【裏切られて】
天下一の名城、大坂城。
豪華絢爛な天守を守る城郭だけでも相当な物だが、更にそれを、北の淀川、東西の湿地帯、南を長大な空堀が囲う。見た目以上に巨大な城であった。
その大坂城の南側に、東軍は戦力を集中し、攻城の機会を伺っている。
秀頼のいる大坂城を攻撃するということは、主家である筈の豊臣家に弓引くことに相違ない。しかし、一年に渡る死闘が、豊臣家中の内紛であるという建前を擦り落としている。東軍の中に、その建前を口にする者などいなくなっていた。
元親は、攻囲陣の中を一人で進んでいた。家康が着陣したということで、挨拶に向かっているのだ。
鎚や鋸の音、怒号があちこちから聞こえてくる。兵たちがどこからか資材を持ってきては、それをせっせと櫓や柵や陣小屋に作り替えているのだ。長期の滞陣が見込まれる戦いではよく見られる光景だが、それが十万人分ともなると、町一つ作り上げてしまいそうな活気があった。
対して、城内にいる筈の二万の西軍は、沈黙を保っていた。普通に考えれば、士気が低いからだろう。だが、獲物が背を向けるのを待っているかのような不穏さもあった。
「……いや、買いかぶりすぎか」
官兵衛の陣を突破したものの、彼らは東軍本隊の追撃をもろに受けていたらしい。きっと、疲れ切って眠りこけているのだろう。
家康は、大攻囲陣からやや南に外れた場所に本陣を構えようとしていた。元親がそこに辿り着いた時にはまだ構築中らしく、木枠が立っているのみで幔幕が貼られていなかった。城の方に目を向ければ、できたばかりの櫓が遠くに見える。
元親が鳥居の幼体の様な出入り口に近づくと、見知った者が声をかけてきた。
「申し訳ありませぬが、懐にある短筒をお預かりしたく……」
井伊直政であった。よく見ると、特徴的な赤備えが本陣の周りに点在している。彼が家康の身辺を警護しているようだった。
元親が抜いたのが刀であればどうにかできる。けれども、鉄砲だと防げないということなのだろう。こうなることは予期していたため、元親は快く単筒を預けた。
家康は、元親の姿を見るなり、弾むように床几から立ち上がった。
「おお、元親殿!」
年齢と体型のわりに機敏に駆け寄り、元親の右手を両手で握る。
「なんと御礼を申し上げたら良いか! いや、申し上げるだけでなく、何を差し上げればこの御恩に報いることができようか!?」
感涙しているのか、目が潤んでいる。演技か本心か、元親には判別できない。
「それでしたら、あの時の約定を守っていただけるだけで充分でございます」
「四国を与えるという? 本当にそれだけで宜しいのですかな?」
「ええ。徳川の天下になり、世が治まる。それ以上のことを望んではおりませぬ」
その言葉に、嘘偽りは無かった。徳川の治世は平和が長く続く。それぐらいは元親も覚えている。
家康が、疑い、というよりも、不思議な生き物を見るような顔をした。
「……不思議なお方だ。相分かり申した。天下泰平、それと、長曾我部家を末代まで粗略に扱わぬことをお約束しましょう」
家康のその言葉を聞き、元親は、左腕の切断面を上空に向けてぐるぐるとまわした。
「どうなされた?」
「肩が凝っただけのことです」
この言葉に、偽りはあった。
肩こりに効く湿布の作り方を一通り伝授してもらった後、元親は本陣をでた。
これで、戦いはほぼ終わった。後は、消化試合じみた大坂城攻囲戦を終えるだけである。
何も起きなければ。
「これはこれは、元親殿。前にあった時より、晴れやかな顔をされておいでで。内府殿とどのようなお話をされていたので?」
黒田官兵衛が、杖をつきながらやってきた。
「右手を握り、いたく感謝されました」
「ほう、右手を。その時、左手の方は……、ああ、いえ、何でもござりませぬ」
元親の左腕に落とした視線を、官兵衛は戻した。
「それほどまでの格別の扱いを受けたとなれば、かなりのご加増があったとお見えします」
「その通りです。四国を賜りました」
「四国!? 元親殿ほどの大功を上げた者が四国だけ!? それでは、拙者の恩賞もたかが知れるというものですな……」
がっくりと肩を落とす大袈裟な反応を官兵衛は見せた。直政が見ている前だというのに、後が怖くないのだろうか。
官兵衛はすぐに姿勢を戻し、元親にだけ聞こえる声で囁いた。
「もし、日本の西半分が貰えるとすれば、如何なされますかな?」
元親は、冗談だと思ったまま、返した。
「半分を……? いえ、これ以上多くは望みませぬ。ただ、平和になれば、それで」
官兵衛が元親の顔をじっくりのぞき込んできた。頭の中は見透かせなくとも、皮膚の内にある筋肉なら透視できそうなほど真剣であった。
「……本心か」
官兵衛はそう言った途端、急に興味が失せたような顔をし、歩き出した。さっきまであった朗らかさが消え失せてしまっている。
突然人が変わったような官兵衛に不気味さを感じつつ、元親も歩みを始めた。もうここには用はないからだ。
遠くから、家康の喜色に満ちた声が聞こえる。話の内容は聞こえないが、おそらく、元親の時と同じように官兵衛の手を取っているのだろう。
そして、その声が、ぶっつりと切れた。
「殿!?」
本陣を警護している赤備えが、直政の叫びを聞いて続々と本陣に突入していく。
明らかな異常事態に、元親も本陣に走った。体を蝕む病状も、この時ばかりは大人しくくれた。
さっき通った出入り口に立つと、何が起きたのかよくわかった。赤備えが槍を向けた先に、官兵衛が立っている。左手には、血塗られた仕込み杖。足元には、家康が血を流しながら倒れていた。
「平和になられては、困る。天下にはまだまだ乱れておいてもらわないと」
血だまりの上で、官兵衛は不敵に笑っていた。向けられた数十本の槍など意に介していないようだった。
その不気味な様子に、何人かの赤備えは少しひるんだ。だが、直政が叱咤した。
「ひるむな! 捕らえるまでもない! 差し殺せ!」
赤備えの槍先が殺気を帯びた。
その瞬間、大地が揺るがんばかりの喊声が上がった。
元親が振り返ると、攻囲陣の中で戦闘が起きていた。城内の兵士が打って出てきたわけではない。官兵衛の兵、農民そのものの彼らが、味方だったはず東軍に襲い掛かっているのだ。槍だけでなく、鎚や鋸で襲っている者も多くみられる。
さらに、その混乱の最中、城内の兵が本当に打って出てきた。混乱極まる攻囲陣を、秩序だって攻撃し、蹴散らしている。
明らかに、計画性を持った裏切りであった。
「突破を許したのはわざとだったのか……」
捕らえた輝元を通じて西軍と交渉したのだろう。扇ぐ主君が変わるだけなら、滅びるよりずっとましだと考える者は、きっと多い。
「このっ、裏切者め!」
直政が官兵衛を詰った。だが、官兵衛はそれを何の痛痒も感じないようで、言った。
「何を言う。一度の裏切りは軍略の内と言われているだろう。それに、そこの、元親殿を見てみろ。あれも拙者と同じ裏切者ではないか」
そう言い終わると同時に、黒具足の武者が、何十人も本陣に駆けこんできた。彼らは、官兵衛の部下のようで、その勢いのまま赤備えに切りかかった。
このままでは、自分も殺されるか捕らえられてしまうだろう。そう思った元親は、急いで自分の陣地へ逃げ帰ろうとした。だが、そこへの道の途中に、立ち塞がる者が一人いた。
屈強そうな大柄な男だ。両腕があっても勝てないだろう。
男は刀をゆっくりと抜きながら近づいてきた。そして、倒れた。
遅れて、この騒ぎの中を貫くような銃声が、聞こえた。
元親は櫓の方に目をやった。そこにいた蛍が、援護してくれたのだと分かったから。
「助かった! だけど、そっちも早く逃げてくれ!」
この元親の叫びはきっと、見えたことだろう。
混沌とした攻囲陣の中を移動していると、一領具足が十人、二十人ごとの塊となって合流し始めた。皆、元親の身を探しに来てくれたようだ。
「親直様も盛親様もご無事です」
今のところ、これが唯一の朗報であった。
親直と盛親と合流し、元親たちは大坂湾の方へ向かった。
そこまで行けば、大黒丸二号を始めとする長曾我部水軍の援護を受けられるし、四国へ逃げることもできる。
が──
堺の方から、極太の火柱が上がった。橙の炎の輝きと黒煙のコントラストが、不定形の丸から徐々に茸型に変化し、堺の町を睥睨していく。
数舜遅れ、衝撃波が轟音と砂埃を伴って元親の体を叩いてきた。
「あれはなんぞ!?」
「雷神様の怒りか!?」
初めて目にする光景に、一領具足は理解が追い付かない様子だった。
元親はすぐに何かわかった。そういう知識があるからである。いや、知識だけでいうのなら、ここにいる者であれば、あれが何なのか知っている。ただ、規模が大きくなっただけの話なのだ。
「火薬が引火したか……」
大黒丸二号には大量の火薬を積んでいた。それが同時に爆発し、今まで見たこと無いような、神の所業とも思える光景が堺の空に現れたのだろう。
頼和が、火の不始末という初歩的な失敗を犯すとは思えない。官兵衛の手が及んだに違いない。おそらく、このまま港に向かったところで、海に出られはしないだろう。
「……引き返そう。近江に行けば、秀忠の軍と合流できる」
中山道の征服を行っていた秀忠が、近江の辺りに来ていると聞いたことがある。それに、北陸の前田家もこちらに来ているはずだ。それらと合流できれば、まだ充分に巻き返しを図れる。
堺から近江へ向かうには、再び大坂の近くを通る必要がある。その為、途中、官兵衛の部隊や西軍から攻撃を受け、一領具足は強かな損害を受けた。
合流した時は八千人に程だった一領具足も、五千を僅かに超すかどうかという所まで数を減らした。
何とか京の近くまで行き、近江まで後少しという時、前方に軍勢が見えた。
全員の具足が赤い。珍しく、味方であった。
直政が、元親の所までやってきた。彼自身も相当戦ったようで、具足の赤に、朱が混じっている。
直政は言った。
「残念ながら、この先へは……」
こんなところにまで、官兵衛の手が及んでいるようだった。
「……伏見城に行きましょう。あそこなら流石に敵も占拠していないでしょう」
追い込み漁のように、官兵衛の誘導する方向に追い込まれているように感じる。
だが、それでも構わない。
きっと、最後の最後まで、官兵衛は手を抜かず追い詰めて来るだろう。だからこそ、反撃のしようがあった。




