術も学問も優秀だ。


だが、こと女性となると口を閉ざしてしまう。


何を話せばよいのか分からず、苦手意識ばかりが先に立つ。


少なくとも、見た目は申し分ない。


背が高く、墨を流したような黒髪、切れ長の黒い瞳。


その姿は、誰もが目を奪われるほど整っている。


――だが。


領主としても、ひとりの男としても、致命的なのは「口下手」であることだ。


ジムは知っていた。


グユウ様が誰よりも優しいことを。


しかし、優しさは言葉にし、態度で示さなければ伝わらない。


それ以降、二人の間に会話は生まれなかった。




結婚式の儀を終え、夜を迎える。


初夜の見張り役として、ジムは寝室の隠し小部屋に控えることとなっていた。


「グユウ様・・・少しはお話をしてあげねば」

思わず口にした言葉は、余計なお世話であることを承知していた。


「・・・わかっている」

グユウは俯いたまま、短く答えた。


しかし、やがて訪れた初夜の場。


ジムは、仕切り越しにその気配を感じながら、思わず頭を抱えた。


――あまりにも無言すぎる。


いくら政略結婚といえど、言葉ひとつ、名を呼ぶことさえなく、ただ義務のように花嫁を抱く。


それは若さゆえの不器用さなのか、それとも心の余裕のなさなのか。


ーー妃の名を、せめて一度でも口にしてくれたなら。


そう思わずにはいられなかった。



結婚からひと月が過ぎても、夫婦のあいだに具体的な会話は生まれなかった。


マリーの顔からは次第に表情が消え、やがて笑顔を見ることもなくなった。


その変化に、グユウも危機感を覚えたのだろう。


不器用ながら、懸命に言葉を探し、話しかけようとする姿はあった。


だが、すでに広がってしまった溝は埋まらず、二人の心はますます離れていった。


やがて、わずかな回数の交わりを経て、マリーは身ごもった。


しかしそれを境に体調を崩し、寝室を避け、自室に閉じこもるようになってしまう。


途方に暮れるグユウの姿に、ジムは胸を痛めた。


領主としても、夫としても、どうしてよいのか分からないのだ。


家臣たちと共に仲を取り持とうと努めたものの、状況は改善されなかった。


――正しいはずの政略結婚。


だが、本当にこれで良かったのか。


ジムの心には、答えの出ない問いだけが澱のように残っていった。




やがて月日が流れ、マリーは男の子を出産した。


ジムは思った。――これこそ、夫婦の仲を取り戻す好機だと。


産声をあげたばかりの子を腕に抱き、グユウはじっとその顔を見つめていた。


その眼差しの奥に、これまで決して表に出さなかった喜びがかすかに灯っている。


長年そばで彼を見守ってきたジムには、それがはっきりと分かった。


だが、母となったマリーの目には、違って映った。


赤子を抱きながらも言葉ひとつかけず、無表情のまま立つ夫。


その姿は、冷たい石像と何ら変わらなかった。



子が産まれて三か月後のことだった。


ワスト領に、強大なミンスタ領からの使者が訪れた。


差し出された手紙には――

「ミンスタ領主ゼンシ、グユウ殿に面会を望む」

とだけ、端的に記されていた。


断る理由など、どこにもない。


むしろ拒めば、領地そのものを危うくしかねない。


ジムは文面を読み終えたとき、胸の奥に冷たいものが走るのを感じた。


そして、若き領主を伴い、ゼンシとの面会に向かう覚悟を固めた。


面会の間に足を踏み入れた瞬間、ジムは息を呑んだ。


玉座に座すのは、まるで光をまとったような男だった。


輝く金髪は陽光を受けて白銀に近く、瞳は深い湖のような青。


年の頃は三十前後か。


だが、その美貌には人を寄せつけぬ鋭さが宿っている。


ただ座しているだけで、場を支配する威圧感。


ーーこの方が、ゼンシ様か。


ジムの喉は乾き、背筋に冷たいものが走った。


そんな中でも、グユウは淡々と挨拶を述べ、椅子に腰を下ろす。


その無表情な横顔に、ジムはわずかに安堵した。


「グユウ・・・」

ゼンシは薄く微笑むと、言葉を紡いだ。


「我がミンスタ領と、同盟を結ばぬか」


「・・・同盟、ですか」


「あぁ。その暁には、我が妹をワスト領に嫁がせよう」

微笑みは優雅だが、その声は冷ややかに響いた。


ゼンシの口にした「同盟」という言葉には、「服従」に近い響きがあった。


彼がワスト領を望む理由は明白だ。


王都ミヤビへと通じる街道――それが、この小さな領地の最大の価値であった。


「・・・申し出はありがたいのですが、私には妻子がございます」

グユウは淡々と答える。


その声音には、わずかな揺らぎもない。


「ふむ。妻子がいるのか」


ゼンシは大して意に介さぬようにカップを取り上げた。


そして、まるで雑事を片づけるかのように言い放つ。


「離縁しろ」


ジムは息を呑んだ。


その声音には、情も怒りもなく、ただ事務的な冷たさしかなかった。


それがかえって、刃のように鋭く響いた。


その言葉に、グユウは黙したままだった。


――例え心が通い合っていなくとも。


それでも妻子を守ろうとする気持ちが、グユウ様なりに確かにあるのだと、ジムには思えた。


沈黙を続けるグユウに、ゼンシは顎をわずかに上げて吐き捨てる。


「・・・ミンスタ領の姫を、妾にするつもりか?」


挑発的な言葉にも、グユウは動じなかった。


漆黒の瞳は、凪いだ湖面のように微動だにしない。


その無表情の奥に、何を秘めているのか――ジムですら読み取れなかった。


やがて、ゼンシはふっと笑みを浮かべ、ゆるりと立ち上がった。


「返事は・・・早めに頼む」


その声は、甘美でありながら冷たい刃のようだった。


ジムの背筋を、ぞわりと冷たいものが這い上がった。



その夜、領に戻ったジムは、ただちに重臣を集め、緊急会議を開いた。


広間には重苦しい空気が漂い、誰もが沈痛な面持ちで席につく。


議題は一つ――ミンスタ領からの同盟の申し出。


ゼンシは兵を糾合し、次々と周辺を呑み込んでいる。


勢いは凄まじく、名声は「冷酷」「強欲」と悪評ばかり。


そんな男の妹を娶るなど、到底認められぬ。


重臣たちは口を揃えて「断るべきだ」と主張し、場は荒れに荒れた。


「ワスト領に、あの男の妹を迎えるなどあり得ぬ!」


「同盟など結べば、いずれ呑み込まれるのはこちらだ!」


憤りと恐怖が入り混じり、声がぶつかり合う。


その中で、若き領主グユウはただ黙して座っていた。


ーー冷静に聞いているのか、それとも何も考えていないのか。


無表情の横顔を見つめながら、ジムは胸の奥で呻く。


ーーグユウ様、何かお話してください。


やがて、ジムは思い切って声を上げた。


「今、この同盟を断れば、ワスト領は攻め込まれます」


その一言に広間は凍りついた。


誰もが薄々感じていたことを、現実として突きつけられたのだ。


領力の弱いワスト領では、ゼンシの軍勢に抗う術はない。


静まり返る中、ジムはさらに問いかける。


「・・・グユウ様は、どう思われますか」


途端に、視線が一斉に若き領主へ注がれる。


「・・・離婚は、望んでいない」

「ゼンシ様は・・・尊敬すべき領主だ」


断片的な言葉。


それは彼なりの思いだとジムには分かったが、結論にはならない。


会議はなお紛糾し、最後は押し切られるように決定が下された。



――ミンスタ領との同盟を受け入れ、新たな妃を迎えること。


今の妃とは離縁すること。


その重い結末を前にしても、グユウは反論せず、ただ静かに受け入れた。


無表情のまま、黙して座すその姿を見ながら、ジムの胸はひどく痛んだ。


ーーグユウ様。これは、あなたの望む道なのですか。



会議の翌日。


ジムは重い口を開いた。


「・・・マリー様に、離縁の件をお伝えしなければなりません」


その言葉に、グユウはわずかに顔を曇らせ、目を伏せる。


「・・・わかった」


産まれたばかりの男の子――シン。


ジムは言葉を継いだ。


「シン様は・・・男児ゆえ、この地でお育てすることになります」


「・・・あぁ」


未来のワスト領の跡取り。


母のもとへ返すわけにはいかない。


それは冷徹な理でありながら、避けられぬ現実だった。


やがて、グユウは気の進まぬまま、マリーを執務室へ呼び出した。


久方ぶりに姿を見せたマリーは、俯いたまま椅子に腰を下ろす。


その顔には、かつての笑みの欠片すらない。


視線は合わせられず、声も届かない。


グユウは、その姿を前にして――言葉を失った。


告げねばならぬ事実を、ただ胸に抱えたまま。


隣に立つジムの胸は、ひどく締めつけられるようだった。


長い沈黙の末、グユウはようやく口を開いた。


それは挨拶も、前置きもなく、唐突に放たれた要件だけの言葉だった。


「・・・離縁してほしい」


マリーは驚いたように顔を上げる。


そのときのグユウの顔は、ジムの目には悲しみに満ちているように映った。


けれど、マリーの目に映ったのは――無表情のまま、冷ややかに別れを告げる夫の姿に違いない。


彼女は唇をきつく噛み、やがて伏し目がちに答えた。


「・・・承知しました」


短くそう告げると、マリーは椅子を立ち、背を向けて執務室を去った。


残されたグユウは、手のひらを強く握りしめ、唇を噛みしめていた。


声にならぬ思いを胸に抱えながら。


慌てたジムは、その後マリーのもとを訪れ、事情を説明した。


けれど彼女は悲嘆に暮れるでもなく、むしろ生家に帰れることを安堵しているように見えた。


この時代の女性に求められる美徳は、「疑問を抱かず、言葉にせず、微笑んでいること」。


マリーは、その理想を体現した妃だった。


――だからこそ、なおさら胸が痛んだ。



マリーは離縁を告げられてから、わずか四日で城を発つことになった。


別れの場においても、彼女は理想的な妃であり続けた。


「・・・お世話になりました」

淡々と、静かに告げる。


「・・・あぁ」

グユウの声は掠れ、どこか切なさを帯びていた。


けれど、それ以上の言葉は出てこない。


マリーは振り向くことなく馬車に乗り込み、扉が閉ざされる。


その後ろ姿を、グユウはただじっと見つめていた。


背後では、乳母ヨシノの腕に抱かれたシンが状況を察したかのように声を上げて泣いていた。


小さくなっていく馬車を、グユウは動かぬまま目で追い続ける。


その姿には、深い傷が刻まれているのが分かった。


――だが、それに気づける者は、よほど彼を観察してきた者だけだろう。


「・・・グユウ様」

ジムは慰めるように声をかけた。


「オレは・・・結婚に向いていない」

グユウは遠くを見つめたまま、かすかにつぶやいた。


ーーそんなことはありません。


そう言いたかった。


だが、簡単な慰めの言葉は喉を過ぎず、胸の奥に留まった。


やがて訪れる次の婚姻の影が、ジムの胸に重くのしかかる。


ミンスタ領の姫。


あのゼンシの妹であり、二十歳を過ぎても嫁がなかった女。


一ヶ月後、彼女がこの城にやって来る。


――果たして、グユウ様とやっていける姫なのだろうか。


不安ばかりが、ジムの心に募っていった。



◇ 


一ヶ月後。


ジムはミンスタ領のシュドリー城へ、姫を迎えに赴いた。


四日の旅路を経てたどり着いたその城は、荘厳にして豪華。


灰色の石造りは威厳を放ち、門をくぐった瞬間、レーク城とは比べものにならぬ豊かさが伝わってきた。


「・・・すごい城だ」

同行した重臣ジェームズが、思わずため息をもらす。


「この領と争っても、勝てるはずもないな」

もう一人の重臣サムが、淡々と口にした。


三人は控えの間に案内され、そこで振る舞われたのは見事な料理の数々だった。


皿に盛られた牛肉、華やかな見目の菓子。


ワスト領ではまず口にできぬ贅沢に、一同は思わず言葉を失った。


飾り立てられた室内を見渡しながら、ジムは深く息を吐く。


「・・・シリ様は、この城で二十年を育った。質素なワスト領の暮らしに、馴染めるのだろうか」

その声には、抑えきれぬ後悔が滲んでいた。


ジェームズはローストビーフを口にし、かすかに目を見開いた。


「贅沢に慣れた、わがままな姫かもしれん・・・」

美味であることは隠せない顔だった。


サムはカップの紅茶にクリームを落とし、苦笑を浮かべる。


「あのゼンシの妹だ。きっと、恐ろしい女に違いない」


ジムは黙して二人のやりとりを聞いていた。


胸の奥には、重く澱むような不安が広がっていった。



やがて三人は広間に通され、ゼンシの前で恭しく頭を下げた。


そこにいたのは、圧倒的な存在感を放つ美しき領主。


初めて相まみえたジェームズもサムも、その冷ややかな青い瞳と場を支配する威圧に、言葉を失っていた。


「・・・シリを呼べ」

ゼンシが低く命じる。


ほどなく、軽やかな足音が近づき、三人の目の前でぴたりと止まった。


恐る恐る顔を上げた彼らの視線の先に――姫は立っていた。


白と赤のモザ家の旗を背に、鮮やかな青のドレスを纏った、背の高い女性。


金の髪が揺れ、その瞳は衣よりもさらに深い青で、真っ直ぐにこちらを見据えている。


一瞬、空気が凍りついた。


「・・・美しい」

ジェームズが熱に浮かされたように呟く。


涼やかでありながら、刺すような気品をまとった美貌。


丁重に挨拶をするその姿に、ジェームズもサムも圧倒され、声を失った。


我に返ったジムがようやく形式的な言葉を返す。


だが、その胸の奥では不安が膨れ上がっていく。


――あの気高い姫と、寡黙なグユウ様が、本当にやっていけるのか。


無理だ。


破綻すれば同盟も瓦解する。


それはワスト領にとって、命取りだ。


背中に冷や汗が流れるのを、ジムははっきりと感じていた。


シリを引き合わせた後のゼンシは、満足そうに唇を歪める。


それはまるで、「小領に妹を与えてやる」と無言で告げる圧力の笑みだった。




その日の午後、花嫁行列はワスト領へと向かった。


本来ならば、婚姻の費用は両家で折半するもの。


だが今回はすべて、ミンスタ領が負担した。


真意は定かではないが――ゼンシがグユウを気に入った、そんな噂さえ囁かれていた。


きらびやかで途方もなく長い花嫁行列を眺めながら、馬上のジムは深くため息をつく。


「これが・・・果たして我らにふさわしい縁なのか」



五日の旅を経て、豪華な馬車はついにレーク城にたどり着いた。


その眩い車体を見つめるほどに、ジムの不安は募っていく。


馬車の中には――目を疑うほど美しい姫、シリがいる。


ーーグユウ様は、きちんと挨拶をなさるだろうか。


やがて、馬車は城門前で止まった。


夕暮れ寸前の美しい春の夕方。


「シリ様、ご到着!」

ジムの声が城門に響きわたる。


両脇に並んだ家臣や侍女たちが一斉に頭を垂れる中、松明の炎が揺らした。


その赤い揺らめきに照らされて、門前にまるで銅像のように立つ人影があった。


グユウだった。


妃を迎えるため、無言のまま待ち受ける若き領主の姿に、ジムはわずかに安堵する。


そして意を決し、豪華な馬車の扉に手をかけた。


馬車の扉が開き、最初に伸ばされた白い手を見た瞬間、周囲の空気が張りつめた。


そして、ゆるやかに姿を現したのは――まるで神話の絵から抜け出したような姫だった。


金の髪は松明の炎を受けて揺れ、夕空に浮かぶ星のように煌めく。


白と淡い紫色のドレスは夕闇に映え、その奥にある瞳はさらに濃い青で、まっすぐに前を見据えている。


「・・・なんと・・・」

誰ともなく小さな吐息が洩れる。


並んだ家臣たちは息を呑み、思わず背筋を伸ばした。


侍女たちは頭を垂れながらも、その美貌を盗み見て、目を伏せることすら忘れている。


普段は折り目正しい重臣 オーエンでさえ、瞬きを忘れたように見入っていた。


荘厳で冷たい空気をまとった城門前が、その一瞬だけ別世界に変わったかのようだった。


ジムはただ胸の奥でつぶやく。


ーーこれが、ゼンシ様の妹、シリ様。


シリはゆるやかな足取りで、まっすぐにグユウのもとへ歩み出た。


その背後に従いながら、ジムは固唾をのんで二人の距離を見守る。


門の前に立つ若き領主。


高い背に無駄のない体躯。

黒の燕尾服に白いボウタイを合わせたその姿は、まるで鋳型から打ち出された銅像のように端正であった。


だが、ジムの目には別のものが映った。


グユウは、まるで我を忘れたかのように姫を見つめている。


ーーこれまで女性の姿に関心を寄せたことのないグユウ様が。


その黒い瞳に、かすかなざわめきが揺れていた。


もちろん、それは長年仕えてきたジムだからこそ分かる、ごく微細な変化にすぎない。


周囲の目には、ただ無表情に佇む領主の姿としか映らなかっただろう。


それでもジムの胸は震えた。


――寡黙なグユウ様が、初めて女性に心を動かされたのではないか。


やがて、シリはまっすぐに歩み寄り、グユウの眼前に立った。


沈黙が二人の間を覆う。


グユウは無表情を通り越し、まるで置物のように立ち尽くしていた。


ただ――魅入られたように、シリの姿を見つめ続けている。


シリもまた、臆することなく真っ直ぐにグユウを見返していた。


通常の妃ならば、ここまで長く男性の顔を正面から見つめることはしない。


ーーシリ様は、他の女性とは少し違う。


ジムはそう思わずにはいられなかった。


そして確かに、グユウの黒い瞳に、これまで見たことのない熱がほんのわずかに宿っているように感じられた。


しかし、長い沈黙に見かねてジムは低く鋭い声で名を呼ぶ。


「・・・グユウ様」


その瞬間、夢から覚めたようにグユウが小さく瞬きをした。


「・・・グユウ・センだ」

低く短い声が落ちる。


「遠路ご苦労だった。今夜は・・・ゆっくり休むといい」


照れ隠しのように視線を逸らし、ほんの一瞬だけ姫を一瞥する。


そして、何も言わずに背を向け、足早に城の中へと消えていった。


――確かに、いつものグユウ様よりは言葉にした。


けれど、遠路はるばる嫁いできた妃にかけるべき言葉としては、あまりにも不十分だ。


ジムは苦悶の表情を浮かべ、控えていた侍女を呼び寄せた。


「・・・シリ様を、お休みの部屋へご案内申し上げよ」


その声の裏に、老臣の深い嘆息が隠れていた。



翌日、結婚式と披露宴が開かれた。


式の前、ジムは控室で若き領主に進言した。


「・・・言葉が難しければ、せめて笑顔を。笑った方が良いのです」


グユウは一瞬考え込み、そして唐突に問うた。


「・・・どうだ?」


それはグユウなりの“笑み”らしかった。


だが、固い表情筋はほとんど動かず、むしろ無表情にしか見えない。


「・・・全く笑っておられません」

ジムは苦しそうに答えるしかなかった。


それでも――ジムの目には、変化が見えた。


青いウェディングドレスに身を包んだシリを目にした瞬間、グユウは思わず口をわずかに開いたのだ。


女性の美に興味を示したことのなかったグユウが、初めて“見惚れる”ように視線を注いでいる。


だが、その感情は決して当の姫には伝わらなかった。


シリに向ける言葉はなく、行事のあいだも二人は一言も交わさなかった。


時折、シリがじっと夫を見つめる。


しかしグユウはその視線を受け止めず、無表情のまま前を向き続けるだけ。


――グユウ様は、確かにシリ様に心を動かされている。


だが、それゆえにどう振る舞えばよいのか分からず、身じろぎもできないのだ。


ジムは胸の奥で、言いようのないもどかしさを覚えていた。




その夜は初夜だった。


領主夫婦の初夜には、例に倣い、ジムは再び寝室に隣接する隠し小部屋で待機し、

覗き窓から二人の様子を見守った。


驚くべきことが起きた。


シリが、夫に自ら話しかけていたのだ。


妃は口を慎むように教育される――それがこの時代の美徳。


前妻マリーのように、女性は従順であることが求められてきた。


だが、この姫は違った。


恐れず、言葉をかけている。


戸惑いながらも、グユウはその会話に応じていた。


そして、しばし彼女をじっと見つめたのち、自ら身を寄せ――口づけをした。


初夜に口づけ。


本来ならば当然の営み。


だが、ジムにとっては衝撃だった。


ーーあのグユウ様が、自分から口づけを。


前妻のときには、一度も見られなかった姿だ。


やがて二人は寝台に身を寄せ、結ばれるかと思われた。


しかし状況は一転する。


シリが怯えているように見えた瞬間、グユウは動きを止め、そっと身を引いたのだ。


距離を置いたグユウに、シリは真っ直ぐに詰め寄る。


「・・・なぜ抱かないのですか」


「・・・怖がっている女は抱けない」

低く、短い言葉。


その返答に、シリは泣きながら感情を爆発させた。


「私は・・・泣いていません!」


その叫びは、寝室の静寂を切り裂いた。


泣いているシリを、グユウは呆然と見つめていた。


「わかった。・・・お前は泣いてない。オレは疲れた。一緒に寝よう」

断片的な言葉を吐き出し、シリの腕をとって寝台に寝かせた。


「・・・私、眠くないです」


「そうか」

グユウは返事をする。


「私は平気なんです」


「あぁ」

グユウの返事は短い。


それでも今までとはまるで違う音色だった。


寝ついたシリを、グユウはそっと髪を撫でた。


初夜は失敗だった。


けれど、


隠し部屋の中でジムは息を呑み、胸の奥に熱いものが込み上げてくるのを感じた。


――この二人は、前とは違う。


寡黙なグユウと、決して怯まずに言葉を投げるシリ。


その出会いが、確かに何かを変え始めていた。



それから三日間、夫婦の間に具体的な進展はなかった。


だがジムの目には、二人の距離がゆっくりと、確実に縮まっているように映った。


ふとした折に、グユウがシリを見つめる姿を何度も目撃した。


無表情の奥に、これまで隠されていた感情が、少しずつ滲み出している。


結婚して四日目のこと。


シリは唐突に「乗馬がしたい」と言い出した。


この時代、女性が馬にまたがることは恥ずかしいとされていた。


だが、馬場に現れたシリは、ためらいもなく乗馬服に身を包んでいた。


女の身での乗馬装――ほとんど男装と言ってよい。


見たこともない大胆な服装、そして、物おじせず凛とした姿に、ジムは思わず息を呑む。


二人は並んで馬を走らせ、やがて満開のりんごの花の下で足を止めた。


そこで交わされた会話は短いものだった。


けれど――グユウの眼差しには、はっきりとした想いが宿っていた。


遠くからその様子を見つめながら、ジムの胸は熱くなった。


ーーグユウ様。あなたは、確かに変わり始めている。


この頃から、シリはよく夫の顔を見つめるようになった。


ただ美貌を仰ぐのではない。


その黒い瞳の底に潜む本当の心を、知ろうとする眼差しだった。



その夜。


寝室で二人は窓辺に並び、静かに月を眺めていた。


「今日は楽しかったです」

シリが口を開く。


「・・・そうか」

返ってきたのは、いつもの短い返事だった。


だが次の瞬間、グユウが不意に言葉を続ける。


「オレといても・・・楽しくないだろ」


「どういうことです?」

シリが即座に問い返す。


隠し小部屋に潜むジムは、息を呑んだ。


妃が疑問を投げかけるなど、本来ならば正しい振る舞いではない。


けれど――寡黙な領主には、それが救いとなっていた。


「・・・オレは、話すのが得意じゃない」


「知っています」


「だから、オレといても・・・楽しくないだろう」


その言葉に、シリは一歩前に出た。


「楽しいかどうかは、私が決めることです」


その強い声に、グユウは初めて真正面からシリを見つめた。


二人は黙って見つめ合う。


背後の窓からは、美しい月光が二人を照らしていた。


やがてシリは、ぐっと彼の袖を引いた。


「・・・グユウさんの目って、黒くて綺麗ですね」

かすかな声。


驚きに揺れるグユウの顔。


その表情は、ジムが初めて目にするものだった。


次の瞬間、シリはつま先立ちになり、自ら唇を重ねた。


――なんと・・・!


ジムは思わず目を見開く。


三日前まで情事を怖がって泣いていたシリが、今は寡黙な夫の心を動かそうとしている。


そして確かに――その瞬間、グユウの中で何かが始まった。


グユウはシリを力強く抱き寄せ、その身体を抱き上げ、寝台へと運んでいく。


「・・・やめるなら今だ。嫌なら、拒んでくれ」


「それは・・・相手にもよります」

シリが強い眼差しで見上げて答える。


「オレでは・・・」

自信なげな声に、シリはきっぱりと告げた。


「――グユウさんなら良いですよ」


その言葉に、グユウの表情がみるみる崩れ、揺れ動く。


そしてついに、彼の口から二文字が落ちた。


「・・・シリ」


全ての想いを込めて、その名を呼び、彼女を抱き寄せた。



翌朝。


グユウの顔には、これまでにないほど柔らかな気配が宿っていた。


一夜にして変わったその雰囲気に、ジムは驚きのあまり息を呑む。


二人は不器用だった。


シリは気が強く、思ったことをはっきり口にする。


寡黙で意思の疎通を見せない夫に、何度も苛立ちを爆発させた。


だが、それは恐れや拒絶ではなく、真剣に向き合おうとするがゆえのものだった。


しかも彼女は一般の妃とは異なり、政治に強い関心を持ち、領主と意見を交わすことを好んだ。


常識に縛られぬその強さに、グユウが少しずつ惹かれていくのが、ジムには手に取るように分かった。


表面的には変わらぬグユウ。


相変わらず無表情で、口数も少ない。


だが、今はその瞳に確かな熱が灯っている。


そして、シリはその変化を決して見逃さなかった。


彼の表情を、ただじっと、真っ直ぐに見つめ続けていた。



結婚から十日が過ぎた。

その日も二人は馬を並べて走らせ、やがてりんごの木の下に腰を下ろした。


数日前には満開だった花はすでに散り、若葉が枝を覆っている。


春の名残を惜しむように、その下で二人は言葉を交わしていた。


もっとも、会話のほとんどはシリのものだった。


グユウは「そうか」「あぁ」と、短く応じるのみ。


だが、その控えめなやりとりの中に、夫婦の静かな温もりが宿っていた。


ジムは少し離れた場所から、その仲睦まじい光景を見守っていた。


そろそろ城に戻る頃合いか。


声をかけようと近づいたその時、シリの澄んだ声が耳に届いた。


「・・・グユウさん。私のこと、好いていますか?」


思わずジムは大木の影に身を寄せ、耳をそばだてた。


突然の問いに、グユウは呆然とした表情を浮かべる。


答えられずに黙り込む夫に、シリは不満そうに顔を寄せ、もう一度問い直した。


「私のことを・・・好いていますか?」


その真剣な眼差しに射抜かれ、グユウは絞り出すように声を出す。


「・・・あぁ」


――グユウ様、それでは伝わりません。


ジムは胸の奥でもどかしさを覚え、無意識に二人を凝視していた。


けれどシリはじっとグユウの顔を見つめ、そしてふっと笑みを浮かべる。


「それなら――良いです」


――なんと。


ジムは息を呑んだ。


グユウのわずかな表情から心を察したように、シリもまた、彼の奥に潜む思いを汲み取っていた。


ジムが長年そうしてきたように。


不意に、グユウがシリの肩を抱き寄せた。


そして、ためらいなくその唇をそっと重ねる。


シリは驚いたように目を見開いたが、やがて表情を和らげ、静かに身を委ねた。


若葉に包まれたりんごの木の下。


差し込む光が二人を照らし、その光景は一枚の絵のように美しかった。


大木の陰から見守っていたジムは、深く息を吐いた。


――ついに、グユウ様は気持ちを表すことができたのだ。


相変わらず、寡黙で無表情だけど、

隣に寄り添う妃が、その沈黙の奥から確かな想いを引き出してくれた。


理解してくれる伴侶に出逢えた。


ジムの胸に、静かで暖かな安堵が広がっていった。


ーーこの二人ならきっと領を導いていける。


これは結婚十日目の小さな一幕にすぎない。


若き領主夫婦を支える日々は、まだ始まったばかりだ。




ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


今回の短編は、寡黙な領主を支える老臣ジムの裏側を書いたお話です。

彼を好きでいてくださる方に、より楽しんでいただければ嬉しいです。


この短編は『秘密を抱えた政略結婚』本編のスピンオフで、

無愛想な夫・グユウを描いた3作目のお話です。

短編だけでも楽しめますが、本編を読むと二人のすれ違いや政略の背景がより深く伝わると思います。


本編はこちら

→ 『秘密を抱えた政略結婚 〜兄に逆らえず嫁いだ私と、無愛想な夫の城で始まる物語〜』

(Nコード:N2799Jo)

https://ncode.syosetu.com/n2799jo/


1作目の短編はこちら

→ 『結婚に向いてない領主ですが、美しすぎる姫が嫁いできました』

(Nコード:N6998KY)

https://ncode.syosetu.com/n6998ky/


続いて2作目の短編です。

『無口な領主ですが、初夜の翌日から姫に翻弄されています』

よろしければこちらからご覧ください。

→ https://ncode.syosetu.com/N1000KZ/


そして現在は、本編の続編となる長編

→ 『秘密を抱えた政略結婚2』 を連載中です。

こちらも合わせてお楽しみいただければ幸いです。

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