第五十二話:差し込む光
君が残していった花の名は___『菖蒲』
僕が摘んだのは__黄色い『アイリス』
静寂。窓から入り込む爽やかな風が俺の頬をそっと撫でる。
閑静。車の音も通行人の話し声も鳴り止んでいる。
沈黙。溢れるほどの憎悪で満たされていた瞳は、感情が底つきた今はただの空の器と化している。
そんな静けさの中でも、楓葉は座ったまま微動だにしない。
「あのファイル、読んだんだ。お前にあんなことがあったなんて知らなかった」
あまりの静けさに耐え切れなくて、俺は楓葉が巻き込まれた事件を知ったことを話した。楓葉は少し目を見開いたように見えたが、一瞬にして元の表情に戻ってしまう。
「多分俺は…麻樹を巻き込んだお前を許せないと思う。でも父を恨むのも当然だよなとも思うんだ」
俺と楓葉は似ている。大切な人を失う気持ちも、奪った奴を恨む気持ちも、二度と会えない喪失感も、俺には楓葉の想いが痛いほど分かる。ただ俺には報復に至るほどの執念とそれを成す術が無い。それが俺と楓葉を大きな違いを作った。
「当然…か」
無気力の限りを尽くした細々しい声は、俺の耳の奥まで届いた。
「俺もお前の立たされてる状況になったら、きっと同じことをした」
俺から奪った張本人でなくとも、そいつと血縁関係や近しい関係にあるのなら、怒りの矛先がその人に向いているだろう。似ている、気持ちが理解できるからこそ、俺は楓葉を…
「僕の気持ちが分かるとでも思ってんのか?」
その問いにすぐに答えられなかった。分かる、だって俺も似た境遇だったんだ。分かる…だよな?
「僕も知ってるよ、君の過去。だから言い切れる。僕の気落ちは誰にも理解できない」
「分かるよ!守りたい人を目の前で失う…これがどれだけ辛くて苦しいか…」
あの日の瞬間が脳裏をよぎる。今でも胸が張り裂けそうなほど苦しくなる、心が痛くなる。楓葉もきっと同じだけの苦しさを…
「そいつは皮肉か?確かに僕と君は似た過去を持ってる。事故か事件かに大した差はない。でも圧倒的な違いが一つある」
淡々と、無情ながらに続ける。
「君が憎む相手は、裁きを受けただろ」
その一言で何かに背中を押された、突き放された気がした。楓葉の言う通り、あの男は法の下で裁きを受けている。だけど命苫将人は一切の罰を受けていない。司法ですら父を裁けてはいない。
俺はあのファイルで何を読んだんだ…被害者の想いを分かるだなんて…
「僕の憎しみは君の比じゃないよ」
俺と楓葉、二人の空間に再び沈黙が訪れる。このまま終わらせたらダメだ、そう思っても言葉が出てこない。こんな…みんなが苦しむだけの終わり方なんて絶対にダメなのに……
一人で葛藤に集中しているせいか、楓葉が立ち上がったことにすぐに気づかなかった。椅子が倒れる音に驚いて、ようやく楓葉の目線が高い位置にあると分かる。
恐怖と困惑で頭の中が混乱状態だ。いちなり立ち上がるわけも分からず、あんなことがあった後で恐怖が甦る。やっぱり二人になるのは危険だったか…つい先刻、夜崎さんと覆面Yを追い出したことを後悔する。
頭を守る体勢になって、強く目を瞑る。またあんなに殴られたら、今度こそ…
「ごめん…なさい」
目を薄く開けると、楓葉は殴るでも刺すでもなく深々と頭を下げていた。
「えっ…?」
だがその行動の意味はすぐ理解した。楓葉は俺たちにしたことを謝っているんだ。
「あの日、君が気を失った後に覆面Yと揉めあって」
俺が気絶したその後、あの事態を治めてくれたのは覆面Yなのか。
「その時に言われたんだ。ずいぶんな綺麗事で諭されたよ」
「綺麗事…?」
俺も覆面Yに諭されたばかりだ。あの楓葉の怒りを鎮めるには何を言ったのか…
「何を言われたか気になるか?」
驚いて体がビクッと反応する。考えを読まれたこと、そして楓葉が微笑みを浮かべたことに。
「確かね…親の罪は子供の罪じゃない、あの二人はお前の仇じゃない、彩子はこんなことで喜ばない、だとか。素性も感情も隠した声で言われても全く響かなかった。君を殺すことで頭がいっぱいだった。それでも止まらない僕に覆面Yは言った、その子たちを殺せばお前も人殺しだ!!って」
あの時点で楓葉の怒りは我を忘れるほどに膨れ上がっていた。そんな楓葉を覆面Yは必死で留めてくれたのがよく分かる。
「そう言われて思ったんだ、関係のない君を殺したら僕は命苫将人と同じ類になってしまうって。あの時はもう人を殺すことを躊躇っていなかった。でも、あいつと同じ過ちを犯すのを体が拒んだ。それで動きが止まった僕は覆面Yに取り押さえられたんだ」
これはその時にできた傷だ。楓葉は額のガーゼを押さえながら言った。殺人衝動に呑まれていた楓葉を止めたのは、覆面Yの隠し切れない感情かもな…と密かに思う。
「でも、どうして謝ってくれたんだ?」
「君たち兄妹には到底許されないことをした。だからこれはただのエゴだ。関係ない君たちを巻き込んだことにしっかりと謝罪の意を示したかった」
俺は楓葉を許せない。ほんの数分前までそう思っていたのに、どうしてだろう。許していいと思った。許せると思った。『許してあげて』耳元で白い何かが揺らめいた。
気付けば空は橙に染められていた。一寝入りしたらあっという間にこんな時間だ。
「おはよう。よく寝てたね」
昼間と同じように夜崎さんが声を掛ける。まだぼんやりする視界を擦り、もうおそようですけどねと定番の返しをする。
「あーちゃんと話せたみたいね」
話せてよかったと思う。おかげで楓葉に対する怒りは微塵も残っていない。
「楓葉は?」
姿の見えない楓葉の所在を訊ねる。まあ探偵なんだから暇じゃないよな…
「ずっとここにいるぞ」
いきなり楓葉の声が聞こえたと思ったら、夜崎さんの背後からひょっこりと現れる。
「なにしてんだ…」
呆れた。昼までのシリアスモードとは一変し、ネタに走りやがったこいつ…
「さっ、将也くんも元気そうだし。あーちゃん、早く準備するよ」
「はいはい」
「準備って、なんの?」
突然出現した訳の分からない単語に、首を傾げる。なにか始まるんだろうか?
「言ったでしょ。終わったらまた来てねって」
「あー…」
バーから帰る前に夜崎さんがそう言っていたのは覚えてる。だからってそれとこれになんの関係が…まさか!!
「この後、みんなで飲みましょ。麻樹ちゃんも来てくれるって」
「もちろん君たちはジュースね」
「早く準備するわよ!」
そう言うと、夜崎さんは楓葉を置いて部屋を出てってしまう。本当に元気な人だな…こっちまで元気になるよ。
「命苫…」
置いていかれた楓葉は、俺を呼ぶ。
「僕は間違いを犯した結果、君たちを巻き込んだ」
またも淡々と語りだす。けれどその声色に無情さは感じられない。
「でも、復讐をやめるつもりはない」
「はっ⁉」
驚きのあまり、完全回復していない身体から一気に力が抜ける。自分でも呆れるほどの間抜けな声に羞恥を感じる。ただ、それに続くは前までの楓葉からは出ないであろう誓いだった。
「命苫将人を…僕がこの手で裁いてやるさ」
俺はその言葉に不思議と安心感を覚えた。楓葉の目的は何ら変わってないし、命苫将人への恨みも晴れてはいない。それでも、出会った時の暗闇一色だった瞳には小さな光が宿っている。今の楓葉を見れば、彩子さんも安心できるだろ。
「んじゃ、準備できたら呼んでやるよ」
「あぁ」
そう残して去っていった楓葉の背中は、輝かしい希望を放っていた。
楓葉は自分を変えた。怒り、憎しみ、寂しさ、虚しさ。彼の内からそれらが拭われることはないだろう。そんな苦しさと一生を共にする。それでもちゃんと向き合って生きれば灯火は再び焚かれる。
でも、どれだけ楓葉の希望に感化されようとも。俺は…この仮面を、道化を降りるつもりは到底ない。それがあの子と…明日香との約束だから。
*****
男は軽やかな足取りで部屋を出る。あれだけ苦労して近づいた宿敵に、あんなにも自然に接近できている。
「ごめん彩子。一矢報いることはできなかった」
枯れ果てた涙腺から、透明な涙が零れる。
「僕は、彩子の死を受け入れたくなかったんだなぁ…」
男は歩く速度を落とした。ゆっくり歩いてあの頃を思い返そう。楽しい思い出、嫌な思い出、今はどれもが過去になってしまった。彩子がいない今では、どれも哀しい思い出。
「もう一度思い出に浸ろう。僕を造ってくれた青春に」
楓葉歩は…ほんの少しの間、長い記憶の旅を漫遊した。
湖山彩人は知らぬ間に消え去った。
長かったーーー!!!!
約二十話・五か月間続いた父親編もこれにて終了です。
夕凪の前にちょっと話数稼ぐ予定が現時点本作品最長編になってしまいました…(-_-;)
次回から数話、父親関係の話が出てきますが、それが後々に影響するんです…許してください
楓葉ー!加澄さんー!ありがとー!!




