【終わらせて】(前編)
幔幕の中で、官兵衛は伝令たちに命令を与えていた。
「盛んに篝火を焚け。阿波で太閤殿下がやったみたいにな。柵と逆茂木以外なら、何でも燃やせ。炎それ自体が敵の足を止める障害になる」
頷いて立とうとする伝令たちを引き留めて、官兵衛は更に付け加えた。
「よいか? 今宵は新月、夜陰に紛れて包囲を脱出するに都合が良い。くれぐれも火を絶やすなよ?」
伝令たちはまた頷いて、勢いよく駆けだしていった。幔幕の外へ彼らが出て行って、ほどなく、彼らの足音が同数の馬の足音に変わった。
夜は音が通る。幔幕の中で官兵衛が静かにしていると、外の話し声が聞こえてきた。大将の近くだというのに声を潜めるような配慮もない。
「あの破れ城を落とせば、終いか?」
「そりゃあそうだ。そこにしか敵はいないんだから」
「思ったより、早く帰れそうだな」
「ああ。早く帰って、貰った銭で田を買いてえよ」
「おっ、そりゃいいな。俺も、女買わずに畑でも買うかな」
「買え買え。飲み食いや女に使えば、その日限りだが、畑や田は子に受けつがれていく」
「年貢ももう取られなくなるらしいし、耕し得だもんな」
官兵衛は静かに苦笑した。彼らは、もう、勝ったつもりでいるのだ。
「全く、愚かなことだ……」
言葉の意味自体は辛辣なものだが、その口調には温かみがあった。
農民たちは、愚かで短絡的で、単純で素直である。だからこそ、はした金や、年貢の免除などという不確かな噂をあてにしてついて来てくれているのではないか。
それに、官兵衛からしてみれば、愚者というのはありふれた存在である。自分と同等、或いはそれ以上という者は二人しか知らず。そのどちらも、既に死んでいる。
愚かさを愛おしいと思える性質でなければ、官兵衛は孤独に苛まれて死んでいただろう。
ふと見上げると、燃えるような夕焼けが終わっており、空が黒く冷めきっていた。その代わりに、夕日と同じ色が下から空を温めている。
官兵衛が杖をついて幔幕を出ると、指示した通り、無数の篝火が、伏見城の全周を取り囲んでいるのが見えた。円形の包囲陣に合わせておかれた篝火が、円状の線を形作っている。それが、陣の内側から外側まで、何重にも重ねられていた。
「年輪のようだな……」
無数の小さな太陽が、地上を隙間なく照らしている。これだけ明るければ、夜陰に紛れて脱出を図るのも、不意を突いた夜襲をかけるのも不可能だろう。
この光景を見れば、農民たちが言っていたことに誰もが頷くだろう。
だが、少し視野を広くすれば、北陸道と中山道の制圧を終えた東軍の大軍が、すぐそこにまで迫ってきている状態なのだ。
官兵衛がいるのは、伏見城のすぐ北東にある大岩山という山の中腹である。大岩山から東には、醍醐山などを始めとする山脈が、近江の境として鎮座している。その山脈一つ隔て先に、秀忠がいた。
今は、官兵衛の流した欺瞞情報が作用して、足止めできている。しかしもし、井伊直政の様な徳川家で発言力のある者が、情勢を細やかに報告し、強攻を強く主張すれば、秀忠は胎を決め、伏見や大坂に攻め入ることだろう。
そうなれば、全てが水の泡となる。これが、伏見城の陥落を急ぐよりも、外部との連絡を遮断することに注力している理由であった。
そこまで思考したところで、官兵衛は笑った。
「……いや、そうなってしまっても面白いか」
ここまで、自分の思い描いた通りに事が進んでいる。一つぐらい思惑通りにいかないことがあった方が、張り合いが出るだろう。
己の才なら、何があってもどうとでもできる。若き頃から密かに抱いていた自信が、証明されつつあることに、官兵衛はこれ以上ない喜びを感じていた。
「今の儂には、周りを囲う石の牢も、上を塞ぐ人間も、ない」
存分に己が力を振るえる楽しさ、これに勝るものが、今の官兵衛には無かった。
自分がどこまで行けるのか。それを官兵衛は試したいだけであった。後のこと、ましてや自分が死んだ後のことなど、どうでも良い。
なればこそ、金銭を惜しみなく与え、年貢の免除などという噂も流せたのだ。
官兵衛は、大きくあくびをした。若くない身で、夜を徹するのは辛いものがある。
「……そこの、儂は少し寝るから、何かあったら起こせ」
見張りにそう言って、幔幕に引き返した。
陣頭で戦う気はないため、具足はつけていない。狭い輿の上に巧みに寝転がり、官兵衛は寝た。
──砲声が、官兵衛の目を覚まさせた。
火薬の絶叫が、けたたましい。耳の聞こえない者でも、体を震わす轟音を肌で感じられるだろう。
「……やはり来たか」
こうなることを予期していた官兵衛は、慌てることなく身支度を整えると、杖をついて幔幕の外へ出ようとした。
すると丁度、見張りが飛び込んできた。
「敵襲でございます!」
「見ればわかる」
外に出て、伏見城の方を見下ろすと、篝火が次々に消えていっている。
「……やはり、立てさせた甲斐があったな」
篝火が消えているところが、敵の通過しているところである。
「やけに散漫な攻撃だな?」
敵の先鋒がいるであろう暗くなった箇所が、伏見城を中心に、放射状に伸び続けている。
普通、攻撃というものは、戦力を集中して行うものである。だが、眼下で見える敵の動きは、真逆であった。
官兵衛が不思議がっていると、麓から一騎、土埃を巻き上げて駆けのぼってきた。
「報告! 敵勢、城を打って出てきた模様!」
「……見ればわかる。敵はどのように戦っているのだ?」
「はっ。一領具足が二十から三十人程に別れ、こちらの陣にぶつかってきております」
「なんとも少数だな。組数は?」
「これは推測ですが、二百程かと」
「二百……か……」
官兵衛ですら一度に指揮できるのは、二十組が限界である。それ以上は、頭での処理はともかく、指示が追いつかない。統率を取れた行動だとは到底思えなかった。
「ただ単に逃散している、というには、攻め気がありすぎるな」
大砲や大筒を撃てば、その瞬間からこちらが臨戦態勢に入ることになる。逃げ出すというのなら、静かに城を出た方がその可能性が高いだろう。もっとも、その場合でも逃げられるような包囲網を官兵衛は築いていないが。
何らかの意味を持った行動にしても、戦力を小分けにして敵にぶつけるというのは、卵を石にぶつけているようなものと同じである。合理的とは思えなかった。
徐々に混乱と暗闇が大きくなっている。軍の殆どが、戦い慣れていない農民たちであるからだろう。だが、年輪でいえば樹齢一・二年の辺りが揺らいでいるだけである。突破には、まだ十年分ほどの厚みを貫かなければならない。もし、彼らの総力が楔のように一ヶ所に撃ち込まれていたら、八年分の辺りまでは食い込めていただろうに──
「──そうか。本命は、直政か」
一領具足の行動は全て陽動である。こちらがその対処に追われている隙を狙い、城内の赤備えが突破を図るつもりなのだろう。
そうと分かれば、官兵衛の行動は決まった。
「輿をもってこい。下まで降りる」
戦場の大まかな様子は分かった。頭の中に、周辺を書き記した地図もある。後は、報告を受ける度に調整していけば、実質的に戦場を鳥瞰できる。
今は、山から見下ろすよりも、少しでも戦場の近くに行き、報告と指示の伝達に掛かる時間を少しでも減らすのが最優先だった。それに何よりも、官兵衛の頭脳と指揮統率能力、そして信望が、前線には不可欠であった。




