第五十話:命苫の罪
君がくれた紫苑の花を
ここは息苦しい。息が吸えない、それに寒い。微かに小さな光が見える。もしかしたらここは…死後の世界か?
楓葉にあれだけ殴られたんだから、死んでもおかしくないか。…麻樹は助かったかな?楓葉はどうなったんだろう。覆面のあの人はなんで俺を…死んでしまった今、そんなこと考えても仕方ないか。
明日香に会えるかな。永井先生に迷惑かけたな。葉山は、尚輝は、早乙女は…俺の死を悲しんでくれるかな。それにしても、死んでも苦しさは消えないんだな。
『あなたはまだ、死んでないよ』
どこからか全身を包み込んでくれるような優しい声が聞こえた。
『だからこっちに来ちゃダメよ』
鳴き声、鶯の。あまりにも涼しげな波の音。息が吸えないもどかしさ。冷たい風に流されているような…
ここは…水の中…?
ゆっくりと瞼を持ち上げる。まだ完全に覚醒していない頭でも分かることがある。
木目調タイルのシンプルな床。今俺が使っているベッドと、レトロなドアノブがついているドア、小さいとも大きいとも言えない窓が一つ。今は網戸になっている。外から吹き込む風が白いレースのカーテンをひらひらと揺らす。すぐに視界を飽きさせる殺風景な部屋だ。
「どこだ…?」
か弱くて細々しい、今にも消えてしまいそうな声が自分のものだと理解して驚いた。適当に喋ってみてもその声は頼りない。楓葉の一件で随分と体力を持っていかれたようだ。
見ず知らずの場所に気をひかれて大事なことに気づいていなかった。
「麻樹は…」
俺の言葉に反応するかのように、オシャンティーなノブが動いた。静かにゆっくりとドアが開く。
「調子はどう?」
ドアが開いた先で待っていたのは予想外の人物だった。麻樹ではないことに落胆するも、その人であったことに少し安心している。
「夜崎さん…」
ドアから入ってきた夜崎さんは、やっぱり目が奪われるほどの容姿だ。だが前に会ったときとは違って、綺麗なロングヘアを後ろで結っている。所謂、ポニーテールというものか。服装も前のような派手なチャイナドレスではなく、白黒のボーダートップスにクリーム色のロングスカートと、清楚で落ち着いた印象を与える格好だった。
「良かったわ。元気そうね」
そう言って、夜崎さんは手に持っていた物を俺に渡してきた。
「野菜粥よ。食欲はある?」
一輪の花が描かれた茶碗に入ったお粥。今まで感じていなかった空腹がいきなり襲い掛かってきた。
「…いただきます」
夜崎さんへの感謝もそこそこに、目の前のお粥にがっつく。その美味さは生涯口にするものの中でも一二を争うほどだ。
「お口に合ったみたいね。嬉しい」
すぐに完食してしまう。小さな茶碗一杯の量では正直物足りない。それでも活力が戻ってきた気がする。
「実はね、彼も連れてきたの」
俺はようやく夜崎さんの言葉に耳を傾ける。
「彼…?」
一体誰を指すのか分からなかった。一つだけ頭に浮かんだこと…それは、楓葉だ。そうだ、覆面の人物が助けてくれてそれで、それから、どうなったんだ?俺は全身を緊張させる。微弱ながらも力をいれて。
「そんなに警戒しないで大丈夫よ。入って」
夜崎さんが開けっ放しにしていたドアから、その彼は姿を現した。
「お怪我は大丈夫ですか。命苫将也さん」
その人物には見覚えがあった。あの時、楓葉に殺されそうになった俺を身を挺して庇ってくれた性別も年齢も不詳の人。
「覆面Y…」
記憶を探り、楓葉が彼?をそう呼んでいたことを思い出す。変声機を通した機械質な声はあの時と同じ。かっちりと決まった黒スーツにプロレスマスクの覆面という格好はどうにも警戒心が緩まない。怪しさと不気味さを掛け合わせた人だなと心の中で思う。
「名を覚えてもらえるとは、光栄です」
声からも表情からも、一切の感情が読み取れない。その風貌は、まさしく真犯人のそれである。
「夜崎さん…彼は何者なんですか?」
楓葉とも面識があるようだし、顔を隠し声を変えるにはどんな事情を持っているんだ。
「一言でまとめるのは憚れるけど、あなたの味方よ」
味方か…怪しさ満点の覆面男がね。夜崎さんがそう言うんだからきっとそうなんだろう。でも、だからって…
この時の俺は、楓葉のこともあって疑心暗鬼になっていた。夜崎さんに覆面Y、俺たちを助けてくれた恩人に疑いの目を向けてしまう。あんなことがあった後だから精神的に参っていたんだ。
「まあ、すぐには信じてもらえないわよね…」
そりゃまあ信じられんでしょう。そのプロレスマスク結構怖いからね。
「将也さんは、楓葉歩の過去をご存知ですか?」
「まだ話してなかったね…」
楓葉歩。その名前を聞くだけでもあの恐怖が甦る。今は怒りのほうが強いが。
「まっ、その為にコレ持ってきたんだけどね」
ずっと気になっていた物を、夜崎さんは俺に差し出す。覆面Yがずっと手に持っていたので尋ねたかったが、訊くタイミングを逃していた。
「これって…」
俺は夜崎さんから受け取り見覚えのあるそれをじっと眺めた。この鈍器のように重たくて分厚いファイルは他でもない、夜崎さんと出会う少し前まで湖山邸で読んでいた、命苫将人の事件が記録されたファイルだ。
「あの子は選択を間違い、あなた達に許されないことをした。あの子を恨むのも当然よね」
知ったようなことを話す夜崎さんに対しても怒りを覚える。麻樹までも巻き込んだ楓葉を、俺は許すつもりはない。
「でもね、その前にまず知ってほしい。あの子に…あーちゃんに何があったのか。楓葉歩が悪かどうか判断するのは、それからでも遅くないわ」
楓葉はこう言っていた。あの廃工場で命苫将人に恋人が殺されたと。しかも、楓葉本人の目の前で暴行を加え、虐げ、体を…その後に命を落とした。俺と同じように目の前で大切な人を失っている。
「だからって麻樹を巻き込んで……!!」
力を振り絞って出した言葉はすぐに消えてしまった。夜崎さんのその目から伝わるなにかが、俺の心を揺るがした。
「お願い」
その目の奥には、後悔交じりの確固たる意志があった。自分の罪を悔やむような、そんな後悔を交えて。
「分かりました」
仕方なく承諾すると、夜崎さんは哀しい目をして静かに笑った。
俺は表紙に父親の名と数字の三が書かれたファイルの重さに情けない声を上げる。この中にも俺が見た二つのファイルのような事件が載っているんだろう。この重さは、ここまで踏み込んだ俺が背負う責任でもあるんだ。
俺はあの日と同じように、ファイルを開いた。
五十話だぁ!
読者の皆様のおかげでここまで辿り着きました。連載から早くも9ヶ月、色々ありながらも続けることができました。本当にありがとうございます。
そしてもう半分で百話です。百話まで続けれるよう頑張ります。
これからも『道化の心を奪うのは』をよろしくお願いします。




