【関ヶ原にて】(中編)
時は少し遡り、まだ霧濃く、銃声の一つもない時間帯。
松尾山の麓近くに布陣した元親は、物見からの報告を待っていた。
自分の読んだ通りに、関ヶ原が戦場となった。地形は既に把握している。あとは敵の布陣状況さえ分かれば、この霧の中でも全体の戦況を掌握できる。
筈。
「そう、思い通りに行くのかな……」
戦場が見えないまま、戦術指揮を実行するというのは、神業に近い。
目隠しをしたまま将棋を指すという遊びがあるが、それはあくまでターン性の遊戯である。混沌とする実際の戦場を隅々まで把握するには、ただ見えるだけでなく、空から見下ろす鳥の視点を以てして、尚、足りない。指揮官として百を下らない経験を積んだ元親であっても、できるとは決して言いきれなかった。だが、そんな神業をやってのける人物が一人、この戦場にいる。
足音が複数聞こえて来た。敵が来る東からではない。霧に投影されたシルエットが、徐々に大きくなり、やがて、その輪郭と色味がはっきりと見えるようになった。
「せっかく隣り合ったというのに、挨拶の一つもしないというのは味気がないと思い、参りました」
輿の上に乗った男がそう言った。足音の正体は、腰の担ぎ手たちである。
「あ、これはとんだ失礼を」
「ああ、いえ。そういう嫌みを言いに来たわけではござりませぬ」
言葉に毒気は無かった。それが本意だろう。
元親を訪ねて来たのは、大谷吉継であった。数日前に前田軍二万五千を退けている。その方法は、尋常ではなかった。
まず吉継は、前田軍大将の利長の妹婿を捕らえ、『西軍が海路より迂回して、本拠の金沢城への奇襲を企てている』という手紙を送らせた。それによって、越前への南下を始めていた前田軍を退かせ、現地の西軍方守将にその背後を衝かせて、撤退を潰走へと変えさせたのだ。
たった一通の手紙によって、万の大軍を退けた。この一事によって『百万の軍勢を任せてみたい』という秀吉の評は、証明されているといっても過言ではないだろう。しかし、そんな将器の持ち主の手元には、三千の手勢しかいない。時勢というもののままならなさが数字となって如実に表れていた。
或いは、神的な何かの意地が悪いのかもしれない。と、元親は思った。何故なら、その才を十全に活かす前に、吉継は病によって光を奪われているからであった。顔を覆う頭巾の隙間から覗く双眸は、霧のように白く濁っていた。
ん? 待てよ。なぜ目が見えないのに目が合っているんだ?
そんな元親の心の声が聞こえているのか、吉継は答えた。
「盲になってからというもの、鼻が異様に利くようになりまして」
「鼻が……?」
吉継の頭巾で覆われた顔の中央に、本来あるべき出っ張りは無い。
「ええ。そのおかげで、見えていた時よりもむしろ、色々『見える』ようになりました。証明というわけではありませんが……、先程から濃い火薬の匂いがします。おそらく、護身用に鉄砲を持たれているのでは?」
正解だった。火縄銃を切り詰めて作った短筒を懐に忍ばせている。
「それに……」
こらえきれなかったのか、低い笑いが漏れ出し始めた。それをようやく引っ込めて、吉継は言葉を続けた、
「いや、失礼しました。流石は土佐の御方、陣中でも焼酎を肌身離さずにおられるとは……」
これもまた正解であった。ただ、元親自身はあまり酒を飲まない。これの用途は別にある。ただ、訂正するわけにもいかず、元親は話を合わせながら愛想笑いを浮かべた。
その後、ふと思った疑問を尋ねた。
「……にしても、それだけ鼻が利くようになると、臭いが気になりませんか?」
「ええ。戦場では人の体臭や馬糞、火薬や血の匂いがそこかしこから漂ってきます。しかし──」
吉継は南東の方を向いた。表情が険しい。
「──どれも、あそこから漂ってくる獣臭ほどではありません」
そこには、松尾山があった。
元親は昨晩の内に、関ヶ原の戦いの最中に裏切り行為があったことを色あせた記憶の中から復元していた。
「警戒するべきでしょうな」
「然り。そちらは特に松尾山に近い。より、用心なされた方が宜しいでしょう」
人影が、足音もなく東からやってきた。
「物見からの報告がありました。『福島隊を先鋒に立たせ、敵が関ヶ原に進入してきた』とのことです。以下詳細です」
報告にやってきた親直は、そのまま、判明した限りの敵の陣容を口頭で述べた。それによれば、北東から伸びる中山道を下ってきた東軍は、開豁地に出るなり部隊を展開。影の主将と目されている三成や、最大戦力を率いる秀家が布陣する、天満山から伊吹山にかけた一帯に戦力の大部分を傾けているらしい。また、部隊の足並みがやや乱れているようで、接敵する時間に差が生じるようであった。
「向かってくるのは、合わせて一万と二千。数だけでいえば、こちらの方は手薄か……」
そう呟いたところで銃声が聞こえてきた。盛親を伏せさせていた北の方からであるが、まだ散発的なものだ。物見の報告の通りであるならば、あと半刻もしないうちにこちらも接敵するだろう。
「そろそろ我々も動かねばなりませんな。……備えはこちらもしておりますが、そちらもお気を付けくだされ」
そう言い残して、吉継は去って行った。何に対する備えかというならば、松尾山に対してだろう。
「さて、ようやくか」
銃声の密度が一挙に増した。これほどまでに濃密な射撃を行えるのは、日本広しと雖も、一領具足と後一つぐらいしかない。盛親が射撃を開始させたのは明らかであった。
「このまま、事が運べば一番いいんだけど……。まあ問題は、小早川がいつ頃動き出すか、か」
考えられるパターンとしては、『戦いが始まると同時』か、『趨勢を見極めてから有利な方に味方する』かのどちらかである。どちらになるかによって、手元の四千をどう振り分けるかが決まる。
「……まあ、後者だろう。動きを見るに、徳川に全てを賭けたわけではなさそうだ」
小早川は、伏見城攻略にも伊勢の平定にも参加していた。それが、この日になって突然、不審な行動をし始めているわけである。当主の秀秋が優柔不断なことも加味するに、未だ迷っているのではないか? そう思えてくる。
そうと決まれば、全力を以て正面に当たる。何しろ藤堂高虎を始めとする歴戦の猛将たちが、こちらに向かってきているのだ。生半可な戦い方では勝てるか怪しいだろう。
元親の下した前進命令が、金管によって伝達された。主の命を受けた一領具足たちは、一つの疑義も疑問も口にせずに、左足を前に出した。今の彼らの数は、四千人ではなく四個だった。何しろ、一人の逸脱者も出さず四個の連隊全てが、元親の采配通りに動いているのだから。あまりにも自分の思い通りに動くため、そうするように訓練を施した張本人ですら、どこか無機質なものを扱っている錯覚に陥ることがあった。
少し前まで不安視していた、比喩ではない『戦場の霧』も、徐々に薄れている。戦いが本格化する頃には、それなりに見えるようになっているだろう。
すぐ近くから喚声が聞こえてきた。大谷隊が戦闘に入ったようだった。敵の陣容が代わっていなければ、阿波で苦戦を強いられた藤堂高虎と戦っているはずだ。
「少しでも、あちらに割り振った方がいいかもしれないな……」
元親とぶつかるであろう京極隊は三千である。まだ援護を行う余裕はあった。
一つ、強い風が吹いた。伊吹山を舐め回すようにして吹き込んできた日本海の寒風。それが霧を幾ばくか晴らした。おかげで、視界が一段と開けた。
風見鶏ではないが、何となく風向きに合わせて視線を動かす。北から南へ。すると、松尾山が動いているのが見えた。
「……今か」
元親の予想は外れた。だが、悔いている暇さえない。小早川勢一万五千が麓に降りて来る前に迎撃態勢を整えなければならないのだから。
一領具足の快速であれば、全隊の配置転換は問題なく出来る。けれども、今まさに接敵しようとしている京極隊の存在が気がかりであった。流石に、彼らを追い散らしてから小早川勢に対処しようとするには時間が足りなさすぎる。
「一個連隊を置いて、残りであたるか──」
そう思った矢先、大谷隊が右翼を延伸してきて前方を遮った。言葉を交わすまでもなく、吉継の考えが伝わった。
「……任せよう」
一手で倍、いや、後続も含めれば四倍近くある敵軍を引き受けると吉継は行動で示したのだ。
彼の侠気を無駄にしまいと、元親はすぐに後退を指示し、小早川隊の下山地点へと兵を走らせた。彼もまた、四倍近い相手と戦わなければならない。せめて先手を取ったという優位性は確保しておきたかった。
戦場の喧騒が、関ヶ原盆地を満たし始めている。元親もようやく、天下分け目の合戦に参加しつつあった。
長いこと更新が途絶えてしまい申し訳ありません




