第六十四話:夜闇に紛れて
Qual è l'illusione che desidera
海辺の夜は肌寒い。今が七月の下旬であろうと、肌掛け布団一枚では体が冷えてしまうほどに。
寒さで目が覚めてしまった俺は、部屋の押し入れから掛け布団を一枚引っ張り出した。これで温かくなるだろうと安堵に包まれる。だがその瞬間、ある事に気づいた。
一人いない。
この部屋には尚輝と葉山、それに俺を含めた三人がいるはずだ。なのに今確認できるのは、俺ともう一人の姿だけ。その一人も、灯りがないこの暗さでは誰なのか判別できない。故にどこかに消えた一人が尚輝と葉山のどちらか突き止めることは不可能だ。なぜ、どこに、もう一人は消えてしまったんだろうか。
それと、俺はもう一つ気づいていた。部屋の引き戸が開いている。俺らが眠る前には確かに引き戸は閉まっていた。それは故意にしろ過失にしろ、俺らが眠った後に誰かがこの部屋を出て行ったことは間違いない。
この周辺は海と木々に囲まれており、特に俺たちはこの場所の地理に疎い。加えて夜になると旅館の電気も消えて外は月が綺麗に見えるほど真っ暗になってしまう。そんな中を一人で彷徨う危険性は甚だしい。
「はぁ…捜しに行くか」
まさかまた人探しをする羽目になるなんて。いつかみたく恐ろしい目に遭うのは勘弁だ。とはいえ、このまま見て見ぬふりをしては心配で眠れない。折角の静かな海で海風を浴びたい気持ちは共感できるが、友人がもしも一人で外を出歩いていたらと考えたら不安だ。
半袖半ズボンのパジャマ状態で外を出歩けば冷えるので、部屋に常備されていた茶羽織を羽織って夜の海に身を運ぶ。
「うぉ…綺麗…」
旅館を出ると、そこは月明かりに照らされた暗闇の海が視界のほとんどを覆ってしまう。日常では絶対に見られない見事な絶景に、思わず目を奪われて立ちすくむ。自分がこんなに綺麗な場所にいるなんて信じられなくなってしまう。聞こえるのは波音だけで、誰もが消えた世界で俺一人取り残されてしまった、そんな感傷的な幻想に浸ってしまう。
見惚れている場合じゃなかった、葉山か尚輝を探さないと。けど探すのに苦労はしなそうだ。なにせすぐ目の前に道標が残されているんだから。
俺の足下には、旅館からどこかへ向かう足跡がハッキリと付けられていた。砂浜の足跡が向かった先は、俺たちが朝来た方向とは逆の、旅館よりさらに奥の浜。支配人曰く、この先は人の手が施されていない危地らしい。だから一人で向かうのは危険だ。
そんなことを考えるより前に、俺の体は走り出していた。もしここで友人が危険に晒されていたら、もし助けを求めていたら。もし、あの時と同じ過ちを繰り返してしまったら。考えれば考えるほどに、俺は走る勢いを増していった。足跡に導かれて、無我夢中で。
ふと我に返ると、旅館から随分離れた距離を走っていた。自らの危険を顧みず奥の海まで来てしまい、気づけば夜闇の波が俺の全身を飲み込んでいた。
不安。激しくて苦しい不安。先の鋭い矢で胸を滅多刺しにされているかの様に、恐怖で体が竦む。
早く助けに行かなくちゃ。どれだけ不安でも砂に刻まれた導は続いている。なのに自分の意思とは逆に、膝が笑って思うように歩けない。どれだけ息を吸っても息が苦しくなる。押し寄せる恐怖に堪らず目を思い切り閉じる。
瞼の裏に広がる世界は、いつもとは違って真っ暗だった。その暗さが全身の神経を尖らせる。背後から無数の手が俺を引っ張ろうとしている、高波が今にも俺を飲もうとしている、ありもしない幼稚な想像に脅かされてしまう。
形の無い恐怖が、肌をゆっくりと撫でる。
しばらくしてやっと気分が落ち着いた。それでも胸の痛みは消えていない、鼓動が脈打つのが感じられる。身に危険が迫っている、その早とちりのせいで焦ってしまった。
ようやく平静を取り戻し、改めて辺りを見渡す。よく見るとここは、支配人が言うような危険があるとは到底思えない場所だった。旅館周りに比べれば、左手に聳える木々は荒々しくなってはいるが災害級の大雨でも降らない限りは危険性は見られない。そして何より、少し先には海浜とは違う景色が広がっていた。
低い段差を境目に芝が生い茂り、その向こうは海水に浸っている。芝生の先には砂浜の波打ち際よりも平面に出っ張っている小島のようなものが。その小島は直径二メートル程度の円形で、芝で覆われた円の中央には一本の木が屹立している。
「ここは…」
砂浜の海には異色な緑色の小島に、どうしてすぐ気がつかなかったのか。中央から突き出ている木は遠くからでも目立つはずなのに、俺はこんなに近寄るまで認識できなかった。まるでこの小島には、”存在が薄くなる魔術”がかけられていると思わせるほどに。
小島を発見してから、俺は立ち尽くした。
砂浜と芝の境目で、道標にしていた足跡は消えた。芝生に向かって途切れている。つまり消えた一人はあの小島にいるはずだ。パッと見て誰いないので、中央の木の裏に隠れているのだろう。
「そこにいるの誰だ?」
俺はそこにいるであろう人物の問いかけて、芝生に足を踏み入れる。問いの返事はない。
一歩、二歩と恐る恐る木に近寄る。三歩目でもう一度問う。
「尚輝か、葉山か?」
また一歩、一歩近づいて手を伸ばせば木に触れられる距離まで来たが、それでも答えはない。もう一度問いかけようとした瞬間。
「まさか追いかけてくるとは…」
木の裏から聞こえるその声は、聞き馴染みのある声だった。間違いなく の声だ。
「どうしてこんな所に…?」
俺が質問しても向こうは何も返してこない。しばらくの静寂を、波の音が埋める。
「ちょっと…眠れなくって」
そう言って木の裏から姿を現した彼の顔は、月の光が影になって見えなかった。いつも雰囲気とは打って変わって、落ち着きのある声色は哀愁を帯びている。
「折角ここまで来たんだ。雑談しようぜ」
「でもこの辺は支配人さんが危険だって…」
支配人からの忠告を一緒に聞いていたにも関わらず、彼はこの場を離れようとしない。
「まあ聞けって。お前も知りたいだろ」
「だから、それは戻ってからでも…」
「氷見明日香の事故死。災難だったな」
真っ黒な顔の彼から、信じられない言葉が発された。
「知ってるさ。彼女がなぜ、どうして死んだのか」
「…る……い…」
必死に口を動かす。なんでお前が知っている、聞きたいことは山ほどあるのに声が出せない。
「ずっと聞きたかったんだ。お前の真意を」
「うるさいっ!!!!」
力加減が分からず勢いのまま発した声は、波音を一瞬だけ搔き消した。
「…聞かせてくれ。彼女のことを」
俺を責めるように大きくなる波の音までもが、耳障りに思ってしまった。
まだまだやな。




