第六十話:序曲『ハルシネイト』
Coloro che sono governati dalle allucinazioni
いつも夢を見る。あの子の、明日香の夢を。それが毎日続いた、毎日毎日毎日。どの夢も一貫して、透明な壁が俺と明日香を隔てている。俺が何を言っても俺の声は明日香には届かない。同様に、明日香の声も透明な壁が遮ってしまう。もう何年も明日香の声は聞けていない。
七月十九日、三人とも少し遠い海に向かう当日。つまりは今日、見た夢はいつもとは少し違かった。場所も、聞こえる音も、出てくる人も、何もかも違っていた。
ふと気が付くと、俺は冷えた空中にふわふわと浮いていた。そこは横断歩道でも花畑でも学校でもない。視界は一面青色に染まっていて、時々小さくて頼りない微かな光が映る。息苦しくて体は動かせない。けれど頻繫に冷たい風が吹いていて、風が吹くと同時に聞き覚えのある音が耳に入る。俺は風が誘うまま永遠と流されてゆく。浮いて流されて、それだけの夢。流されている間は昔の記憶を掘り起こしていた。物心ついてから、あの日のこと、何もなかった日常まで、俺が生きてきた過程を果てもなく長い時間振り返っていた。
そうして風に身を任せ流されていると、そこで聞こえるには異様な音が聞こえてきた。なにか高い音。けれど風の音に搔き消されてハッキリとは聞こえない。ただ、綺麗で高い”囀り”が聞こえてくるだけ。
青く冷えた世界、頻繫に吹く冷たい風、聞き覚えのある風の音、その音の間から聞こえる高い囀り。さすがに気づくさ、ここがどこか。
ここはきっと……
*****
あんなボロい外装から、どうしたらこんなにも美しい食事が出てくるだろうか。
襖に松の絵が描かれているその和室は八畳間ほどの広さがあり、中央に置かれた和風ローテーブルの側面には高級感漂う精巧な彫刻が刻まれている。
「おまたせしました。適当なもので申し訳ないけど、よければ食べてください」
「それは…」
狐顔の支配人はお椀に丁寧に盛り付けられた料理を四人分、四角いお盆にのせて持ってきた。それを音を立てずに机に置く。
「朝早くから大変だったでしょう」
「い、いえ…悪いですよそんな…」
早乙女が遠慮の意を見せる。それに続いて俺たちも敬遠する。
「まりなの生徒さんが遠くから、こんな古い旅館に来てくれたんだ。このくらいのもてなしはさせておくれよ」
ここまで言われては食べるしかないだろう。この人は大人の魅力というものを漂わせている。高校生の配慮などはすぐに見抜いてしまう。見抜かれてしまった以上は、自らの空腹に素直に従うほかない。
そうして目の前の料理を口に運ぶと、その瞬間に口内にふわりとした旨みが広がった。簡単に作ってこれなら、ちゃんとした料理って…考えただけで涎が垂れそうになる。
「まりなは元気かい?」
俺たちが食べているところをニコりと笑って見ていた支配人が聞いてきた。
「はい、永井先生は生徒想いの…優しい教師です」
俺が返したその返事に、三人は黙って頷く。
「そうか…よかった」
永井先生には健司含め四人の親友と呼べる存在がいたと聞いている。きっとこの人も…その内の一人なんだ。でなければ知人の現状を聞いてこんな優しい笑みは溢れないだろう。
「「ごちそうさまでした」」
「お粗末さまでした」
あっという間に完食してしまった料理は、お椀一杯分とは思えないほど満足感を与えてくれた。これは夕食が楽しみだ…
支配人は空になったお椀とその他食器類を片付けに、襖の向こうへ消えていった。
*****
お盆の上には、四つ重ねられたお椀と四膳のお箸が乗っている。
さすがに驚きが顔に出そうになった。僕はまりなは元気かと聞いたら、あの子は曇り無き眼でこう答えた。
「生徒想いの…優しい教師です」
僕はあの子の目を知っている。ヒマリと同じ目をしていた。きっと彼の言ったことは嘘偽りのない"まりな"への印象だろう。
だから驚いた。
僕はまりなの言う亡霊の戯曲が起こったとき、すぐ近くでまりなや他の奴らを見ていた。
未だにあいつらは記憶が混濁しているのだろうか。だとしても僕は近頃、全てを打ち明けた筈だ。あいつらが見た亡霊の戯曲の全て、蘇ったヒマリの正体、夕凪の幻の真実を。
それが公になって、あの島は立ち入りが禁じられたんだ。
まりな…ここ数ヶ月、君には何度も驚かされるよ。夕凪の幻を生徒に話したと、それを簡単に口にした君は悪魔にでもなったのかい?彼らに真実を告げれば、自分たちをここまで導いたひまりを、優しいだなんて言えなくなる。半信半疑でここまできた生徒をみて、堕ちるとこまで堕ちたのだとよく分かったよ。
なら僕が止めてみせよう。彼らが絶望をみる前に。
死者が蘇るなんて絶対にあり得ないんだ。希望を持っている彼らを、あいつらと同じ目には会わせない。
夏の魔物が起こした、亡霊の戯曲は僕が潰す。
「ヒマリ…戻ってきておくれよ…」
歯車が足らなくなった時計は、動くことを止める。そこに入る代わりなんてこの世のどこにも有りはしない。僕らの友情は…歯車が欠けただけで動かなくなるただの時計なんだって、ヒマリがいなくなって思い知ったよ。
「僕だって、死者が蘇る伝承を信じていたかった」
僕は重なっているお椀をバラして、シンクに放り投げた。
九月も中旬だというのにこの暑さ…北国にでも移住しましょうかね。
北欧がいいなぁ…




