渡りに舟
ジョルジュがマリエルの手紙を受け取ってから一ヶ月程経った頃、一部では噂になっていた二人の婚約がついに公となった。
その際、国王陛下からはこの婚約は自身たっての希望であることが伝えられ、二人の結婚式は約一年後に催される王家主催の晩餐会と日を近くして行うことや辺境伯領では式の後に領民に向けた結婚を祝う祭事が行われることなども合わせて発表された。
直後は侯爵家にも心ない声が多少届いてはいたが、多くの貴族達がこの婚約に賛成したことで陛下の目論見通り辺境伯家への評判も含めこの婚約について悪く言う者はいなくなった。
心配事が一つ減りさらに婚約に前向きになったマリエルは少しずつ辺境伯家へ嫁ぐ準備するため、王城にある図書室を訪れていた。
目的は辺境伯領について学ぶことだが、元々本を読むことが好きなマリエルはあらゆる分野の本を嬉しそうに本棚から選んでいた。
辺境伯領の成り立ちに触れた王国の歴史書や北方の気候や自然に関する研究書。次々とテーブルの上に本を積んでいく彼女が一際分厚い本を積んだ時、子供の頃からマリエルに仕えている侍女のアンナが徐に口を開いた。
「……お嬢様、失礼ながら屈強な騎士様が大活躍する軍記物は必要ないかと思いますが」
「だって、この本はお父様の本棚にもなくてずっと探していたものなの。アンナだって知ってるでしょ」
「存じておりますが、こちらに来た目的はお忘れではないですよね?」
「もっ、もちろんよ。ほら、他の本はちゃんと辺境伯領に関するものよ!」
普段は模範的令嬢な彼女だが、幼い頃を知るアンナの前ではかなり子供っぽい印象を受ける。
「なら良いのですが……諦めていた初恋が叶ったのですからしっかり者のお嬢様でもつい浮かれてしまうこともあるのではないかと心配でして」
「別にそんなんじゃ……それにその話は二人だけの秘密でしょ。誰かに聞かれたら!」
顔を真っ赤にして恥ずかしがりながらもどこか満足げなマリエルを見つめ、アンナも自分のことのように嬉しそうに微笑んでいた。
マリエルは小さな頃から手のかからない子供だった。悪さをすることも無茶をすることもなく、言われたことをきちんとこなし我儘を言うこともなかった。
ただ、唯一手を焼いたのは、本が好き過ぎるということだった。
きっかけは両親から贈られた一冊の絵本。そこに紡がれていた物語に一瞬で心を奪われた彼女は時間があればひたすら本を読むようになっていった。
悪い事ではないと両親も静かに見守っていたが、ある時一睡もせずに朝まで本を読み続けていたことがわかったため、それからは無茶はしないようアンナが目を光らせている。
そんな彼女の今一番のお気に入りは、意外にも過去の戦いを題材にした創作物である戦記物。
年頃になったマリエルは周りの令嬢達と同じように流行りの恋愛小説を楽しんでいたが、ある日父の書斎で何気なく手に取った戦記に彼女は衝撃を受けた。
その本に登場する男性達は、マリエルが知る王都の紳士達とはあまりにも違っていた。
着飾るためではなく己の命を守るための鎧を身に纏い、先陣を切って戦いの中に身を投じる。
そうした日々で鍛えられた身体は惚れ惚れするほどに逞しく、ひと度剣を振るえば圧倒的な強さで自分より大きな敵すらも次々と薙ぎ倒していった。
その男達の生き様はマリエルにとってあまりにも魅力的で、実際見ることのできない勇姿を想像し心を躍らせながら、彼らが活躍する物語をひたすら読み耽っていた。
そして二年前、王家主催の晩餐会の日、彼女の前にあの本の中に生きる男性が現実となって姿を表した。
誰よりも高い身長と礼服の上からでもはっきりと分かる鍛え上げられた肉体。さらにそれを引き立てる姿勢の良さとしなやかな振る舞いにマリエルの目は釘付けとなった。
そればかりか、体付きとは対照的に知性を感じさせる切れ長の目や薄い唇は彼女の興味を掻き立て、艶のある黒髪がわずかに揺れるだけでマリエルの心臓は忙しなくなっていった。
そんな彼女は平静を装うのに必死で当然彼に挨拶などできるはずもなく、彼が辺境伯家の嫡男で父である辺境伯の代理として初めて王都を訪れたのだと知ったのは、晩餐会が終わって数日経った頃だった。
すでに王都から辺境伯領に向け旅立っていた彼はマリエルにとってはもう現実ではなく、本の登場人物と同じだったのだろう。
気に入った物語のあらすじを聞かせるような口ぶりで毎日のように侍女のアンナに彼の魅力を語る様子は夢見る乙女のような幼さもあったが「二人だけの秘密」とアンナに念押ししたマリエルの淡い恋心にいつもそばにいる彼女が気付くのは当然だった。
「お嬢様、大丈夫です。誰もいらっしゃいませんよ。それに、そろそろお帰りにならないと旦那様がご心配を……」
「えっ、もうこんな時間! ごめんなさい、すぐこちらの貸し出しをお願いするわ」
所定の手続きを終え急ぎ図書室を出たところでマリエルは城の従者に呼び止められ、急遽国王陛下の元へ向かうこととなった。
会うのは父がとんでもない発言をしたあの日以来で多少の緊張感はあったが、呼び出された理由に心当たりがなくむしろそちらの方が気になっていた。
謁見の間の扉が開きマリエルは深々と頭を下げる。すぐに陛下から声がかかり顔を上げた彼女の視界には陛下、そしてもう一人見知らぬ男性の姿があった。
その男性を見るなり思わず息を飲んだマリエル。
軍服を押し上げる程鍛えられたその容姿に、一瞬自分の婚約者が現れたのだと思ったからだ。
だがすぐに勘違いであることに気付き彼女がその男性に対して深く頭を下げると、彼も騎士として最上級の礼でそれに応えた。
「マリエル・カテドラ様、初めまして。トレナス辺境伯領より参りましたコート伯爵家トマスと申します」